第一章 その十一
視界が回転する。
宙に舞っているというのは分かる。
だがそれ以上に、ワケが分からない。
だがそれは事態を冷静に見つめて分析した結果というより、既に事態が起こる前―――それはせいぜい数コンマという程度の時差だが―――に何が起こるかがある程度見えてしまっていて、そしてその通りになったというだけかもしれない。
道路を飛び出して車に轢かれる直前に「ああ、やっぱりこうなったか」というときのような―――それ自体はふいに自分に降りかかってきたというよりは、それが自分に降りかからんとするまさにその直前にある程度その事を心のどこかで自分は理解していて、どこか醒めたような気持ちでそれを見つめていて、いざぶつかったときはもうひたすら気持ちが動転しているときのような感覚に近い。
石に蹴つまづいて転ぶときも、まさに転んで自分が倒れんとする瞬間に人は「自分は転ぶ」と認識するのであって、まさに転んだその時点ではひたすら「痛い」とか「焦るんじゃなかった」という後悔とか―――多くが主に自分の内面に向かうものであり、自分がどうなっているかやそのときの自分の冷静な気持ちや感想というのは出てこないものである。
もしそういった心象風景が色彩豊かにあふれでるとき、それはまさに『走馬灯』を見ているときなのであり、その点で言えば自分は仮にあそこから落ちてしまったとしても死にはしなかったからこそあんなにワケが分からなかったわけで、まだまだ走馬灯を見るときではなかったのだな、などと後から流生は考えて思うのだった。
そう、彼女は窓から吹き飛ばされて宙を舞っていたはずだった。
はずだったのだが―――。
「えっとね、何かね、平気よ。びっくりするくらい今落ち着いてる。うん。今なら爆弾解除とか余裕で出来そう」
「そ、それはよかったです…」
変な例えを使ったせいか、疲れたような顔で錦が自分を見ている。
とりあえず自分は今、この少女によって救われて、無事助かって図書館の一角でへたり込んでいる―――隣で錦という少女もまた、自分の方を見ている。
そんな彼女の様子を見て、流生は少し不思議な気分になる。
彼女が錦に抱いていた印象は、一言で言って―――変な下級生だった。
彼女は聡雅とはまた違ったタイプで孤立しているように見えた。
一言で言えば、超然としすぎているのだ。
聡雅がどちらかといえば周囲に対して油断なく目線を走らせており、真っ直ぐこちらを見つめてくるのに対して、彼女はむしろその真逆―――ある一点だけを見つめていて、他のことなど眼中にないという雰囲気だった。
まるで他の者など意に介していない―――興味などない。
完全に彼女の前では様々な者や事柄がアウェーなのだ。
聡雅は自分自身で他者に近づく余地があるが、彼女の場合はそれが一切ない。
自分が歩み寄るべき要素など何処にもないと思っているようですらあり、それが周囲の人間にも直線で伝わってくるような徹底ぶりなのだ。
本来ならいじめられてもおかしくない―――なのに彼女のそのような姿勢を前にして、むしろ見た者は気圧されてしまう。
だから多くの者は彼女を特別として扱う。
たしかに遠巻きに眺めている分には面白い。日本人形のような清楚で可憐な少女が、超然と生きている様はどこかそれが自然なようでもあり、どぎまぎするような仕草ひとつひとつが新鮮なのだ。
だが―――彼女自身はどうだったのだろうか。
「流生さん、状況を説明している余裕はあまりないようです」
その事態の中心で、実際に生きていた彼女自身は何を思って日々を過ごしていたのか。
「…大丈夫ですか?」
「あっ、ごめん全然話聞いてなかった!」
取り留めない思考に沈んでいた流生は、錦の言葉を聞き流してしまっていた事に気付いた。
だが錦はそれを気の疲れと受け取ったのか、ぎこちなく静かに背中に手を添えてくる。
それがいたわりだと気付くのに、流生は数瞬の間を要した。
「だいじょぶだいじょぶ、それで何?」
「簡潔に説明します。私はあなたが育てている“もの”を知っています。どこで育てているのかも聡雅から聞きました」
流生は少し驚くが、その言葉で合点がいく―――昼の件はその事だったのだろう。
「私はある方の命であなた方二人の下へ遣わされました。あなたと、あなたの“種”を守るようにと仰せつかっております。詳しく今は説明は出来ませんが、あなたとあなたの“種”は狙われているのです」
「“守る”の?」
「はい、あなたと“種”を」
流生はぽかんとしていた。
仕方のないことだったが、錦はやや苛立ちを感じた。
先程から様子がおかしい―――あれほど騒いでいた“鴉”たちがなりを潜めてしまったかのように静かだ。
外で何かが起こっているのだ。
だが今はひとまず流生の方を保護する事が優先だろう。
「ねえ、錦ちゃん。“種”とあたしを守ってくれると言ったけど…あなたが守る人の中に聡雅は入っていないの?」
「はい?」
予想外の質問に錦は面食らった。
そういえばその通りであった―――彼女からしてみれば聡雅もまた庇護対象であるべきなのだ。だがその名前が彼女の口から出てこなかったので、流生はきょとんとしていたのだ。
しかし魔女や“種”からの観点で言えば、聡雅は守られる立場ではなく、守る立場のものだ。
「いいえそれは…」
「あ、そうだ!!聡雅は大丈夫なのッ?こんなことしてる場合じゃなかったのに!!」
それを説明しようとして、突然流生が立ち上がって切羽詰ったような挙動を見せ始める。
「こうしちゃいられないわ、聡雅はどこ!?あいつが今やばいのよっ、いつもぼーっとしてるからこういうとき危なっかしくてしょうがないの!」
彼女を落ち着かせようとして、錦はふと別の事に思い当たる。
そもそも流生は何故窓から図書室の侵入を試みたのだろうか―――?
なんだか、その事にはとても重要な意味が隠されているような気がした―――それ自体に意味があるというよりは、そうなる原因の方に意味があるような…。
「流生様。あなたはもしかして、何かから逃げていらしたのでは…?」
「それがね、鴉よ?ただの鴉がとにかくすんごい群れになって、そんでぶああああっって襲ってきて」
要領を得ない彼女の説明は、それでも錦に現状を理解させるのに充分の情報を持っていた。
「よくわかんないけどあたしが狙われたって事は、あいつも狙われるって事よ!これはもう確実!あいつは絶対そんなことに気付かないでぼーっと日なたで欠伸なんかして―――」
「分かりました、今から私が彼の下へ行きましょう。流生様はどうか“種”の方を。窓を閉め切って誰もいれないようにしてください」
「窓を閉め切ってればいいのね!」
「それでも誰かが入ってきてしまった場合は、どうぞ遠慮なく逃げてください。私の事も“彼”の事も気になさらぬよう…そちらの方はわたしが責任を持って引き受けます故」
実際は流生よりも聡雅の方が事態にずっと近い状況にあったのだが、この場でそれを述べる事は時間のロスだと判断した錦は、流生に小さな指示を与えて即座に聡雅が向かった屋上へ向かうことにする。
「あ、あの…錦ちゃん?」
ふいに流生が彼女を呼び止める。
錦はその声に足を止めて振り返る。
「なんでしょう?」
「その…錦ちゃんは大丈夫、なの?」
ふっ、と錦は笑ってしまう。
流生―――この少女の頭の中は本当にごちゃごちゃしていて目まぐるしいのだろう。
次々と気になる事が頭の中をぐるぐる回っていて、入れ替わりたちかわりしているのだ―――そして今は錦の事が心配なのだ。
それを素直に口に出してしまうくらいの、とても良い子だ。
錦の後ろで、流生と話しているときもずっと具現化していた大蛇がうねる。
流生はそれを見ても、もう動じていない。
「ええ」
錦は微笑む。
「私は魔女の従者ですから。どうかお任せ下さい」
曖昧に頷いた流生を背後に、錦は駆け出す。