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4  『虹色の戦争』


 固く閉ざされた校門を、全身の筋肉を総動員して乗り越えて、敷地内に侵入した。

 白い校舎が古城のようにそびえ立っていた。


 激しい日光が夏の木々を照らしている。空気が熱を帯びて歪んでいる。

 蝉の鳴き声がうるさい。耳もとで赤ん坊が駄々をこねているようだった。


 人の姿はもちろんどこにもない。

 気配のようなものもまったく感じられない。


 世界がもうすぐ終わろうというのに、避難も疎開もせず、誰もいない学校にわざわざ登校するような人間は、きっと私くらいしかいないだろう。


 私はかつてここにあったであろう昼休みの光景を思い描きながら、グラウンドに沿って歩いていく。革靴の底と小さな砂がこすれる音が心地よかった。


      ●


 静まり返った廊下に、間抜けな足音だけが響く。

 むせ返るような思春期の残り香が鼻の奥をくすぐる。


 流れずにとどまっていた空気が私という存在によって再び動き出したのだ。窓から差し込む陽光のなかに、無数の小さな埃が見えた。埃はふわふわと流れるままに蠢いている。かつて地球の海はこんな生物で満たされていたのだろう。それが気の遠くなるような時を経て、私たちへと進化していったのだ。


 数年ぶりに訪れた母校の廊下を歩いていく。足音が生まれては死んでいく──。


 昇降口の扉に鍵がかかっていたので、一階の職員室の窓を金属バットで叩き割ってなかへ入った。

 金属バットは倉庫の横に転がっていた。


 私は何度も何度も金属バットを窓ガラスに叩きつけた。しかし思いきり振り回しても、最初は亀裂一本つけることが出来なかった。正しいスイングの仕方なんてわからなかった。


 金属バットは重く攻撃力に満ちているはずなのに、私の思い通りには全然なってくれなかった。

 自分の腕力のなさをあらためて思い知らされた。


 やがて、こんな薄っぺらい窓ガラス一枚割ることも出来ない自分に腹が立ってきた。

 職員室は見えているのに、そこが別の世界に思えるほど遠く感じた。自分が無力な人間だということは自分が一番よくわかっているのに、それをわざわざ他の誰かに指摘されているようだった。


 イライラして、歯を噛み締めた。

 頬を流れていた汗が地面に落ちた。

 頭がぼうっとして難しいことを考えられなくなってきた。


 過去と未来を繋ぐ現在において今私が成すべきことは、この憎たらしい窓ガラスを跡形もなく粉砕してやることだ。

 こいつは敵だ、私の敵だ、世界の敵だ。

 排除してやる。

 ぶっ殺してやる──。


 私は叫んだ。

 心の底から声を上げた。

 しかし長いあいだ使われていなかった私の喉は、思うような大声を出してはくれなかった。私の声は蝉の声にかき消されてしまうほど小さなものだった。けれど私の咆哮は、私にだけはちゃんと聞こえていた。


 そして私は本能の赴くままにバットを振り回し、さっきまであれだけ強固だった世界を隔てる壁を、飴細工のように叩き割り始めた。


 一振りごとに壁は崩れていき、甲高い音があたりに響いた。


 でも気にしない。私のことなんて誰も見ていない。どれだけみっともない姿を晒しても、世界の終わりにはそのすべてが許されるのだから。


 私はバットを振り回し続けた。


 気づけば職員室に繋がるすべての窓ガラスを破壊していた。

 カーテンが風になびいて揺れていた。

 地面には粉々になった窓ガラスの破片が散乱していた。


 息は荒く、肩が上下に動いていた。心臓から音がはっきりと聞こえていた。

 手からバットが落ちて、地面に転がった。


      ●


 クラスメイトの視線がいっせいに自分に突き刺さる妄想を振り払って、教室の扉をこじ開けた。扉は建付けが悪いのか、人体を引き延ばす拷問道具のような音を立てた。開けた瞬間、行き場を失って熟成されていた思春期のにおいが全身を包みこんだ。


 顔をしかめずにはいられなかった。

 なんと生気に満ち溢れた匂いだろう。

 吐き気がするほどいい匂いだった。


 いや、もしも私の胃のなかに十分な量の食べ物が詰め込まれていたら、この場で嘔吐していただろう。私はむせて、何度も咳き込んだ。まるで肺がこの空気を取り込むのを拒否しているようだった。


 しかしこの匂いは一生かいでいたくなるほど麻薬的だった。吸いたい気持ちと吸いたくない気持ちが渦を巻いていて、吸えば吸うほど苦しくなった。

 だけど吸わずにここから立ち去るという選択肢はなかった。

 私はこの匂いをかぐために今日ここへ来たようなものなのだから。


 教室のなかにも、もちろん誰もいなかった。


 膝の震えを抑えて、足を踏み入れた。境界線をまたいだ瞬間、薄い膜のようなものが肌に張りついて、全身の筋肉が固くなった。特に両頬の筋肉は死んだように停止し、もともと表情に乏しい私の顔が、さらに冷たくなった。


 目だけを動かして、なかを見回す。

 カーテンが中途半端に開いていたので、薄暗い教室はその細かな輪郭まで見ることが出来た。


 等間隔に並べられた机と椅子、床の木目、ゴミ箱、掃除用具入れ、くすんだ色のカーテン、教壇と黒板。黒板にはチョークで大きく《我らが地球よ、さようなら!》と書かれていた。その周りにはいくつもの落書きがあった。そのどれもが同性への友情の言葉であったり、異性への愛の告白であったりした。卒業式の日のようだと思った。


 私は一歩ずつ進んでいく。一歩ごとに、吐き気を伴う思春期の匂いに慣れていった。薄い膜のようなものは空気と混ざり合い、ところどころに穴が開き、硫酸をかけられた皮膚のようにただれて消えていった。


 私の席は、廊下から三列目、前から四番目──。

 自分の席だった椅子をそっと引いた。椅子の足が床をひっかき、小鳥のさえずりのような音を立てた。

 軽く深呼吸をして、ゆっくりと腰を下ろしていく。

 誰もいないはずなのに、誰かの視線を感じる。

 まるでとんでもなく悪いことをしているような気分だった。


 椅子は生温かかった。お尻の肉が椅子の形に広がり、椅子と合体したようになった。あるべき場所に収まったような安定感を覚えた。


 息を吐くと、疲れが押し寄せてきた。

 手足だけでなく内臓まで重くなったように感じた。


 蝉の鳴き声がうるさくなく、ちょうどいい音量で聞こえていた。


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