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第一章 その四

「変なもん貰っちまったなぁ」


 聡雅はいつものように重そうな瞼を半分開いたような、いつもの眼差しで便箋を開いていた。

 しかし決して気分が悪いわけではなかった。

 恋文というのはそういうものである。誰かは分からないが自分を好きになってくれる他者が存在している―――ただそれだけの事実で人の心はずっと軽くなるのだ。それこそ、天に昇れるのではないかと錯覚する程に。

 そうであれば、彼の態度はむしろ落ち着いていた方と言えるだろう。

 ただ淡白に手紙を見つめ、示された時刻と自分の時計を照らしあわせ、場所を確認し、のんびりそこへ向かったのだ。

 彼はそのとき少し驚いていた。

 自分の事をそのような目線で見ている他者が存在することが驚きであり、それに対して自分がどのように答えるかを考えて、それが容易に出てこない事に何よりも驚いていた。

 頭の中にあったのは、とにかく会って話してみよう、といういわば“保留”だった。

 彼は自分が同年代の人間と較べてはるかに軽薄さを隠すのが苦手であるという事を理解していた。

 醒めている人間など珍しくはない。軽薄な人間も珍しくもない。いるとすれば、それを自分の中で騙したり隠す技術が上手いか下手かでしかない。あるいは今はそうでないにせよ、来るべき未来において恐らくそうなっていくだろうというだけの話。

 むしろ無駄に熱い人間やはたから見れば「あいつらは何やってんだ」と呆れてしまうような人間こそ、実は誰よりも淡白で誰よりも軽薄なのであると彼は考えており、もしどこかで決定的に他人と浮いてしまっているような自分との違いがあるとすれば、それはちょっとした認識の違いと、そしてほんのすこし自分が他人よりも嘘をついたり自分を騙すのが下手なだけ―――そう彼は考えているのだった。その差が歳月を重ねるごとに、そうそう縮んではくれないような溝になってしまったというだけの事だ。

 だから彼が真っ先に心配したのは、自分のような淡白さをどこかで決定的に捨てきれないような人間が、恋文を書けるほど何かに熱中したり没頭できるような熱さを持つ人間を前にして足を引っ張ってしまうのではないだろうか、という事だった。

 こういう事を考えることこそがまさに、流生が彼に対して「意外に真面目に考える。しかもどうでもいい事を」と述べる所以であり、そこが彼の長所であり短所でもあり、同時に弱点でもあるのだった。

 その弱点を、彼はまさに突かれてしまったのだった。

 あまりに鮮やかに突かれてしまって、彼は不覚にもほんの少し感情的になってしまった―――恋路の手練達はそういった反応を見せる者を「うぶな奴だ」と冗談交じりに笑うし、きっと普段の彼も似たような笑いを浮かべてしまっただろう。

 だがそのとき彼は当事者であったし、馬鹿みたいな事を生真面目に考える彼のどこか堅い思考は自身が自覚してあまり好きになれていないところであったから、予期しない形でそれを露出させられたとき、彼の滅多に動かない感情がうねるのには充分な効果があったのだ。




 場所は校舎の屋上だった。給水塔がフェンス越しにそびえて、その向こうに透けた青空が広がる。流れる風がほんのり甘く、やわらかい陽射しが包んで肌に心地よい。

 とても、いい雰囲気だった。


「あんたがこれを書いたのか?」


 聡雅はそんな雰囲気が、自分にはやや場違いな気すらしていたので、早く話を終わらせてしまおうとやや焦っていたかもしれない。


「本当に来た…」

「そりゃあ呼ばれたしな」


 だから少女がやや的外れな事をずっと呟いているのを辛抱強く聞いている内に、やはりどこか頭の隅で苛立ちが募っていた。


(なんだよ?呼び出したのはお前だろう、さっさと言う事を言え)


 ひとまず自分がどう返事するかは決まっていたので、彼はさっさと少女が話し終えてしまうのを待っていた。

 だがその少女の様子が、なんだかおかしい。


「本当に来たのね…やはり“ラビ”の仰られる事に間違いはないです」

「何言ってんだ?」


 訝しがる聡雅の前で、少女は何故か嬉しそうな―――後で思い返せばそれは特定個人に対する驚嘆と尊敬の入り混じった表情だったわけだが―――顔をして聡雅を見つめている。だがそれはとても今まさに告白をしようとする姿には見えない。


「『恋文でも書けばこの手の男は絶対にやってくるよ』と“ラビ”が仰られた通りでした。だけど本当に来るなんて…」

「な…」


(どういうことだ?)


 一瞬聡雅は何を言っているのかが分からなくなり、慌てて頭の中を整理する。

 次第にある仮説が浮かんでくる。


「じゃあ、これを書いたのは…」

「それを書いたのは私ですが、厳密に言えば“ラビ”が文章を考え、すべてその通りに私が写しました。“ラビ”はあなたに伝えたい事があって私を代理で寄越しました。その際に『ただ呼ぶだけでは芸がないから』と、恋文の形をとってあなたを呼び寄せることになさいました。そうすれば大概の男は絶対に、尻尾を振ってついてくるからと。本当にその通りでした」


 ふふっ、と少女が笑う。それは聡雅にとって、ひどく嫌な笑いだった。


「申しおくれました、私はにしきと名乗る者です。この名は主君たる“ラビ”から授かったものです。そして私は“ラビ”に仕える“従者オキュペー”です」


 聡雅の心中などお構い無しに少女は微笑みを隠さない。


「魔女たる“ラビ”はあなたに忠告することがあるのです。私はその使い魔としてここに存在し、あなたにひとつの危機と、その際にあなたに与えられる役割を教えるために来ました」

「どうでもいい」


 少女の言葉を最後まで聞かず、聡雅は既に背を向けていた。


「そんな、待ってください」

「俺がそれ以上話を聞く義理がどこにある」


 述べながら、聡雅は自分がらしくもなく不愉快な気分になっている事に気付いていた。

 博愛主義者たる自分―――聡雅は自分の事をそう思っていて、他人のことはそこまで好きでもなく、嫌いでもないと思っていた―――が、こうもずけずけと勝手な事を言われて、多少でも傷付いている事を認識して情けなくなってきていた。


「『プライドが高い』…」


 だが直後ににしきがそっと呟いた言葉に、聡雅はかっとなって思わず足を止めてしまう。


「“ラビ”の言うとおりですね…『劣等感の強さがプライドの高さを示している』『博愛主義を気取るが本当は臆病なだけ』。『だからこれ以上傷つくくらいならと、きっと彼はすぐに去ろうとするだろう』」


 内心で考えている事は、角度を変えてみればまさにそういう事になるだろう―――そのことを聡雅は考えて、頭の中が屈辱で真っ白になる。


「『基本的にセカイと自分は断絶して全く無関係に進んでいると感じているので、どうしようもない孤独を直視せざるを得ない』『そうした背景は彼を“どうせ自分を完全に理解できる奴なんていないだろう”と理性的に判断させ、その結果まるで自分を分かったかのように扱う他者や他人の存在に過剰なまでの嫌悪感や攻撃的衝動へといざなう』」


 聡雅の震える指先を見つめながら、事務的に事実を告げているだけだとでも言うように、にしきは留まるところを知らない可憐な口唇をただただ開き続ける。


「『人は自分自身が受けた精神的損傷をどうにかして相手にも負わせようとしたがるので、このことで傷付けば傷付く程に、彼は君の元から去る事を望まないだろう。何故なら期を逸すれば報復は不完全な形で終わってしまうからだ』。あなたが足を止めている理由がこれですか。付け加えれば『怒りや憎しみもまた、ひとつの繋がり。相手を自分にひきつけておきたいと思わせたいなら、ただ興味や関心を惹くだけでなく、怒らせるというのもまた一つの手なのだよ』とも、“ラビ”は仰っていました。かなり効果的に作用しているようですね」


 少女は何が嬉しいのか―――それは子供が自分に父親を誇らしいと思う感情に似ているかもしれない―――美しい微笑みを絶やさない。

 だが次の台詞には、その笑顔に弱冠異なる感情が含有されていた。


「でもあえて私が思うことを述べさせていただければ…」


 その言葉をほとんど聡雅は聞いていなかった。いや、聞いていたからこそ、頭の中でそれを掻き消したのかもしれない。


「怒るような事を言われたから怒るって、とても退屈な方ですね」


 少女に表情にほんの数ミリ含まれた感情―――それは侮蔑。真面目な人間―――それは退屈。



 普通に出来ることが出来ない人間というのは必ず存在する。

 彼は言うなれば―――どうでもいい事を真面目に考えなければ行動できない人間なのだ。

 何となくで行動して、浮いてしまう。だから人一倍考えなければ、周囲に馴染んで生きていけない。

 しかし考えることそのものにたいした意味はない。セカイはそこまで考察され、精緻に作られて形成されているわけではない。そこにあるのはほとんどが恣意性なのだ。

 だからこそ考えれば考える程に、そのことに彼は気付いてしまって―――結果、彼は知るようになる。

 どうやらこの事に気付いているのは、自分だけなのだというまさにその“孤独”に。


 “どうせ人は人の事を分かりっこないのだ”―――そう彼は思うようになったのだ。


 こんな適当なセカイじゃいちいち考えて行動なんてするだけ阿呆―――でもその事実が分かったところで、彼が取りとめない周囲にあわせて生きていかなければならないという現実の方に変化はないのだった。

 そして同様にこの事実もまた、変化がないのかもしれない。

 人生が退屈なのは、それを生きている人間が退屈なのだという―――。


「私が“ラビ”に申し伝えるようにと預かったメッセージは」

「おい」


 なおも言葉を続けようとする少女の前で、彼の中の何かが音を立てた。

 それは鉄筋コンクリートのような、本来強固で冷えきって固まりきっていたはずの彼の心を容易く引き裂いて現われた。


「“ラビ”ってのが誰かは知らんが、随分とくだらない野郎なんだな」


 ひどく冷たい声が彼から出た。


「…どういう、意味ですか」


 少女の顔色が変わった。予想通りの反応に聡雅はせせら笑う。


「どういう事も何も。お前自身がくだらない人間だからな。そういう人間が信奉する奴ってのもたいしたことのない、くだらない野郎だってのは想像にかたくないだろ」


 現に、と聡雅は続ける。

「さっきからお前が言ってるのは全部“ラビ”とやらの言葉で、お前自身が俺に対して言った言葉はただ一言“退屈です”ってだけなんだからな。あんだけべらべら喋っておいて、結局てめぇ自身は“退屈です”って言いたかっただけかよ。御託並べるわりには結局蓋を開けたら餓鬼みたいな事しか言ってねえんだ。これを下らないと言わずしてどう言うんだよ」


 ひどく攻撃的になっている自分を客観的に見つめて、どこか納得している自己が確かに存在していた。

 ああそうだった―――自分はいつも怒りを抱えていたのだ。

 こうやって怒り狂っている自分がむしろ自然なのだ。

 めぐり行く世界の中で、ちっぽけな個人が思うことなどまったく関係のない話―――それは裏を返せば、個人が思うことにセカイなんてものはどうでもいいということでもあるのだった。

 いくらセカイの方が関係がないからといって、彼個人が思う怒りや納得のいかない心は、それ自体で何も変わるところはないのだ。


「犬に向かって“犬っころ”と罵ったってそんなものは滑稽なだけだ。何のことはない似非分析家だな“ラビ”とやらは。当たり前の事を当たり前のようにべらべら喋ってるだけだ。『“ラビ”の言うとおりでした』だぁ?それは単にお前自身が馬鹿だからそう思うだけだ。人を怒らせる方法なんてのは三歳の餓鬼だって出来る事なんだぜ?今更そんなものに歓心しちゃってるお前って何なのよ。本当にくっだらねえな。そんな方法論、いくらでも世の中に転がってるじゃねえか」


 それとも、と聡雅は続ける。

「その“ラビ”とやらに尻でも貸してんのかお前は?まともな奴は普通恥ずかしくって出来ねえぞこんな茶番」


 心底馬鹿にしきったような聡雅の顔に、錦の顔が徐々に怒り―――無表情なそれに歪んでいく。

 それでも彼は最後まで台詞を言い切る。その足は既に少女から遠のいていた。


「要はそいつが正面きって出てこれねえだけなんだろ?性格の悪い悪戯をする捻くれた餓鬼と、それに心酔する馬鹿な女の組み合わせじゃねえか。一生やってろ。俺は帰る」


 刹那―――息が詰まった。帰ろうとした聡雅の足は、既に飲み込まれて動けなくなっていた。

 首元を絞めるぬるい感触が全身を支配していた。

 後ろを振り向こうとして―――それすら敵わない。


「訂正しなさい…今すぐ」


 なんだこれは、という台詞が彼の喉まで出掛かって、結局音にならなかった。

 締められた胸骨がそれを許さない。

 圧迫死―――その単語が脳内を縦横無尽に駆け巡る。

 いつの間にか少女の指先が聡雅の喉仏を撫でていた。

 彼が一瞬の事で、何が起きているのかまったく理解できていなかった。

 ただ喉仏を撫でていた指先が徐々に彼の喉を圧迫していくのを感じながら、その少女の背後に並んだガラスドアに映る正体―――蛇たるその異貌を見ていた。


 窒息。

 酸素。

 空気。

 生命。

 危機。

 少女。


 化け物。化け物。化け物蛇。蛇。蛇。黒泥。蛇。


 恐怖。混乱。

 少女。目。狂気。

 蛇。牙。死。


 蛇。少女。目。殺気。


 死。死。死。

 

 だが最後の最後に彼の脳を駆け巡ったのはやはり―――

(ふざけるなこのクソ野郎がッ!!!!!!!)


 聡雅の目がカッと見開かれた。

 ひどく乱暴な気分になっていた。

 もう死のうが食われようがボロキレになろうが構うものか、ただ目の前のスカした馬鹿女にしきに一発食らわせてやらないと気がすまない―――そのときたしかに聡雅の内側で、何か堅く尖った冷たい何かが動き出したのだ。

 その“何か”は容易く聡雅と言う名の“殻”を突き破って現われた。

 突き破ると同時に“そいつ”は真っ先に少女へと手を伸ばし、そのか細い喉を同じようにして締め上げるのだった。

 衝撃で地面に投げだされた聡雅は、激しく咳をしながらも、背後を振り返って呆然としていた―――全く事態についていけなかったのだ。

 先程まで自分を締め上げていた少女の髪や影から無数の巨大な蛇の顎が出現しているというだけでも彼の理解を超えるものであったのに、今度は自分自身から得たいの知れない化け物が出てきて少女を殺さんばかりに締め上げているのである。


(なんだ…いったい何がおこってるんだ?)


 これはいくら普段淡白で動揺を見せない彼でも、その混乱を隠し切れなかった。

 どう対処したらいいのかまったく分からない―――これは完全に彼の常識の範疇を逸脱していた。


「が…っ、あっ、ぐああがあが」


 可憐な口唇からはまったく似合わない、苦鳴ともおぼつかないような“音”が少女の歯の間から漏れていた。

 その少女が必死に手で彼の方に何かの合図を送っているのが、ぼんやり彼には見えていた。

 茫然としていた彼は、頭が真っ白だったためにかえって、その合図の意図を察する事が出来た。

 それは、懇願なのだった。

 “やめさせてくれ”と、そう彼女が言っているのだ。


(つまりこれは…俺から出てきたから)

 彼は咄嗟に念じた。ただ一言「もういい。やめろ」と。

 その一言で化け物は少女を手放すのだった。


「げえっ、ごほ…おえっ」


 雑巾のように落下した少女が口元から糸を垂らして倒れているのを、聡雅はただただ見ていた。

 彼は自分の手を見つめた。


「これは…俺が、やったのか?」


 それはひどくリアリティが無いのに―――何故だか生々しいのだった。

 少女の嘔吐する音と様子も、彼にはひどく遠く見えた。


「そうだよ。これは君がやったのさ」


 その場に不釣合いな、別の爽やかな声が聞こえたのはそのときだった。





眠い…でもここまで書きました。どんどん動かしていくぞおおお。

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