5 『サザンカ』
チョークと黒板がぶつかる音がする。その音のたびに黒板には白い文字がヒコーキ雲のように残る。チョークは先生の右手に握られている。先生は右腕を鞭のようにしならせて、次々と何か文章を書き連ねていく。先生は教壇に立っていて、席に座っている生徒たちより一段高い場所にいる。みんなは黒板と机に広げたノートに視線を行ったり来たりさせて、黒板の文字を写していく。
いくつもの筆記用具が踊る音がする。真夏の森のなかで大量の虫が樹々のあいだを移動しているような音だった。みんなの首は上がったり下がったりと、息継ぎをしているように見えた。しかしみんながみんな同じ動きをしているかというと、少し違う。
机の下で携帯をいじっていたり、隣の席の友達と小声で話していたり、教科書で壁を作り弁当を食べていたり、窓の外を見つめていたり、顔を伏せて眠っていたり──それぞれがそれぞれの時間を過ごしていた。
先生は一番前の生徒の顔に唾を飛ばしながら、さながらオーケストラの指揮者のように身振り手振りを加えて教科書の内容を読み上げていく。
窓からは柔らかい日差しが差し込んでいる。
それが蛍光灯の明かりと混ざり合って、教室内をほんのりと暖かくしていた。
誰かのあくびが聞こえた。
穏やかな光景だった。
私はその光景を、自分の席から見回していた。
頭がぼうっとしている。目覚めてすぐのような、夢と現実がごちゃまぜになっているときのようだった。
ここはどこだろう、と自問して、ここは学校の教室だ、と自答した。
どこにでもありふれた、誰もが知っている──私の知らない、いつもの日常だった。
気づいたらここにいた。
まるで異世界に飛ばされたようだった。
私の服は汗で濡れていない。革靴ではなくちゃんと上履きを履いている。さっきまでのことがすべて夢のようだった。
だけどさっきと今、どちらがより現実に近いかと言えば、やはりさっきのほうだった。だからここは確かにさっきまで私がいた教室なのだろうが、間違いなくその教室とは似て非なる場所なのだとわかった。
こんな世界が、どこかにあったのかな、と思った。
自分が普通に学校にいて、普通に授業を受けている世界──。
のどかな光を浴び、先生の発する声を聞きながら、自分に与えられた席に座っている世界──。
周りのみんなと、同じことをしている世界──。
誰もが緩みきった、だらしない顔をしていた。誰も世界が終わるなんて露ほども思っていない。自分たちに死が訪れることはわかっていても、それはもっとずっと先のことだと信じ切っている顔だった。
それは、とても幸せなことなのだろう。
少なくとも、他者との接点を持たず、部屋に引きこもっているよりは。
終わりに囚われる人生より、終わりに囚われない人生のほうが健康的に決まっている。
誰だって送れるなら、そんな人生を送りたいと思うはずだ。
でも私は、それが嫌だった。
正しさのレールの上を走りたくなかった。
それを教えてくれたのは、私のたった一人の親友だった。
その親友が、自らの命をもって私に教えてくれたのだ。
人生とは、生きるに値しないものだと。