第二章 その八
少年は泣いていた。
少女はそれを知っていた―――彼がその涙を決して誰にも見せようとはしないことも。
少年に必要なものが何かを少女は知っていた。
彼には、支えてくれる誰かが必要なのだ。
支えてくれる誰かは、彼が強く立つために必要な存在だ。
その存在は、誰よりも強くなければいけない―――誰かを支えるということは、誰かよりも強くなければいけないということだ。
誰かに必要とされたときに、すぐにその必要に応じられるような、強い存在。
いつでも誰かを助けられるような、そんな存在。
完璧な存在―――だから少女は、立つことにした。
そして今の、彼女がある。
(これはいつの記憶だろう―――随分昔のことのような、気がする・・・)
五月姫は自分が転寝をしていた事に気付いた。
どうやら、気付かないうちに眠りこけてしまっていたようだ。
「会長もそうゆうときがあるんですねぇ」
感慨深げに自分を見つめる少女を前にして、照れ臭さが込み上げてきて彼女は笑ってしまう。
その笑顔を、この少女はどう受け取っているのだろうか―――。
「あ、そうそうその笑顔ですよ~。会長のそのキラースマイル」
なにやらニコニコしながら少女は欠伸を手で隠した彼女の前に「寝起きはコレです」と言ってマグカップを差し出してくる。
受け取って飲み干した彼女の胸のうちで、不思議な感情が芽生えてくるのを感じる―――これはなんだろう。
「そんなにキラーって言うほどなのかしら?」
「う~んちょっと表現に困るんですけど・・・すっごいぐって引き寄せられるような感じっていうか。すっごい自分の事を分かってくれてるような感じっていうか。『あっ、今通じ合ってる・・・』っていう感じっていうか」
言いながら自分が変なことを言っているのに気付いたのか、口ごもっていく少女を見て、彼女は不思議な感情がどんどん膨れ上がっていくのを感じる。
「あ、あはは、よくわかんないですね」
「ふふふ」
笑って誤魔化した―――でもそれが、嫌じゃない。
もうひとりの姿がないことに、そこで彼女は気付く。
「錦ちゃんは何処に行っちゃったのかしら」
「さっき『伝文を受け取らなくちゃいけない』とか何とか言って出て行っちゃいましたけど・・・あれ、そのとき会長寝てましたっけ?」
そういえばそんなことを言っていた気がする―――記憶はあるのだが、自分がいつ眠ってしまったのかが分からない。
「えへへ、ちょっと記憶喪失状態ですねぇ、まだ寝ぼけてます?」
「そうなのかも、もうちょっと寝ても良い?」
「いいですよん、でもその前にひとつ聞いていいですか?」
「なあに?」
少女―――流生の唐突な質問に五月姫はきょとんとする。
「その子、邪魔じゃないですか?」
ふと見ると、自分の腰に抱きついて眠っている幼女の姿が映る―――背中に草葉を生やした、竹草少女。
五月姫がエウレカと名づけた幼女は、すっかり彼女に懐いている。
「ぇぅちゃんなら大丈夫よ、すっごい軽いし」
「そうですか?気のせいかもしれないんですけど、ちょっと昨日よりおっきくなってるような気もするんですよね」
己の腹部に当てられた竹草少女の冷たい指が心地よい。
いつの間にやら取り込まれていた布団に彼女はもう一度横になる。
今度は竹草少女の頭を抱きしめて―――空虚な心が、胸に直に当たる質量によってやや埋められたような錯覚に陥る。
「寝る子はよく育つって言うものね」
「ですか?」
小さく笑った流生の小さな顔が遠くに見える。
そういう問題なのだろうか―――だが確かに、この少女は出会ったときからよく眠っている。
まるでそのときが来たら一気に活発になるかのような、嵐の静けさにも似たようなほどの睡眠量。
錦は無理矢理起こしたせいでとんでもない事になったと呟いていた。
きっとそうなのだろう。
なんにせよ、いまは自分も小さな安寧と安らぎに身を落としていよう―――そんな考えが五月姫の脳裏をよぎったあたりで、暗闇が再び彼女の目の裏へと落ちていった。
「あ、寝ちゃった。会長寝つき良いなぁ」
―――あるいは、疲れているのか。
流生は無理もないと思う。
当事者ではないからこそすれ、自分でも錦の話すことについていくのに精一杯だったからだ。
ひとまずそっとしておこうと考えた流生は、五月姫を残して寮を出ることにした。
今は独りにしておいたほうがいいだろう。
きっとこれから彼女は、いろいろ大変なことが待っているような気がする―――。
ぼんやりと考えていたことがある―――聡雅のこと。
(多分、彼氏の方があたしよりも何倍も事情通なんだろうな・・・)
不思議と胸のうちにあらわれた気持ちは、らしくもなく飲み下しづらいような複雑な種類のものだった。
苦々しいような、鬱陶しいような、それでも捨て切れないような。
切なくもあり、憎たらしくもあり、泣きたいような、泣きついてもらいたいような複雑な気持ち。
「あーっ」
それは単純なこと―――気に入らないというただそれだけのことだった。
自分を差し置いて、無視された気分。
自分が彼氏を引っ張っている気になっていたのに、いつの間にか彼氏の方が随分と先に行ってしまっていて、置いてけぼりになっている自分はどうしたらいいのか途方にくれてしまっているような―――。
考えれば考えるほど嫌な気持ちになっていく。
自分はどうしたらいいのだろう。
(だいたいあの夜だって・・・)
結局たいした言葉も交わさず分かれてしまって、訪れた週末。
彼氏からの連絡は当然、無い。
「ちょっと冷たいんじゃないの」
あるいは、危機感というものや緊迫感というものが根本的に無いのか。
ああだこうだと思案したり悩んでいるのは自分だけで、本当は向こうは呑気に欠伸なんかしてるんじゃないのか―――報われない。
「ああああああっ報われないっ」
もともと自分はあれやこれやと考えたりするタイプではないのだ。
こういうことには慣れていない。
(もういやっ)
思考停止。
現実逃避。
延長延期。
でもどっちにしたって同じ事だ。
結局逃避してようが向き合ってようが、状況は向こうから訪れるのだ。
あれやこれや考えることが負担だというなら、あえてそれを背負う事もない。
後ろ髪を引かれるような、しこりの残る気分を無理矢理切り取って捨てる。
そうすれば何もかも万事解決なはずだった。
だが彼女にやはり残ったのはいつもの感覚―――何かが、上手くいってない。その感覚だった。
(何か、肝心なことを忘れてる気がする)
何かを忘れている。
何かが上手くいっていない。あるいは、何もかも上手くいっていないのか。
「なにがだろう・・・なにがうまくいってないんだろう」
ぼんやりとその感覚を辿りながぶつぶつ呟いている彼女は、次第にその感覚が強くなっていくことに不安を覚えていく。
なにが―――
なにが―――
なにが―――・・・。
「流生様ッ!」
「ッ!?」
張り詰めた自分を呼ぶ声が意識を急速に引き戻していったのはそのときだった。
(ど、何処から?)
その答えは彼女の頭上にあった。
寮の壁面―――蒸したような空気を排出している室外機のすぐ横に、息を荒げたゴスロリ少女―――錦がいた。
その顔をみた流生は確信する―――自分の違和感の正体は、これだ。
誰になにがあったのか、など簡単に想像がつく。
それ以外の人間など思いつきようもない。
あのとき現場にいた人間はほとんど流生の近くに集まっているのだ。
五月姫、竹草少女、錦、そして流生。
この場にいないのはただ一人―――。
「お話があります、すぐに五月姫様とご同行ください」
「聡雅のことね」
錦の表情ですぐに分かった―――彼女は明らかに動揺していた。
まるで心のうちを見透かされたかのような、困惑した、不意を突かれたような顔をしていた。
答えを聞かなくてもわかっている―――図星だ。
「やっぱり、そうなのね」
やっと流生は自分が抱いていた感情の正体を知る―――ああそうか、自分はあの男のことが・・・。