第一章 その八
外の様子は廊下にいた聡雅たちからも見えていた。
というよりもあまりに外が騒がしいので顔を出して、異常なまでに群翔する鴉に驚いていたのだ。
「鴉だ…」
「鴉ですね」
なんとも噛み合わない会話が二人―――聡雅と錦の間を流れた。
「さっきの話と違うじゃねえか。俺があんたから聞いた話ではあくまで鴉というのは通称や呼称であって、こういう実もふたもないような連想はしていなかったぞ」
階段を駆け下りながら聡雅が錦を問いただすが、彼女の方は至極当然という顔をしている。
「敵もまた魔女の手先なのです。私を見れば納得できる話なのでは?」
そう言いながら彼女は階段の最上段から最下段までを一気に跳び越す。
ふわりと舞い上がったスカートの内側、足を覆う黒いタイツとほぼ同色の彼女の影から、黒泥状の大蛇が沸騰した泡のように出現する。
その細い足からは考えられないような高さを、片足で軽やかに着地した彼女の上で蛇が体躯を伸ばしながら先行していく。
「気取りやがって…俺はニーソ派だっつうの」
背で跳ねるショルダーを胸元で押さえながら聡雅もそれに続く。
彼女の髪の毛と尾の部分で一体化している蛇は、泥か煙のような質感を見せながら、時折数匹に分裂してはまた一体化する。
今は彼女とは離れて進む先を一直線に迸っている―――重力がまるで感じられないその動きが、流生が自分を襲うカラス達に感じたイメージと酷似している事を聡雅は知らない。
裏庭へと続く旧校舎の古ぼけた昇降口から、蛇口を捻ったかのような勢いで蛇が飛び出していく。
「いきなりかよ」
「もう気付かれていますから」
あくまで無表情に、涼しい顔でとぼけたように言う錦の言うとおり、既に十数羽の黒い翼の群れが彼らの方へ向かってきていたのだった。
「すぐに」
終わります、と言う前に、蒸気を思わせるように錦の影や髪から噴出していく大蛇の束が、次々と黒翼を飲み込んでいく。
彼我の体積差が明瞭だ。あっという間に飲まれたカラスたちが齧り切られて宙を霧散する。
片翼をちぎり取られたカラスが悲鳴を上げながら地に落下する。
(なんでこいつらはこんなに殺気立っているんだ)
「ただのカラスにしか見えないが…うおおっ」
疑念に駆られて落ちたカラスに近づいた聡雅は、こちらを殺気だった目で睨みながら嘴を大きく開けて威嚇するカラスの、その喉の奥に歪なものを見て心臓が止まりそうになる。
「あまり見ると憑りつかれますよ」
その頭を、容赦なく錦がローファーの踵で踏み潰す。
血や脳漿が飛び散る代わりに、黒い灰や塵のようなものが一瞬で大気に噴散してまたすぐに解けていく。
「…あの蛇と同じか」
一瞬前まで確かに片翼を千切られてのたうちまわっていたカラスの姿が、まるで最初からなかったかのように消えてしまっている―――生物としての形と機能は保っているが、生命として考えるには本質的な部分で非常に曖昧な魔とも虚とも言えぬ“何か”だ。
彼がカラスの奥に見たモノ―――それはのっぺりした特徴のない、人の顔だったのだ。
とらえどころがなく、誰に似ているとも言いがたいが、たしかにそれは人の顔だった。
「一体なんなんだよこいつらはよッ!!」
一度意識してしまうともう止まらなくなる―――それまで気にしておらず、気付く事がなかった叫び声を上げるカラスたちの喉の奥が見たくなくても目に入る―――頭上を飛ぶカラスたちの喉の奥で、まるで憎悪の塊のような歪んだ顔たちが、目をギラギラさせながら口腔を開けている。
「きゅぴいぃぃぃいいいいいいいい」
「かかかかかかかかかかかかかかっ」
そう―――これはカラスの鳴き声などではない。あの怒りと敵愾心の塊のような顔たちの怨嗟の叫び声なのだ。
聡雅の身体を戦慄が蹂躙する。
「こいつら全員が俺たちを狙っているのか?」
「魔女同士は惹かれあい、かつ反発しあうもの。私に宿る“主(ラビ”と、“鴉”が惹き合っているのです。そして―――」
蛇が次々とカラスたちを散らしていく。
「反発する、つまり互いに打ち消しあうのです」
「あんたの蛇…散らしたカラスを食ってるのか」
その度に蛇がより太く、より濃く強くなっているように聡雅には感じられた。
「下がりましょう」
ある程度のところで唐突に錦がそう言いながら踵を返して聡雅の方へ走ってきた。
「え?」
「“位置バレ”しました」
“位置バレ”の何たるかを問う前に、錦は聡雅の胸倉をつかんで背後に引きずり倒す。
抗議を上げる間もなかった。
体ごと体重を乗せられた力が勢いのままに錦と聡雅の優に二人分の体重を支え、そのまま宙に飛び上がる。
その足元を黒い飛爪が通過していく。
胸倉をつかまれたままの聡雅は、自分の体が突然軽くなったように感じた。
「ちょ、ちょっと待て!」
どこまで飛ぶんだという疑問は、落下を始めた自分の体ですぐに答えを得る。
校舎二階部分の屋上まで優に十数メートルはある―――その距離を、聡雅を抱えたまま錦は飛んできた事になる。
体が軽いという次元を超えている。
開いていた窓から中に入った錦は、つかんでいた手を着地と同時に離す。
(こいつ…やっぱ人間じゃないんだな)
自分と少女の間にある歴然とした差を痛感する。
やはり本質が―――違う。
「外を」
促されるまま、聡雅は窓の外を見た。
先程たしかに自分達を狙ってきた鴉の群れが、明らかにこちらを見失って旋回しだしている。
目がついていないわけではなかろう―――本来ならば窓に飛び込んできてもおかしくないのに、一向にその気配がない。
「私もそうですが―――鴉は視線で分身を操っているのです。逆に言えば、宿主が見失ったものを分身が認識する事は難しい。もっともまったく不可能というわけではないので、あまり頭を出されると危険なのですが」
錦はそう言いながら聡雅の襟を手で掴んで奥に引っ込める。
「恐らく本物の鴉は、こちらを見ています。さらに言えば、室内にいる私たちが見えない位置にいる。つまりこの校舎の外である事は間違いないのです。鴉は目がいいですから、かなり遠方から操作している可能性はありますが―――見たところ私をまず潰すつもりですから、見失ったのを察知した段階でこちらに近づいてくる事が予想できます。それを叩きましょう」
「よくもまあスラスラと相手の動きが読めるもんだな…」
「魔女は別の魔女を潰そうとしますから。そういうものです」
それはお前が他の魔女を潰した事があるからなのか、と言おうとして、愚問だと聡雅は気付く。
明らかにこの少女と自分は、今の今まで住む世界が違った―――そんな事は当たり前なのだ。
もう聡雅は開き直る事にした。
「んで、どうすりゃいいんだよ」
「丸投げですか」
「しょうがねえだろ。俺、初心者だし」
肩を竦める聡雅に錦はやや不服そうな顔をしたが、少し首を左右に振っただけだった。
「まあそれでいいでしょう…ラビが私を遣わしたのは元々そのためでしょうから。でも一応言っておきますが、わたしたちは鴉を倒す必要はありません。あくまで“種”を守ればいいわけですから」
「なるほどね」
「先程見たように、“種”もまた状況に適応して成長段階を早めております。“鴉”が狙うのはあくまで“種”。ならば完全に発芽しきってしまえば対象から外れる。言うなればこれは制限時間まで生き残れば勝ちなのです。ですから聡雅が無理に鴉と戦う必要はありません」
「俺は、って事はあんたには理由があるっていうのか」
「言ったでしょう、基本的に魔女と魔女は潰しあうものだと。私は“主”の“従者”。相手の魔女と出会ったら、戦う事は宿命なのです。逃せば主に危険が及ぶ」
「何だその人生フルタイムサバイバル。もっとぬくぬく生きろよ」
聡雅の軽口には反応せず、錦は一人窓枠に立とうとする。
「おい聞けよ」
飛ぼうとした彼女を無理やり廊下に引き摺り下ろす。
「そんな顔すんな。お前の使命はよく分かった」
「結構なことです。私は勝手に鴉を倒し、あなたは勝手に“種”を守る。利害が一致しているからこそ、互いが干渉しあう必要はないのでは?」
「ああそうだな、でもそんなものはくそくらえだ」
「くそくらえって…」
錦は聡雅の強い口調にやや気圧されてしまった―――そう、聡雅はむしゃくしゃしていたのだった。
あまりにこの状況に対して自分が無力であり、肝心なところでまったく関係のない存在であるくせに影響だけはしっかり受けなくてはいけないような、そんなポジションである事にたまらない不愉快感を持っていたのだ。
「結局全部お前の主が描いたシナリオどおりなんじゃねえのかこれは」
これについては錦には返す言葉がない。事実その通りだからだ。
「俺はそういうのはまっぴら御免だ、ふざけんな馬鹿。大体あの魔女は俺にこう言ったんだ―――『ひとまず錦を貸してやる』。たかがレンタル品ごときが偉そうに指示してんじゃねえよ、分かったかカス」
「あ、あなたねえ…ッ!」
随所随所で飛び出す暴言が錦の高いプライドをチクチクと刺激する。
「何様だよお前、『無理に鴉と戦う必要はありません』だぁ!?俺はやってやるよ、鬱陶しいったらありゃしねえ。遠くからチロチロ眺めてきやがって、いい度胸じゃねえかぶっ飛ばしてやる。てめえこそ図書室にでも篭ってじっとしてろ」
あまりの事に錦は口をぱくぱくさせて動けない。
聡雅の方はそんな彼女の様子などお構いなしといった表情で、元々悪い目つきをさらに尖らせていた。
「てめぇは俺が都合よく使ってやるからよ、とりあえず“種”を見張ってろや」
そう言うと肩を怒らせて屋上の方へと登っていってしまう。
「な、なんなの…」
そんな聡雅を錦は呆然と眺めている事しかできなかった。