7 『眠り姫』
私にはシナモンしかいなかったし、シナモンにも私しかいなかった。だから彼女を失った私には、もう何も残されていなかった。他に友達を作りたいとは思わなかった。
それでもその翌朝、入学式に出席するために登校したのは、もちろん現実逃避の意味もあったが、もしかしたら、という思いがあったことは否めない。
正門は煌びやかな飾りつけが施され、私たち新入生を温かく迎え入れていた。
人の流れに逆らわず、私は自分にあてがわれた教室へ進んでいった。
教室に入ると先に登校していたクラスメイトの視線がいっせいに突き刺さった。何十個もの眼球が、まるで私を値踏みするようにこちらを向いた。そしてそのいくつかは、この世のものとは思えない、ただ気持ち悪いものを見たときのように見開いた。このときの私はいったいどんな顔をしていたのやら……。
教室の喧噪が一瞬だけ止んだ。
しかしそれはすぐ元通りになった。取り繕うようになかったことになった。私は自分の席を見つけて、鐘が鳴るまでぼうっと座っていた。クラスメイトは私のことをなるべく視界に入れないよう努力した。
それは正解だったし、ありがたかった。
●
体育館は前に生徒、後ろに父母と、人間が所せましとうごめいていた。ざわめきと足音が響いて止まない。私の両親は来ているだろうか。今朝どんな会話を交わしたのか、まったく覚えていない。
姿勢を変えるだけでパイプ椅子は鈍い音を立てて呻いた。パイプ椅子は今にも壊れてしまいそうなほど錆びついていた。周りを見ると、ここにいる誰もがこれから始まる高校生活に輝かしい期待を抱いているように見えた。自分の人生はこれからも続くのだと、心の底から信じ切っているようだった。
やがて入学式が始まり、頭が禿げている校長のどうでもいい話があったり、入試で一番成績のよかった女子が薄ら寒くなるような台詞を渡された台本通りに壇上で読み上げたりした。
そして覚えていない校歌を無理やり歌わされることになった。
私はそれを無表情に、ただただ無感情に眺めていた。私のことをもう一人の私が見下ろしていた。私たちは起立してピアノの伴奏に合わせてたどたどしく歌った。歌詞のなかには《未来》だの《希望》だのといった言葉がふんだんに盛り込まれていた。
私はそんな言葉を口にするたびに、込み上がる何かを感じていた。
確かに私たちに未来はある。希望もある。だけどそれは、私が思っている未来や希望とはまったく違う、正反対の意味の言葉なのだ。
私以外の人間は背すじを伸ばして高らかに校歌を歌いあげていた。対して私のほうは少しずつくの字に折れ曲がっていく──。
校歌が頭のなかで渦を巻き、喉の奥をひりひりさせる。
親友は世界の終わりに抗って死んだのに、こいつらは世界の終わりなんて、抗うどころか、まったく信じていない。こいつらは自分たちがもうすぐ死ぬなんて、露ほども思っていない──。
ここは間違いなく現実であるはずなのに、まるで現実とは思えなかった。思いたくなかった。そして隣の女子が私の異変に気づいたときには、もうすべてが遅かった。
私は体を折り曲げて、大声で叫んだ。
私は体のなかに溜まっていた何かを、一心不乱に吐き出し続けた。
ざわめきがそこかしこで生まれた。校歌は最後まで歌われなかった。私は立っていられなくなり、床をのたうち回った。私は眼球が取れてしまいそうなほど、大きく目を開いていた。涙がにじんで世界がぼやけて見えてきた。
そのうち何も聞こえなくなった。
しかしそれは世界から音が消えたわけではなく、私が世界を遮断したからだった。
ここは私だけの世界になった。
そしてゆっくりと立ち上がり、私は笑い始めた。声はかすれて断末魔のようになっていたが、そんなことは関係なかった。ただ笑いたいから笑っているのだった。自分の限界を超えるように、私は笑い続けた。
世界の終わりには何もかもが許される──。
親友が命を賭けて私に伝えたかったのは、つまりそういうことなのだ。
私は確信した。
私はこれからの残りわずかな人生を、誰よりも楽しめるだろうと。
それを世界中に知らしめるように、私は泣きながら、いつまでも笑い続けた。
その日から私の世界は自分の部屋のなかだけになった。あの小さな空間だけが自分が自分でいられる場所になった。私は誰の侵入も許さず、家族との会話すらも放棄して、ただひたすら自分の部屋にこもり続けた。
寂しくなんてなかった。
この人生の先には終わりがあるし、そこでシナモンが──親友が待ってくれている。
それを思うだけで、心が弾むように嬉しくなった。
●
蝉の鳴き声で目を覚ました。
耳もとでささやくようなその声が、私を優しく現実に引き戻した。
教室はすっかり日が落ち切って真っ暗になっていた。
体の節々が痛く、椅子から動けなかった。
しかしそれは苦痛ではなく、心地よい鈍痛だった。
いつまでもこの感覚に浸っていたいとさえ思えた。
全身が悲鳴を上げている。
その悲鳴こそが自分が今生きている何よりの証だった。
あの蝉は休むことなく鳴き続けていたのだろうか。だとしたらそれは鳴き声というより悲鳴だったのかもしれない。力を振り絞って声を張り上げて、自分はここにいる、と叫んでいたのかもしれない。
鳴いているのは一匹だけだった。他の蝉はどうしたのか。どこか別のところへ飛んでいったのか、それとも死んだのか、私にはわからない。
「もうすぐだよ」と私は呟いた。「もうすぐ、また会えるからね」
《ラグナロク》──世界を終わらせてくれる唯一の存在、唯一の希望、破壊と救済の象徴、すべての始まり──その日まで、あと一週間。私の胸は高鳴るばかりだった。
私は今日という日を振り返った。たった一日外へ出ただけなのに、色々なことがわかった。何より嬉しかったのは、世界がちゃんと私が私でいられる場所になっていたということだった。
私も知らなかった私を、少しだけ知ることが出来た。
こんな世界にならなければ自分の気持ちとも向き合えないなんて、不器用にもほどがある。
だけど、だからこそ、それゆえに、それが私なのだった。
蝉の声が止んだ。