6 『すべてが壊れた夜に』
「どうせ死ぬんだから、生きていても無駄なだけだよ」
シナモンはそう言った。
「みんな頑張って馬鹿みたい。自分が生きていることに何か意味があるとでも思っているのかな。それとも自分が死ぬことも考えられない、ただ毎日をむさぼって生きてるだけの人が多すぎるのかな。どちらにしろそんな人たちであふれている星なんて、一回ぐちゃぐちゃに破壊して、もう一度やり直さなきゃいけないと思う。人類はどこかで進化を間違えたんだよ。ねえ、わたし何か間違ったこと言ってるかな?」
シナモンは私の目をじっと、奥の奥まで見透かすように見つめている。私はシナモンの──親友の言葉を黙って聞いている。
「ぜんぶ消えてなくなってしまうんだ。何も残せないで死んでしまうんだ。何もかも無意味なんだ。それでも生き続けるなんて正気の沙汰じゃないよ。生きていて何の意味があるのかな?」
シナモンは歌うように言う。
「わたしは先に逝ってるね。こんな世界で生きていくなんてもう嫌だから。シュガーはどうする? わたしと一緒に来る?」
今度は何か答えなくてはいけないと思い、私は何かを答えようとする。だけどやはり何も答えられなかった。
親友の問いに答えられるだけの何かを、私は持ち合わせていなかった。
それが表情に出ていたのだろう、彼女は優しい口調で「そうだね、シュガーはまだ死なないほうがいいよ」と言った。
「でも忘れないで。あなたも死ぬし、みんなも死ぬことを。それだけは絶対に忘れないで。あなたに出来ることなんて何もないんだから」
シナモンはきっぱりと言い切る。
「どうせ死ぬなら、わたしは自分の意志で死にたい。与えられた死と自ら掴み取った死、結果は同じでも、その二つはまったく違う。──わたしは人間らしく死にたいんだよ」
私はもちろん何も答えられない。
「でも、これはわたしがおかしいんじゃない。みんなのほうがおかしいんだよ」シナモンの目はどこまでもまっすぐだった。「わたしは絶望を抱えて死ぬんじゃない。希望を抱いて死ぬんだから」
声には強さがあふれていた。
「だから今日はお別れを言いに来たんだ。今まで、こんなわたしと仲良くしてくれてありがとうって。シュガーだけが、わたしの傍にいてくれたから」
春休みの最終日、私たちは中学生でもなく高校生でもなく、その狭間にいた。
そして明日には、晴れて一緒に合格することが出来た高校の入学式を控えていた。
私とシナモンは、肩が触れ合うほど隣あってベッドに座っていた。
私の部屋は夕焼けの光で毒々しい色に染まっていた。自分の部屋なのに自分の部屋ではないようだった。
いつも見ているはずの景色なのに、さっきまでの景色とはまったく違う風に見えた。
ここは本当に自分がいていい場所なのだろうか、と思った。
今から数年後、地球に超巨大隕石が衝突して人類は滅亡する──。
一言で言ってしまえば、つまりそういうことだった。
だけどそれが自分のなかでどのような意味を持つのかよくわからなかった。あまりにも現実離れしていて、シナモンに騙されているような気分だった。しかし彼女の真剣な表情を見るに、それは嘘や冗談ではないらしかった。
シナモンは死を決意しているようだった。私は「どうして」と口を開いた。せっかくまた同じ学校に通えるのに。そして明日はその第一歩を踏み出せる日なのに。どこに死ぬ理由があるのだろう──。
「わたしはね、結末がわかりきった映画は見たくないんだ」と彼女は言った。「これから何が起こって、最後にはどうなるのかがわかりきった映画ほどつまらないものはない。人生もそれと同じ。だからわたしは死ぬ。わたしは、終わりのその先へ行きたい。わかる?」
わからなかった。
たとえ唯一無二の親友の言葉でも、物事の理解には限度があった。
「シュガーといられて、これまで本当に楽しかった。きっとわたしたちはこれからもずっと親友同士でいられるはずだよ。地球が終わる最後の日には、手を取り合って、一緒に燃え上がる空を見上げていると思う。──そんな未来がありありと見えてしまうから、わたしは死ぬんだよ」
それは、私とはもう一緒にいたくないということなのだろうか。私と一緒にいるくらいなら死んだほうがましと、彼女は言っているのだろうか。そう訊くと「そうだよ」と即答された。
「あなたと生きるより、あなたと死ぬほうがいいと、そう言ってるんだよ」
これまで自分の死についてなど考えたことがなかった。
「でも、あなたが死ぬのは今じゃない。だからわたしは先に逝ってるね。シュガーは後からみんなと一緒にくればいい。そこでまた会おうね。そのときわたしたちは、今よりもっと深い絆で結ばれることが出来るから。文字通り、ずっと一緒にいられるよ」
私に何が出来ただろう。
私には何もかもが現実のものとは思えず、ただ親友の言葉を受け止めることしか出来なかった。
いや、受け止められたかも怪しい。
親友の言葉のほとんどは後になって少しずつ、その意味の一つ一つを噛み砕けるようになったのだから。
そしてもし私がここで親友に対して、その何かが出来たとしても、やはり結果は変わらなかっただろう。
そう、私に変えられる未来なんて何一つなかった。
それは昔も今も変わらない。
私には、現実を現実のままに受け入れて、死ぬまで生き続けることしか出来ない。
それ以外には、何もないのだ。
突然、目の前が真っ暗になった。そして唇に触れる柔らかい感触のもの──。
それがシナモンの唇だということはすぐにわかった。
目を大きく見開いた私の前には、彼女の顔しか映っていなかったからだ。
気づけば彼女に抱きしめられていた。
逃れようとする気もなくなるほど、それは情熱的な抱擁だった。
息が苦しくなって唇を離そうとしても、彼女は私の唇から離れない。
彼女の舌が、私の唇をこじ開けて入ってきた。
私の目は緩み、この突然の出来事に混乱する一方、彼女からのキスを受け入れはじめていた。
力が抜けていく。
頭が熱を帯びて何も考えられなくなる。
彼女の舌がどんどん私のなかへ入ってくる。
そして彼女の舌が私の舌に触れた瞬間、私の頭のなかで何か大事なものが音を立てて弾けた。それが弾けてしまうと自分が別の生き物になったように感じられた。いつのまにか私は彼女の舌に自分の舌を絡ませていた。
私は目を閉じた。
目を開けていられなかった。
私は何かにしがみついていたくて、彼女の体に腕を回した。彼女と離れたくなかった。彼女の力よりも強く、私は彼女を抱きしめていた。
ずるいよ、と思った。
いきなりこんなことされたら、シナモンのことしか考えられなくなるよ──。
私はシナモンを押し倒した。荒々しく、だけど優しく。ベッドがわずかに反発した。私たちは磁石のようにくっついた。私は生まれて初めて服を邪魔だと思った。こんなものがなければ彼女ともっとくっつけるのに、と。そう思って彼女の服に手をかけた──。
しかし、彼女がゆっくりと唇を離した。
どうして、やめちゃうの?
もっとしていたいのに。
もっと、一緒にいたいのに──。
私は涙でにじんだ目で、それを言葉に出さず訴えた。
シナモンは私のその目を見つめていやらしく微笑み、人差し指で私の唇を撫でながら「それは、駄目」とささやくように言った。
なんてひどい、と思った。私には親友の言葉の意味が、一瞬でわかってしまった。
そんなの、あんまりだった。
唯一無二の親友に対してそれは最高の信頼と言えたし、最低の裏切りとも言えた。
それは私が死ぬまで苛まれ続ける、決して解けない呪いのようなものだった。
彼女は命をかけて、私にその呪いをかけたのだ。
にじんでいた涙があふれて、シナモンの頬に落ちた。涙は頬の形に沿って消えていった。私の顔は少しずつ歪んでいき、涙がもっとあふれた。その一粒が唇に落ちると、彼女は舌でぬぐって小さく笑った。
私はシナモンの手を握り、指を絡めて、もう一度唇を重ねた。
「私は、これから一人でどうすればいいの? 私にはシナモンしかいないんだよ? シナモンが死んだら、私はどうやって生きていけばいいの? わからないよ、こんなの。いきなり死ぬなんて言われて、こんなことされて、私が納得出来ると思う?」
家の前を車が通りすぎる音や、駆けていく子どもたちの笑い声や、名前のわからない鳥の鳴き声が聞こえた。この鳥の鳴き声を聞くたびに、私はこの鳥の名前がわからないことにイライラしていた。
夕日の差し込む角度が変わったのか、部屋の影の形がさっきと少しだけ変わっていた。
……死ぬなんて、そんなこと、言わないでよ。
とは、言えなかった。それが嘘や冗談ではないことくらい、ちゃんとわかっていたからだ。
親友はいつも有言実行の人間だった。
死ぬと言ったら本当に死ぬ。
まだ何も始まっていないのに。人生はこれからなのに──いや、そのこれからが、もうないのか。私たちが大人になる前にこの星は終わる。
あと数年で、すべての人類が滅亡する。
それをわかっているから、心の底から信じているから、彼女は死を選ぼうとしているのだ。
私との終わりより、私との始まりを彼女は考えていた。
「心配しないで」とシナモンは私の頬を撫でながら言った。「また会えるから。わたしのことを思い出して辛くなったら、世界の終わりのことを考えて。わたしたちにとって終わりの日は、始まりの日になるんだよ。それまで何をしていてもいいし、何もしなくてもいい。とにかく、残された人生をあなたの好きに生きてほしい。そしてそのすべてが無駄なことだとわかったとき、あなたの人生は今よりもっと素晴らしいものになる。自分が死ぬことを本当の意味でわかっている人間は、誰よりも強くなれるよ。死を見据えて生きるんだよ。死はあなたのすぐ傍にいるんだから。上手く付き合ってね。人生は生きるに値しないものだって、心に刻みつけてね」
それからシナモンは不意打ちのようにキスをして、ゆっくりと立ち上がった。私はベッドの上で彼女を見上げていることしか出来ない。彼女は服の乱れを直し、部屋から出て行こうとする。
私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。それでも私はその背中を見つめ続けた。何も出来ない自分でも、それくらいは出来ると信じて──。
そして彼女は振り返らず、扉に手をかけたままこう言った。
「またね」
シナモンがいなくなって一人になった私は、ようやくこの現実を本当の意味で受け入れ始めた。心のどこかにあった甘えが物凄い速さで消えていく。あっという間の出来事に、完全に頭と心が追いついたとき、私は彼女が未来に行ってしまったことを理解した。
そして深夜になって彼女の家から電話があり、私は母親から、シナモンが死んだことを知らされた。
彼女はとてもひどい死に方で死んだ。