第二章 その五
―――困った事になった。
聡雅は自身の状況を客観的に見つめてそう感じていた。
(どうしたものか―――)
置かれた状況に反して彼の意識が醒めきっていたのは、自身の置かれた状況に対する認識がいまいち掴みきれていなかったことが多分にある。
だが同時に彼をそのような状況に追い込んだ張本人を肉眼で捉えた際に、どうにもそれを信じることが難しかったからでもあった。
その張本人は、今―――彼の胸倉を掴んで引きずりまわしている。
声もない。
音もない。
息遣いすら感じられない。
さもなければ感慨すら見受けられない。
一方的な暴挙、一方的な戦い、一方的な攻撃。
最初は胸に衝撃が来た。
続いてそれは背中が叩きつけられる衝撃へと変わる。
アルバイト先から借りた自転車が横滑りに副都心交通の幅の広い道路を飛んでいく。はるか遠くでコンクリートとの摩擦音を上げている姿を目の端に納めながら、胸倉を掴むその正体を見たのが、ついぞ一瞬前のこと。
怒りを感じる暇すら与えられぬ、迷いなき、ブレなき、直線の放圧。
問答無用で迫り来る“実行力”を前にして、少年はひたすらアウェイ―――(嗚呼・・・次は吹き飛ばされるのか?)
そう感じたとおりに、聡雅の薄い胸板と丸刈りに近いツンツンした丸い頭が吹き飛んでいく。
耳に開いた三つのピアス穴を風が通っていく。
黒に似た濃緑色に変色した頭蓋を覆う毛髪が、同じ風によってぼさぼさと乱れていく。
頭上を暗色の地面が遠ざかっていく―――上下反転した世界で、少年はもう一度自分を投げた存在を視認する。
間違いない。
(間違いねえよな・・・これ、どうみても―――小学生だわ)
黒ではなく、かといって染めているようにも見えない。
暗灰色。
その髪を後ろで結わえている小柄な肉体―――テニス選手が履くような短いスカートと、同じような種類のTシャツに身を包んだ少女が持っているのは、ラケットだった。
少女の後ろ髪を結わえている、リボンが揺れる。
まるで部活動帰りのままやってきたような姿―――ひときわそのリボンが聡雅には目立って見えた。
(大きいだろ、そのリボン)
大きい。
淡白で簡素な少女のシルエットとカラーの中で、そのリボンの存在だけが異端だ。
主に黄色と黒で占められたパレットの上に、弱冠原色が数箇所混じっている。
既視感を感じる。
というより、記号化された連想を引き出すようなものを感じる―――何かを象徴しているのだ。
破砕音と砕けたコンクリートの放出する粉塵の中、割れそうな頭を抑えながら聡雅は立ち上がる。
彼は冷静だ。
(つーか、このシチュエーションそのものがデジャヴだわ)
彼はある少女のことを思い出して薄く笑う―――どうにも。耐性がついてしまったようだ。
「びっくり」
少女―――むしろ幼女と言った方がいいのだろうか。
呟いた言葉は驚愕の言葉だった。
「お兄ちゃん、どうして無傷なの」
「どうしてって聞かれてもな・・・そういう事は自分で考えろよ」
互いに初対面でありながら、こうもスラスラと会話が出来る事に聡雅は内心驚いていた。
心の挙動が安定しているのか。
やたらめったら理不尽である事―――それに対する、心の反応が鈍くなっているのか。
何にせよ彼はそれを好意的に受け止める。
「怒るような事を言われたから怒るなんて、退屈」だからだ。
(本当にその通りだな・・・)
激発的な怒りを遠ざけよ―――そんな言葉が脳裏をよぎる。
何にせよ、怒ったら負けなのだ。
笑って耐える者こそ―――本当の漢だ。
「結構、本気でぶっ飛ばしたつもりだったんだけど」
「だろーな」
否、痛みはほとんど無い。
感覚がどこか遠く、鈍いのだ。だがそれは好都合なことだ。
「マジ痛ぇよ」
擦過傷、切り傷、うち傷、ズタズタに引きちぎれた衣服がそれを示す。
だが幼女は、首を縦には振らない。
「トガメ、知ってる。お兄ちゃん、人間じゃない。でもだからって死なないわけじゃない。でも・・・」
幼女はそこで少し残念そうな顔をする。
「どうやら死ににくい。それ、可哀想。痛いの、ずっと続く。トガメ、本気出さないと殺せない」
カタコトで語る幼女の顔が、本当に悲しげな表情になっていくのを聡雅はどこか飄々と、滑稽に感じながら見ていた。
それが幼女に伝わったのか、幼女の眉間がやや寄せられる。
聡雅の口の端は―――笑いで歪んでいた。
「本気、ね」
「お兄ちゃん、何故笑うの」
「お前どーみてもせいぜい12歳か13歳くらいにしか見えないからさ。お前みたいなのが“本気出す”って言うと、ちょっと変な感じがすんだよな」
「・・・馬鹿にしないで」
「やってみろよ。お兄ちゃんが受け止めてやるからよ」
軽薄に笑う。
ああ、そうだ―――自分はいつでも、こうやって笑っていたい。
楽だからだ。
本当に楽だ。
横に立って、何の関係もないままに世界を見つめながら、それでいて繋がりを保ちつつヘラヘラ笑って生きていけたなら、どんなにか楽だろう。
息をする必要もなく、呼吸をする必要もなく、食べる必要もなく。
ただただケタケタと笑いながら、立ち尽くして世界を眺めていられたら。
悩むこともなく、ただぼんやりと欠伸をして生きていけたらどんなにか楽だろう。
当事者であることを回避したい―――いつだって自分はのんびりしていたい。
四苦八苦する他者や当人たちとは無関係でいたい。
すべての痛みや苦しみを、窓の外へ放り投げてしまいたい。
ブラウン管ごしに見える世界で、満足してしまいたい。
そうすればきっと、怒りなんてものとは無縁でいられるのだから。
(あーあー・・・)
世界が回転している。
自分の身体が真下に見えている。
(ふん・・・)
やっぱり滑稽だ。
自分の肉体を見て、やはり彼は思う。
自分はなんとも、中途半端な存在だ。
何が起きたのかはとっくに理解している―――弾け飛んだのだ。
「BYE―――案山子のお兄ちゃん」
少年の口からは声は出ない。
声帯が残ってはいても―――声帯を震わせる肺との繋がりが断たれてしまえば、意味などない。
ポトリ、と無感動な音が、閑散とした副都心交通に響きわたったのを、聡雅は聞いた。
それは自分のすぐ耳の下で響いた音だった。
それを見たものはあまりの事態に悶絶していたに違いない。
白昼堂々―――幼女が少年の首を切り落とすという事態を。
説明が終わってないのに事態を動かしはじめるのはどーなのか、とも思いましたが。
ご都合主義な展開はいやなので、事態が錯綜してるくらいが丁度いいかと俺は思う。