第一章 その十五
木製の床がきしむ音が、静かであるはずの図書館の中をしきりに跳ね返る。
きしむ音どころか、どたどたと重量感のある重い響きが空間を遊び飛んでいる。
それどころか何かが―――確実にそれは本棚であることは間違いない―――倒れる音と、何かが飛び散る音―――確実に本である事は間違いない―――が、そこらじゅうで弾け飛んでいる。
その音の先頭に立って走る彼女―――流生が、今足を突っかからせて転びそうになるのを必死にこらえている。
彼女の頭の中で、錦が述べた言葉が反芻される。
確かに彼女はこういっていた―――『流生様はどうか“種”の方を。窓を閉め切って誰もいれないようにしてください。それでも誰かが入ってきてしまった場合は、どうぞ遠慮なく逃げてください。私の事も“彼”の事も気になさらぬよう…そちらの方はわたしが責任を持って引き受けます故』。
「そりゃ確かにそうは言ってたけどさぁ…」
息が切れそうになるが、それでも彼女は足を止めるわけにはいかない。
目指すはあのヘアピン・カーブ。
「確かに“誰か”が入ってくるかもしれないのは分かってたけどさぁ…ッ!」
本棚の角を急カーブで曲がった彼女が、速度を落とさぬままさらに前へ前へと駆け出した次の瞬間、木製の棚に衝突する強く重く、それでいて鈍い音と羽毛が飛び散る残響音が彼女の耳膜を揺るがす。
それを耳で認識しながら彼女は半泣きで叫ぶ。
「だからって化け物が来るとは聞いてないんですけどおおおおおおおおお」
その背後を四足の鋭い鉤爪を床に立てて軋ませながら、半ば滑るようにして彼女へと距離を詰めようとする羽毛と嘴の異形―――鴉の姿があった。
突き立てる鉤爪は木製の光沢のある床で滑ることで、かえって獰猛であるはずの動きを鈍くしていたが、それでもまるで何か狂ったかのように一点だけを見つめて離れないその視線と双眸が十分恐怖を感じさせるに足る狂気を走らせていた。
「くぅぅ…ッ」
流生の脳裏で錦の言葉が繰り返される。
―――“どうぞ遠慮なく逃げてください”
「言われなくっても逃げるってのおおおおおおお」
―――“私の事も彼の事も気になさらぬよう”
「そんな余裕ないからああああああああああ」
―――“そちらの方はわたしが責任を持って引き受けます故”
「ていうかこっちも引き受けてええええええええええ」
流生は知らなかったが、今この場で見せている姿こそが鴉の本当の姿なのであった。
既にその姿はただの鳥ではない。
二本の鉤爪のある手と、一本だけ存在する後ろ足で身体を支え、不恰好に狭く窮屈な本棚の間をわさわさと翼を開いたり閉じたりしながら迫り来る。
聡雅が鴉に対して抱いていた疑問、“相手の姿かたちが分からない”に対応して答えるとすれば、即ちその存在は―――一言で言えば“異形”だと言えた。
文字通りのカラスではない。
外観だけ見れば確かに化け物だが、しかし“影という名の本質”を見るあたり、決してただの奇怪な生物とはいえない。
それは鴉の背後に蠢く溶けた闇が証明していた。
そう、その下半身はどろどろに溶けて闇に混ざっているのだ。その闇ごと、身体を引きずって流生を追っている。
鴉はあくまでその上半身しか晒していない―――明らかに生物とは一線を画す“何か”だ。
怪物とか怪獣などという次元ですらない。
まさに、異形。異能。異貌にして異質なる存在。
流生は無意識に深く意識したり認識する事を避けることで正気を保つ事に成功していた。
もしこの立場・配役が聡雅なら、その存在の非常識性に真っ先に気付いて発狂しかねない。恐らくは魔女が最初に聡雅に接触したのもそのため―――だがそれは今の流生の状況を救う事にはならない。
何にせよ彼女の危機・危険に際して、彼女を救うのはもっと違った情報でなければならないはずだ―――例えばこの異形のから逃げ切るために、彼女は何をすべきか、とか。
(分かってる…ッ、分かってんのよッ)
何を分かっているのか―――彼女は自分が胸に抱いた、緑色の少女の事を考える。
明らかにそのせいで彼女の足取りは重く、息も上がっているが、それでも彼女は“ソレ”を放さない。
錦と別れた後すぐに観測室に入った彼女は、事態を把握するのに数秒とかからなかった。
ただそのまま現実を受け入れる事にした―――“これは、種だ”と。
そして逃げている今、別の事も理解している―――“あの異形が狙っているは種=少女だ”。
逃げるためならば真っ先に捨てるべきもの―――他者。
それでも彼女は、放さない。
理由といえるようなたいそうなものなどない。
ただ流生にとっては、その行動が自然に思えたというだけの理屈でしかない。
それでも彼女は―――背や太ももから笹の葉のような青々とした葉を茂らせた、小さな小さな竹草の少女を放さない。
異形という点ではどちらも同じはずだ。背後の異形も、今自分が抱いている、全長一メートルにも満たない幼女も。
そこに違いなどないはず―――では流生の行動はどう説明されるべきなのか。
これは贔屓なのか。
あるいはある種の自然淘汰に介入している流生の行動は、おごり昂ぶった人の我侭の一種に過ぎないのか。
ただ自分が好むものを助け、恐れ忌み嫌うものを排除する。
そんなヒトの醜さがここで現れているに過ぎないのか。
あるいはそれがヒトの感情移入の限界なのか―――その恣意性が滑稽であるのか。
肝心なのは―――
(分かんないけど…分かんないけどさッ)
一目散に彼女が目指しているのはある一点。
その一点が、ようやく彼女の手の届くところへと姿を現す。
「入りぐちいいいいいいいいいいい」
EXIT―――どう読んでも出口だが、それはちょっとした認識の差に過ぎない。
どちらも正しい。
背後から奇声が上がる。
異形もまたスパートをかけて彼女を背後から追い上げる―――敵もまた察している。
だがもう遅い。
走る彼女が駆け抜けたその空間は、異形の巨体には狭すぎて…―――
「ぐごおげえッ」
やけに人間的な声が、醜悪なその口から飛び出す。
肩の当たりでつっかかって身動きが取れなくなった鴉がこちらの方を見ながらもがもがとあばれていた。
翼がもがくときに、方々に羽毛がぶつかる―――先刻の自分を襲ってきたカラスの群れを思い出して、流生は鳥肌が立つのを感じた。
「か、観念した?」
「あ?なめんじゃねーぞクソガキ」
「ひいいっ」
ほんのすこし心に余裕が生まれた彼女が、ほんのすこし稚気を起こした挑発は鴉を容易に怒らせる。
「あー…でも本当に抜けそうにねえなこれ」
「ふ、ふーん?」
「つうかよ、お嬢ちゃん。“それ”重くねえか?」
下卑な笑み―――異貌でもそれと分かるような笑みを浮かべて、やけに親しげに鴉が話しかけてくる。
だが姿が姿だけに、流生の警戒心がそれで緩む事などありはしない。
「べ、べつに重くないし!」
彼女は緑の少女を抱きなおす。
「やけにこだわってるみたいだけどね。アタシは絶対渡す気なんてないからねッ」
そう、そのことだけが明白だ。
理由も理屈も、何故そうなのかも分からない。
だが、一重にこの点―――自分は、この竹草少女を渡す気だけは毛頭ない。
これだけは明確なのだ。
ならば、迷う必要など、どこにもない。
何がどうなっているのか。一体どういう風になっているのか。自分がどうすべきなのか。
それ以上に勝って―――自分がどう思い、どうしたいのか。
それだけが明確なら、他はすべてそれを補強するための武装に過ぎないということが。
「なんだそれは…お前ガキかよ。いや、ガキなのか…まあいいよ、とにかくよ―――“ソレ”置いてけ」
「置いてけ~♪とか言われて本当においていく馬鹿がどこにいますかッ」
舌を出して強がる流生だったが、その実は震えを必死に押さえていた。
それでも彼女は放さない。
だがそろそろ誤魔化すのも限界だ―――真正面から捉えてみて、やはり気付く。
「いい加減ぶち殺すぞ、お前」
「…ッ」
突如鴉の目が白く反転し、狂気をはらんだ双眸が再び姿を現す―――やはり異形!
最初から押さえていて、うまくいっていたはずの恐怖がそろそろ実感としてかたまりつつあった。
理屈も論理も、それどころか倫理など持ちようがない程の圧倒的なまでの違いが再び彼女の面前で露出する。
「お前、ちょっとそこで待ってろや、今殺しにいくからよ」
そう言ってEXITから顔を引っ込めた鴉が、別の入り口―――例えば窓を求めて図書館内を見渡し始める。
(も、もう無理!)
当然、踵を返して逃げる。
だが―――何処へ?
何処へ?
何処へ?
何処へ?
何処へ?
何処へ?
何処へ?
何処へ?
他人を巻き込まんとする彼女の意志と、彼女が今相対している恐怖とか激しくぶつかり合う。
だが理性的に考えて、誰も彼女を助けてくれそうな人は見つかりそうに無い。
あるいは錦なら可能か―――でも彼女は何処へ?
結局同じ問題へと堂々巡りする思考。
時間が経ったからこそ如実になっていく自分に襲い掛かってきている異常事態。
危険。危機。
何の危険か。
生命の危機。
走る彼女の足が限界に達するその寸前。
「あっ」
救世者が現れた。
「あら?流生さん?」
「か、会長ぉぉぉおおお」
救世者――――――?
お待たせしました―――(してたのか?)
最新話です。読んでくれている方がいるのか、いたとして楽しんでもらえているかは分かりませんが。
いい加減第一章もさっさと終わらせたいと思いますが、それでもやっぱり
不 定 期 更 新 で す (笑