第一章 その十六
鋭い痛みが随所随所で身体の部位から叫び声を上げてくる。
小さな傷から大きめの傷まで、身体が軋みを上げて異常を訴える。
だが錦はそれを無視する。
そんな余裕はない。
前方を走る男―――聡雅の顔もやや険しい。
(俺は、勘違いをしていたのかもしれねえ…)
聡雅は改めて、錦や鴉という存在の特異性を思い知らされる。
例えば鴉の―――自分という自己意識が分裂して同時に、並列に存在する、という感覚を人間は理解できない。
身体の固有感覚すら、まるで粘土細工か何かのように切ったり貼ったりできるような薄気味悪さ。
それと似たものがあることを聡雅は知っている―――そう、まるでそれはドッペル・ゲンガーだ。
だがそれは脳の自身の肉体を認識する固有感覚が乖離しているだけに過ぎない。
本来目をつぶっても何処に自分の手足があるか分かる―――その感覚が狂ってしまっているに過ぎない。
(つまり鴉の場合は―――)
本質が影である―――その意味をようやく聡雅は理解する。
奴は“こっちは本体じゃない”と言った。
だがそれは、あくまで鴉の感覚でしかない。
人間的な感触、観点で言えば、分裂した主体もまた同様に自己であるはずだ。
人間自体そもそも細胞を分裂させることで、ひとつひとつが年月を経るごとに一新させて成長していくものであり、数年後の自分と数年前の自分ではまったく構成している細胞が異なる―――文字通り古い自分と新しい自分が存在している。
しかしだからといってそこで自我や自意識が分かたれるわけではない。アイディンティティーはやはり“そこ”に保たれ続ける。
成長した姿を見て、人はそれを別人であるとは認識しない。
だが鴉の場合はそれがやや―――極端だ。
現在進行形で別の自己と異なる自分が同時に存在する。
にもかかわらず、平然とそこで自分を“ただの分身”と言い捨て、いとも簡単に自己を否定し、別の本体の存在を主張する。
そして集合し、拡散し、そしてさらに集合する。ひとつになり、ふたつになり、またひとつになる。
それはまるで、子供たちがヒーローごっこをやるときに遊びでやるような―――やられてもやられても「フハハ、煙の中からまた現れたぞ!」というような、果てしない連鎖―――断つという発想すらその前では無意味なような不死身で不死の、存在の無限の感覚。
個々の機能や行動、形態はどう見ても人間のソレと遜色ない―――では一体、そもそも生命とは何だというのか。
「なあ錦」
「なんですか」
「魔女が生命を造るってどういうことなんだ?」
そんな話をしている状況ではない―――場違いと知りながら、それでも聡雅はその事について考えずにはいられない。
「お前達はつまり“造形生命”…なのか?」
魔女に仕える魂、魔物。従者。弟子。
だがそれは身分でしかない。
聡雅が男であり、少年であり、学生であるのと変わらない。
だが、そうである以上に聡雅は―――元人間だ。
なんであれ、本質は常にそこにある。
では彼ら―――錦や鴉は…?
その本質は、どこに?
「聡雅、例え魔女といえど―――誰も生命を一から造ることなどできはしません」
察しているのか、あえて質問の本意をズラして答えた錦の声が、聡雅の思考をさらに巡らせていく。
そんなことは分かっていた。
であればこれは正しいのか―――この仮説が正しいということでいいのか。
(あるいは人間の生命も、影ということなのか?生きて目にしている存在も、あるいは今の自分もどこかに本体があって、これはそのただの影だっていうことか―――?)
生命をいじるということは、つまり影を作っている大元である型を変えてしまえば、自然に影も変わる。
そういうことなのだろうか―――?
(そして俺は既に変わってしまっているということか…)
ひどくそのことに対して彼はぞっとしない気持ちを抱いていた。
(なんでだ)
そして同時に、納得がいかない。
何が。
(なんで俺、こんなに“どうでもいい”って思ってるんだ…?)
ただひたすら、そのことだけが、彼の中で引っかかって離れない。
「聡雅ッ!」
「ッ!…おう、なんだよ?」
「ぼうっとし過ぎです」
「うるせぇよ…」
「気になっているのですか?」
「え?」
聡雅は虚を突かれる。
「鴉を本当に倒せるのか、そのことが気になっているのでしょう?」
少し、言葉に詰まる。
なによりも「こういう言い方が錦にも出来るのか」というやや新鮮な驚きが聡雅の心を満たす。
「ああ、まぁ…」
「いいでしょう」
そんなところだ、という言葉は錦によって掻き消される。
「見せてあげましょう、どうやってあいつを倒すのか。まぁ―――というより鴉は魔女でないと倒せませんが」
「つまり、お前じゃなきゃ、倒せない?」
それがいわゆる過信の類ではないことは聡雅には分かった―――それはシステム、ルールのようなものだ。
火が燃えるには酸素が必要なように。
最初に錦の蛇が鴉の分身を喰らったときの様子がまざまざと聡雅の目によみがえってくる。
もとの生命が同じなら、喰うということはつまり…―――!