序章 回想その二
「誰もいないかぁ…」
どうやら先ほどの会合の解散で、生徒会員も直帰してしまったようだ。流生も副委員長の助けを得て、ひとまず学校端末からプラン・シートのフォーマット・データだけはダウンロードしたのだが、いまいち肝心の項目の意味するところが分からない。具体的にどういうデータを記入していけばいいのかを聞こうとしたら「その辺はよく分からない」と副委員長に言われてしまったのだ。
(明後日までに埋めておけとか書いてあるし…やっぱやるんじゃなかったーっ)
後悔の念に駆られるが、そもそも承諾したという自覚はなかったのだから、決定的な所でやはり彼女としては理不尽さを感じずにはいられない。何から何まで―――そもそも委員長になった事すら―――自分の意志だということに“なっている”だけで、それは彼女の思うところではなかったのだが、どうにもその辺は説明して分かってもらえるようなものではないらしい。
理由もこれといった正当性も無い自分の行動すべてを理屈と論理で説明して納得してもらう必要がある。だがそれは既に前提が矛盾している。
それほど物事を深く考えない流生の頭でも、何となくだがその辺の難しさは察する事ができた。
「あああぁぁああ」
一気に気分が重くなってくる。やはりやるしかない。
「適当に埋めて、駄目だったらやり直すしかないか…ぎゃっ」
(あだぁっ)
鈍い音が響く。彼女の額と木製の扉が反動で揺れる。彼女の視界も揺れる。
誰もいないと思えた生徒会室の扉が突然開いたのだ。半ば諦めかけていたときに突然開いたため、予想外の事態と接触の衝撃の両方で頭がくらっとしてしまう。
「あら、ごめんなさい?」
その疑問符には、暗に「大丈夫かしら?」という配慮と「私のせい?」というわずかな邂逅への責任転嫁があった。
「い…え、大丈夫なの、です」
(痛いし…)
言葉とは裏腹に弱冠の非難をこめて額を抑えながら頭を上げると、膨らんだ胸に視線が釘付けになる。
「あ…う?」
「私の胸をそんなにじっくり見つめられても困るのだけれど」
次に出す言葉が見つからず、じりじりと後ろに下がってしまう。
流生の身長が一五七センチに対して彼女の身長は一七三センチ。導き出される彼我の身長差は十六センチ。
ただでさえ半頭身低いのだから、頭を抑えて腰を落とせば鎖骨の辺りまで目線が落ちてしまうのは致し方ない。
「す、すいません…会長」
後ろ手で生徒会室の扉を閉めた五月姫が、こちらに向き直り、僅かに首を傾げていた。
(なんかすっごいドキドキしてるんですけどっ)
「さっきの会議でまだ伝わらなかった事があったかしら?」
まるで一目ぼれした相手を前にしているような動悸の激しさに襲われている前で、当の彼女は腰に手を当て、流生が胸に手にしているプラン・シートを見つけて言う。
あっ、となる。目的があって来たのだったという事実そのものを忘れていた。
(ええと、何が聞きたかったんだっけ)
必死で頭を整理しようとするよりも、五月姫の秀麗な口唇が開かれるほうが早い。
「いろいろ書いてあるだろうけれど、基本的にはあなたが必要だと思うことを書いていいのよ。そこに書いてある内容を私たちが勝手に解釈して必要な事は全部事務的に処理するし、足りない内容があればそのときは随時あなたに知らせていく形になると思うわ。結局プラン・シートなんてものは学校側に対する進捗度の報告や管理上必要な情報のまとめでしかないのよ。そもそも予定や計画の段階から完璧な報告は不可能なのだから、どうしてもその辺りは事態の進行にあわせて対応していく形にしかならない以上、やる前は多分いろいろと不安に感じることもあると思うけれど。実際に物事を進めてしまえばむしろそういう不安はなくなっていくはずよ。それでも進退窮まるような事があるのなら、そのときはわたしや生徒会の人に言ってくれれば、その処理も手伝えると思う」
ぽかん、としてしまう。今まさに流生が聞こうとしていた事を全部言われてしまって、二の句が継げない。
「その上でまだ何かあるなら、少しだけれど今時間を取れるわよ?」
「い、いえ…結構です、ど、どうもありがとうございました」
(なんなんだろう、この差は…)
そう、と言って微笑みかけてくれた彼女に、自分がある種の安堵感のようなものを感じている事を自覚する。
なんてことは無いのだ。単に「適当にやってね、こっちもそれにあわせるから」と言われただけの事なのだが、なんだか自分の感じていた事を言う前から言い当てられた驚きやら何やらで、自分の感じていた不安は一体なんだったんだろうと思わずにはいられない。
「それじゃあ、頑張ってね」
やや呆然気味の彼女を―――こちらもまたやや不思議そうな顔で―――見つめながら、彼女は少しだけクスリと笑い、通学用鞄を手に階下へと姿を消した。
最後まで生徒会室に残っていた以上、彼女もいろいろと何かをしていたはず―――立場的には彼女の方がすべき事は多いはずだが―――なのだが、そういう雰囲気を一切感じさせていない。さり気なく発言の端々にフォローも入っている。
まさに“完璧”(ザ・パーフェクト)だった。去っていく姿まで嫌味なくらい完璧だ。
(こんな人がいるなら…私って一体何なんだろ)
あれこれ悩んで行き当たりばったりでギリギリに生きているような自分の苦しみは、本当につまらない、下らないものなのかもしれないと心底思った。思わざるを得なかった。
「なんか、すっごい自信無くしたんですけど…」
こういう事をルサンチマンの蓄積とでも言うのだろうか。ここはむしろ張り切って頑張るべきところなのだろうが…。
深いため息をついてシートをもう一度見つめ、生徒会室を後にする。
後になってこのときの事を聡雅に言ってみると「それってお前が最初に『適当に埋めて、ダメだったらやり直すしかない』って言った事をもう一度反復されただけで、根本的問題は解決してないんじゃん」と事も無げに返されて仰天してしまったのであるが、このとき彼女を仰天させたのはもっと違う―――それこそ性質も事態もまったく異なる事だった。
ちょっとしたショックに立ち直れず、ぼんやりと彼女が帰路を辿ろうとしているときにそれは起こった。
本当に突然のことだった。
「飛行機?」
最初は、この時期によく鳴る風の音か何かだろうと思った。
上空で大気が轟き、うごめいているような感じは、五月から六月にかけては大気の動きが活発なのか、よくある事なのだった。
よくぼけっとしていると評される事がある彼女は、よくこの時期はただ何となしに空の音を聞いていたりするので耳慣れた音だったのだ。
ほんの少し、うるさいなぁと感じ始めて、徐々にそれが恐れに変わる。
(う、うるさすぎない!?)
その轟音が、どんどん近づいてきているように思ったのだ。
まだ校舎の中にいた彼女は、外で何が起こっているのかを知ろうとして、校庭側の窓へ目をやる。
外ではそれぞれ課外活動に勤しんでおり、誰も音には気付いていないようだ。それもそのはずで、彼ら自身が既に大声を出しているのである。自ら発する音の方が徐々に大きくなっていく轟音よりは大きいのは当然で、来月から大会を控えてただでさえ集中している神経に、余計な遠くの音は気にならない。
空を見るが、特に何の影も見当たらない。飛行機が飛んでいる様子も無い。空には消えかけた飛行機雲が、一筋の線で地平線から地平線を切り分けている。
彼女は怖くない。むしろこれから起こることに対する、ある種の予感が彼女を不思議な気持ちにさせていた。
(なにかくる!もうすぐくる!)
彼女の五感とは別の感覚が告げていた。果たして―――それは来た!
一瞬閃光が走ったように見えた。
“見えた”というのは、彼女が見たのは光源そのものではなく、あくまでそれが照らす壁やその刹那に切り出された深い影の方だったからだ。
そして続くのは破砕音。
その方向で、後ろからだと確信する。校庭側とは逆、裏校舎側の窓ガラスが割れた音に違いない、と彼女は瞬時に悟る。
振り向こうとして顔を左に向けた―――その右端の視界に今度は別のものが映って、彼女は注意を逸らされる。
最初の大きさは空中に現われた読点だった。白い読点は徐々に卓球程度の大きさになり、やがて拳大からさらに成長してソフトボール程度の大きさになり―――。
そして続いた破砕音。その方向で、グラウンドからだと悟る。
彼女が白い何かと勘違いしていたもの―――グラウンドから打ち出されたファールボールが、同心円状に細かなガラスを散らしながら彼女に迫っていた。
避けようという思考がそもそも間に合っていなかった。
彼女は最初に光に反射して振り向こうとしていた動作の最中であったから―――二重反射などできるはずもなく、容赦なく襲い掛かるガラスの欠片を前にして中途半端に顔を横に向けたまま…。
「あ」
間の抜けた、それこそ中途半端で台詞ともいえぬ音を漏らした。
だが、下手をすれば致命的な怪我につながりかねない不幸な事故―――前後のガラスが割れ、避けようがない彼女の無防備な肉体は、しかし一瞬後に痛々しい姿になることはなかった。
何が起きたかを彼女がそのとき説明することは出来ないだろう。目を閉じてしまっていたからだ。
ただ目を閉じたからこそ、そのとき自分を包んだ風とも重力とも言えぬような、何か不思議な力を感じ取ることができた。同時にその力が宙を舞うガラスの破片をさらに粉々に砕きながら、彼女を守るようにして弾いた事をも。
だからすべてが終わったとき―――それは時間にしてわずか一、二秒あるかないかであったが―――彼女はまたしてもぼーっと、ただひたすらに呆気に取られているしかなかった。
(あだぁっ)
落ちたソフトボールが彼女の頭に当たる。予想以上に跳ねたソフトボールは、割れた窓を通って裏校舎の方へ落ちていった。
そして一拍おいて、ガラスの破片が彼女を中心に円を描くようにして落ちる。張り板の床に跳ねて、粒や破片のひとつひとつが細かな乾いた音階を奏でる。
鈍い痛みがむしろ流生の思考をクリアにしたので、何が起きたかをおぼろげに理解する。
(ええっとソフトボールがファールボールかなんかで窓を割って飛び込んできて…)
その前に何かが反対側―――裏校舎側の窓を割って飛び込んできていて、流生の頭上でぶつかりあったのだ。
ひとまず自分の身体が安全であった事に安堵すべきなのだろうが、いまいち起きた事柄に対するリアリティが掴めない。
「すみませぇええん!」
だいぶ遅れて耳に届いたソフト部の誠意の欠けた謝罪の声もどこか遠い。
窓から顔を出すと、キャッチャーミットらしきものを片手に下げた少女が頭を下げていた。
曖昧に頷き、微笑み返してから、背後の有様を確認する。
ガラスが散らばっている。それは当たり前だ。
だが他の“もうひとつ”は―――?
「これは、なあに…?」
彼女をガラスとソフトボールの直撃から救った存在が、無造作に廊下の隅に転がっていた。
(植物…の種?)
大きさに反して、瞬時に彼女がそう理解することができたのは、ひとえにその物体に生えている青々とした双子葉が目立っていたからだ。
ただし青々といっても、どちらかといえば緑よりは本物の青の方だったが…。
恐る恐る触ってみる。
それはソフトボールよりも小さい、手のひらに納まってしまいそうな程度の―――それでも充分、彼女の知る“普通の種”よりは大きいが―――表面が金属のような光沢を放つ不思議な楕円形をしていた。通常と異なるのは綺麗な楕円形ではなく、その所々に節くれだった部分や尖った部分があり、何よりも無造作に生えた双子葉の形が、葉というよりはそれ自体がまた別の種なのではないかと錯覚するくらい分厚いプレート状であるところか。
触感は非常に硬く、表面は滑らかだが、不思議な事に彼女はぬくもりを感じた。
(生きてる!)
中に生命を感じるのだ。脈打ったとか一瞬震えたとかはなかったが、それでも確かに“生きている”のが彼女には感じられたのである。
これは彼女のこれまでの人生で感じたことの無いものだった。
見た目はどうみても無機質で生命など宿りそうも無い物体に、ぬくもりを感じるということが彼女には初めての経験だったのである。
だからその異常性よりもまず、好奇の方が勝っていた。
じっと彼女はしばらくの間、その種を見つめていたが、誰かが近づいてくる音を聞いて咄嗟に持っていた通学用の鞄に押し込む。
素っ頓狂な声で安否の配慮と事態への混乱がないまぜになったような台詞を次々と吐き出す教師の台詞をほとんど聞き流しながら、彼女は「大丈夫ですから」と言ってその場を立ち去った。
鞄越しにでもたしかにその生命を感じていた彼女はそのことで頭がいっぱいで、頭を下げるソフト部の後輩達の声にも流すような事しか言わないまま、ただにこにことしていたため、その姿に逆に不信感と罪悪感を感じてしまった後輩が「保健室に連れて行った方がいいんじゃないか」と提案する始末だった。