第一章 その十八
(こいつは、誰だ?)
一方鴉の方は、突如として現れたこの美を絶すると表現しても足りない少女を前にして、大いに戸惑っていた。
だが流石に鴉といえど、気付いて然るべき点があった―――何故、この取るに足らぬように見える少女を前にして、自分がこれほどまでに動揺するのか。
騒ぐ血に問いたずねるべきだった。
何故なら彼は―――彼だけでなく、太古から流れる血が、彼女を前にしたときに生じた感覚を覚えていたからに他ならない。
「あなた、名前は?」
平然と清らかな歌声が響くような声が、少女の問いをせせらぎのように染み込ませていく。
(“名前”…だと)
馬鹿馬鹿しい問いだ。
場違いで
世間知らずで
お嬢さまで
のんきで
のほほんとしていて
他愛もない
くだらない
そんな―――ただの質問だ。
「は?そりゃあ俺の名前はよ…」
だが鴉は初めて気付く。自分はその質問に………―――
(答えられない、だ、と……ッ!?)
意識したことすらなかった。
おかしい。
自分の名前は何だ。
例えば錦。
生命として曖昧たる彼女もまた、いわば魔物―――“造形生命”のひとつに違いない。
あえていうのならば彼女は蛇だ。
だが、それ以上に―――それ以前の話として、彼女は『錦』、だ。
“造形生命”であり、女であり、主たる魔女に使える従者であり、下僕であり、弟子であり、そして―――錦である。
それは彼女の主である当方魔女連盟。その党首たるガラスの魔女によって名づけられた彼女の固有名詞。
セカイと自分を唯一切り離すためのもの。
生命を生命の型から切り離し、唯一の自我と唯一の個を手に入れるために、最初に与えられる記号であり、称号であり―――そしてそうであるが故に人が背負う、宿命という名の“チカラ”と“ノロイ”。
だが、自分は?
一体いつから自分は名を失った―――?
固有名詞の不在―――その瞬間、鴉は気付く。
自分の存在の本質が影であるという本当の意味。
何故影であるのか。
名前がないということと、影であるということ。
その本当の意味と、粘土細工のような自分の生命。
自分の太古から流れる血が失った、宿命という名の役割が、名と共に奪われたというおぼろげな事実―――自分は鴉であることの他に、何もないのか?
「名前がないならわたしが今からつけてあげましょうか?」
「黙れ貴様ッ!」
「会長あぶないっ」
咆哮をあげる鴉が、通れないと知りながらEXITの狭い空間へと身を躍らせる。
激しい激突音と摩擦が奏でる圧迫と圧力が大気を振動させ、気圧が上昇していく様が肌で流生と五月姫へと届く。
影が押し寄せる。
丸まった影が、闇となって押し寄せる。
そこから羽のような分身が次々と顔を出す。
それは人と鳥を混ぜたような曖昧な姿をしており、ひとつひとつが異貌。ただ一点―――怖気が走るような狂気の走った目だけがやけにギラギラと輝いている、真っ黒な全身。
その一体が五月姫に襲い掛かる。
「会長っ!」
「大丈夫よ」
自信にみなぎった台詞がその美貴なる口唇から紡がれると同時に、彼女の可憐な右腕がその黒き鴉の分身に触れる―――否、突き刺さる。
あっ、となる暇もない。
ただ悠然と微笑み、彼女は言う。
「鳥の格好なのね。なら―――とりあえず苗字はテバサキという事でいいかしら?」
その瞬間、全身が黒かったはずの鴉の分身の姿に、一瞬色彩があふれ出す。
赤青黄緑紫白茶橙がその体中を蹂躙し、埋め尽くし、飲み込み―――そして無残に千切れてズタズタに分かたれ、ボロボロと崩れていく。
「テバサキ、テバサキ…名前って結構思いつくの大変なのねえ」
そういう彼女が次々と分身たちを片付けていく。
その様子を驚嘆するような目で流生は眺めていることしかできない。
その背が戦慄でわなないている。
(なんなの…まるで、これじゃあ)
崩れて床に散らばった分身たちが、どんどん溶けていく様子を彼女はみつめていた。
まるでそれは―――それはまるで何かに喰われているかのようだ!
(何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ)
だが鴉の驚愕は、流生とは較べものにならない。
この少女は一体何者だというのか。
何故このような存在に自分は圧倒されている?
この自分が。
太古から存在する“種喰い”を基にして造られた強力な“造形生命”たる自分が、たかだが偉そうな小娘一人に何故蹂躙される。
こんなお嬢に!
こんな子供に!
こんなチビに!
どういう巡りあわせで自分はこの状況に置かれたというのだろうか。
だれがこんな事態を予想できた。
一体どこで失敗をした。
いつ失態を犯した。
(お、俺は失敗などしていないはずだ―――いや、違う!)
そう、違う。
失敗などという次元などではない。
そして彼は既に過去に同じような経験をしていたのだ。
ミスをしたとか、分かっていながら避けられなかったという次元ではない。
そいつらは、あっという間に押し寄せてきて、強い流れを連れてきて、自分はそれに巻き込まれた。
流された。流されるしかなった。
とてつもない力を前にして、なすすべがない。
正確には彼ではない―――太古における彼の影の大元=生命の型たる本来の“種喰い”たる鴉が、名前を奪い取られたまさにそのときに…!
誰に奪い取られたのか。
答えは簡単だ。
鴉は魔女の下僕―――魔女によっていじられた生命!
(俺は下僕として造りかえられたとき―――名前を失った…!?)
そして、今新たな名前をつけられようとしている。
彼は既に気付いている。
自分が名前をつけられようとしている今、影たる無限の生命が、その本質を変質させ、徐々に性質を変えようとしていることに。
(や、やめろ…)
動揺する。
やめろ、やめてくれ。
勝手に俺に名前をつけるな…!
勝手に人を決めるな!
勝手に枠に押し込めるな!
勝手にそういうことにするな!
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ やめろやめろ
やがて鴉の醜い双眸―――そのまさに眼の前に仁王立ちになった少女が、満開の花弁のような豊かな表情で微笑みを向けてくる。
瞬時に鴉は自分の姿を覆い隠す。
代わりに五月姫の前に現れたのは、黒を基調としたパーカーにカーゴスタイルのパンツ。
口に三つならんだピアス。
薄化粧でもしているかのような白い顔。
目元に二本の筋。
骨ばった指先。
道化師のような―――少年の姿がそこに現れた。
それを見た五月姫の目が、柔和な曲線を描いて歪む。
「決めた―――手羽先 九郎くん。君、九郎くん。よろしくね」
名前。
それは存在を歪められる呪い。
曖昧で勝手で、適当で、本質など見えちゃいない―――そんな呪い。
鴉=九郎は気づく。
自分がこの少女に感じていたものの正体―――既視感!
彼は知っている。
彼に流れるオリジナルの血が知っている。
(こいつは―――魔女だ!)
名前を奪ったのもまた、魔女。
ならば新たに名前をつけるのもまた―――魔女。