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第一章 その十




 にしきは焦っていた。

 自分がついぞ反射的に攻撃してしまった相手が、実はただの同じ学園に通う学生―――しかも恐らく自分より学年が一つ上の女学生―――であった事は、その原因のひとつではある。

 また気に食わないあの男―――聡雅さとまが自分のペースを乱して勝手に独走し始めた事も、いくらか自分に影響を与えている事は否めなかった。

 ラビが自分に彼らを任せたのは、恐らくは“種”の使命に対して不慣れな面をサポートせよという意味であっただろうから―――もちろん事の核心や真意をストレートに伝えないラビの内心は彼女自身窺い知り切れないものではあるのだが―――その自分の歩調を乱す彼氏の存在は彼女の器では覆いきれない。


(あの男が変な事を言うから…ッ)


 “変な事”―――それは、初対面で彼がラビに言及したときに述べた一連の言動であった。

 彼女はもともとラビありきの自己であり、それ以外を疑ったことがなかった。

 彼女は仕える者であり、自分の役割はそこにあると信じていた。

 実際、そのことに不快感を感じる事もなかったのだ。

 自分がニンゲンが占めるこのセカイの中で、やや特殊な存在であるという不安定感や浮遊感も、すべてはラビが打ち消してくれた。あの軽い言動や無責任な発言は、それでいて彼女を支えてくれるものだったのだ。

 同時に主君に仕える従者という立場は彼女に存在と居場所を与えてくれてもいる。

 次第に彼女はラビの存在に心酔し、信頼していく―――彼女ラビの発言のひとつひとつは、軽いようでいて意味があり、常に物事の真理の一面を捉えている。

 だが、あの男は―――聡雅は醒めた目でそれを否定してみせた。

 それは彼女にとって少なからず衝撃を与えるものだった。

 なによりも自分に反論すべき言葉がない事がショックだった。

 もちろん聡雅が述べた言葉は“下らん”のただその一点に尽きた。非常にシンプル―――だがそれだけに、錦はひどく愕然としてしまっていた。


 『当たり前の事を述べているだけ、そしてお前はそれに気付いてないだけ』―――彼はそう言った。

 ラビが間違っていて、自分はそれに騙されていたのだろうか。


(それは違う)


 彼女は即座にそれを否定する。

 あくまで聡雅は“くだらない”と言っただけで、ラビが間違っていると述べていたわけではない。

 確かにラビは端的な事実や真理を述べているのだろうし、客観的に見てそれが間違っているとは彼女にはどうしても思えない。

 彼女は気付きつつあった。


(わたしは―――自分がそれに対してどう思っているのかを、よく知らない…?)


 ラビが正しいのか、聡雅が正しいのか。実際にはそんなことに意味はないのだ。

 自分が何を考え、どのように行動したいかを、彼女はよく分かっていなかったのだ。

 そしてほんの一瞬だけ外に出てきた自分の感情―――『退屈』。

 あのとき、それをすぐに聡雅は見抜き、指摘し、その上で嘲笑って見せた―――「お前も随分と下らないな」と。

 結局お前が考えているのは、その程度のことなのか、と。


(わたしは…“下らない”のか?)


 馬鹿みたいにラビを妄信し、信望する自分は、その実中身のないただの女だったというのか。

 それを考えるとき、ひどく彼女の心は揺さぶられるのだった。

 彼女は魔女の従者―――そのことに誇りを抱いていたし、それなりの自信も持っていた。

 これまでラビのために幾人もの魔女達やその従者と戦い、逆に返り討ちにしてきた。

 逃げた事もあった。危うく命を落としそうになったこともあった。だがそのすべてを糧にして彼女は進んできていた。

 だがここにきて彼女は迷ってしまっていた。

 あんなどうでもいいような一言で自分がまさか迷うなどとは思っていなかった。


(何故、わたしはこんなところで…)


 その答えは単純で、聡雅も―――あるいは流生でも簡単に指摘できるものだったのだが、彼女はやはり気付けない。


「う…た、たすけて」


 声を聞いてハッとなる。

 今しがた反射的に攻撃をしてしまった少女の声が、窓の外から聞こえる。

 慌てて駆け寄る。

 だがなんと声をかけたらいいのか、彼女は分からない。

 とりあえず窓から顔を出す。

 少女の事は知っていた―――流生るいという名を持つ彼女は、“種”の受け鉢であり、最初に接触したニンゲンだ。

 だがそれがなんだというのだろう。

 自分は知っているが、相手は自分の事を知らないではないか。

 ほとんど初対面も同じである。

 何を話せば良いのか。

 この事態をどのように彼女に説明すれば良いというのか。

 そんな思いが頭を交錯して、彼女はらしくもなく焦っていた。


「ひええぇ、ロファーがぁぁぁ」

「あ、あの…」

「ハッ」


 恐る恐る声をかけると、流生がこっちを必死の形相で見上げてくる。

 彼女は吹き飛ばされた窓枠の、金属製の手すりに必死にしがみついていた―――下では花瓶が粉砕されて土を撒き散らしており、そのすぐ横に落下して靴の裏をこちらへ向けている片方だけのローファーが転がっていた。


「助かった!ちょっと手ぇ貸して!ああああ」


 安堵したのか、一瞬手が緩んでずるずると流生の体が落ちていく。「も、もう無理」と呟きながらそれでも懸命にしがみついている流生を見て、ぼうっとしている場合ではないと錦も身を乗り出すが、自分の体躯ではとても届きそうにはない。

 かといって人を呼んでいる場合でもない―――(どうしよう…)

 肝心の流生がつかまっている手すりはそれ自体も既に崩壊し、ひしゃげて一部分だけが窓の外に突き出ている状態で、その先っぽの方に何とか彼女が掴まっている状態だ。


(どうしよう…)


 彼女は逡巡した。

 まだ結論は出ない。

 だがやはり―――。


「動かないで、じっとしていて!」

「い、いわれなくても動けません!」


 涙目で抗議する彼女に、錦は自分の中の分身を解放する―――現れた黒泥質のうわばみが体躯を伸ばして流生の方へと伸びる。


「ひっ」

「あっ!」


 それを見た流生が身体をびくりと引きつらせて、思わず手すりを握っていた

 しまった!と彼女は後悔した。

 こんなものを見て普通の女の子が冷静でいられるわけはない―――思い当たらなかった。

 そう、思い当たらなかった。

 当たり前の事が、彼女は思い当たらないのだ。

 聡雅のせせら笑いが聞こえてくるようだった。


「くっ」


 彼女の影が変貌し、大蛇の形を象る。

 その蛇の影は彼女の元を離れて、校舎の壁面に身を滑らせていく。

 落ちていく流生の方へと、錦は身を躍らせる。


「えええええっ!?」


 驚いたのは流生の方だった。

 宙へと身を躍らせた錦が次に足をつけたのは、校舎の壁面だった―――重力に逆らって壁面に垂直に立った彼女が、真剣な形相でこちらに向かって走り出してきたからだ。

 それはまるで蛇が壁面を伝って滑るように登っていく様子だった。

 彼女の影が校舎の壁面を伸び、その上を錦が駆けていく―――まるでそこだけ異なる物理法則が働いているかのようだった。

 その影が真っ直ぐに流生のところまでも届いていき、影の上を走る錦が流生の身体を抱き寄せて、落下を止める。


「ふぅ…」


 安堵したかのように錦が長い息を吐く。


(うん…なんかね、いますっごいことになってるのね)


 流生は頭の中で独り呟いた。

 校舎の壁面に垂直に立つ少女に、西国のお姫様さながら抱き寄せられている自分。

 ふと横を見ると夕陽が綺麗だった―――場違いだったが、綺麗なものは綺麗だった。

 斜陽で倍以上に伸びていく長い影が、錦のところだけ逆らって大蛇を象ってうねっている。

 妙な雰囲気だ。流生は何と言ったらいいか分からず、曖昧に笑う。

 困っているのは錦も同じであるようだった―――こちらは表情を堅くしていたという点で異なっていた。


「…」

「…」


 互いに出す言葉が見つからず、照れてしまう。


「とりあえず」

「へ?あ、はいっ!」


 間抜けな声が流生の声帯から出たのを聞いて、錦は思わず吹き出し、笑ってしまった。


「とりあえず降りましょうか…」


 錦の提案に流生は勢いよく何度も首を縦に振った。









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