8 『tears』
風が吹いている。
風は渦を巻き、絡み合いながら流れている。
それは風が逃げ場を求めて奔走しているようだった。
しかし風の音はとても静かで、ひどく落ち着いていた。その静かな風が私の頬を撫でていく。産毛だけをなぞっていくような、くすぐったくて優しい風だった。
私の短くなった髪の毛が、耳もとで音を立てた。私の腰まであった長い髪は、肩のあたりで切りそろえた。頭が軽くなってすっきりした気分だった。
一秒ごとに形の変わる灰色の空が、地平線の向こうまで続いていた。
私はその終末の空を見上げながら、缶コーヒーにまた口をつけた。それはあの日飲んだ缶コーヒーと同じものだった。
世界はついに最後の日を迎えていた。
地面が震えていた。地球全体がけいれんしているようだった。それは地球が《ラグナロク》の衝突に怯えているようではあったが、しかしどちらかと言えばこの揺れはお祭り騒ぎとかそういうものを連想させた。
今この瞬間も地球の至るところでまるで駆け込み乗車をするように人が人を殺しているし、これまでの憂さ晴らしと言わんばかりに核ミサイルを何百発も撃ち込まれ、地獄のような惨状になっている国もある。人類は滅亡を前に、共食いをさらに加速させていた。他国と比べて格段に平和な国である日本にいると、それは現実と言うより、ただの情報だった。
正直に言えば、自分以外の人間が何人死のうと知ったことではなかった。
むしろもっと死ねとすら思えた。
どうせ数時間後には、この星の全員が死ぬことになるのだから──。
私は学校の屋上にいた。ここからもこの町が中途半端に見渡せた。町は外国のようにわかりやすく建物が炎上したり倒壊したりしているわけではないので、世界の終わりなんて最初から嘘だったのではないかと、一瞬不安になってしまう。ここから見える景色はどこまでも平凡で閑静な、日本の地方都市の郊外のそれだからだ。
世界の終わりをどこで迎えるか、ということは重要な問題だった。人生の最後にふさわしい場所はどこか──それをひたすら考えていた。
そして考え抜いた結果、やはり学校しかないだろうという結論に辿り着いた。
数年間こもっていた自分の部屋は、すぐ選択肢から除外した。確かにあの部屋は往生の場としては魅力的だし、愛着もある。だけど、だからこそ、あそこを死に場所に選びたくはなかった。
コーヒーを舌の上で転がしながら、少しずつ飲んでいく。ブラックコーヒーは脳が痺れるほど苦く、飲み始めは味なんてわからない。しかし何口も喉の奥へ運んでいくと、その黒く凝縮された苦味のなかに、一点だけ白く輝く小さな光の玉のようなものを見つけられる。それを探し当てることが出来たとき、ただ苦いだけのコーヒーはたちまち、まろやかな味わいをもつ極上の液体へ転じた。
だからといって煽るように飲み干すのではない。その香り豊かな風味を味覚だけでなく嗅覚でも堪能する。鼻がひくひくと動き、もっと欲しい、とわがままを言い始めた。けれどそのわがままに応えられるほど、もはや缶のなかに十分な量のコーヒーは残されていない。
私は噛みしめるように、一定のペースを保って飲み続けた。
腕時計に目を落とす。《ラグナロク》衝突まであと二時間というところだった。私は静かに息を吐いた。ようやく私の夢が叶うのだ。この日をずっと待ち続けてきた。やっと、彼女に会えるのだ──。
私は大きく振りかぶって、空き缶を力いっぱい投げた。空き缶は屋上の柵を越えてグラウンドへ落ちていった。何秒かの沈黙の後、小さな音が聞こえた。世界の終わりはもうすぐだった。
地球最後の夜が始まろうとしていた。
私はそれを最高の形で迎えるための準備に取りかかるべく、何日もかけて町中からかき集めてきたそれを、屋上に並べていった。