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3  『陽炎』


 バスや電車はもう機能していないので、学校までの長い道のりをひたすら歩き続けるしかなかった。


 途中で何度も心が折れかけた。私は何をやっているのだろうかと。

 放置されている自転車を拝借して学校まで乗って行こうかと思ったが、自分が自転車に乗れなかったことを思い出して、諦めざるをえなかった。あんな車輪が二つしかない不安定な乗り物に乗れる人間の気が知れない。


 腕時計に目を落とすと、時刻は正午を回ったところだった。腕時計は中学生のときに使っていたもので、その存在を思い出して机の引き出しの奥から引っ張り出してきたのだ。


 電池が切れずにまだ動いていたことに感動した。

 誰も見ていなくても、私のかつての相棒は休むことなく暗闇のなかで時を刻み続けていたのだ。


 もうかれこれ二時間以上歩き通している。

 自分のどこにそんな体力があったのか、まったく心当たりがない。


      ●


 天から啓示を受けたように、ふと学校へ行ってみようと思った。

 そしてまるで誰かに見えない糸で操られるように、普通の女子高生になるための支度にとりかかり始めた。


 久しぶりに自分の姿を鏡で見て、その髪の長い化け物が自分だとは思えなかった。前髪を指でそっとずらしてみると、鏡のなかの自分と目があった。

 目には生気がなく、色彩の一切が失われ、どんよりと暗かった。


 ありのままの現実を直視して気持ち悪くなった私は、急いではさみを持ち出してきて、せめてこの前髪だけでもどうにかしようと眉のあたりで切り落とした。雑な仕上がりになったが、どうせ世界は終わるのだから視界さえ確保出来ればよかった。


 次にお風呂場に駆け込んで、全身にこびりついた長年の汚れを削り落とすように洗い流した。

 体に当たったシャワーのお湯は鈍色に染まり、渦を描いて排水溝へ吸い込まれていった。


 その結果、肌は脱皮したように綺麗になり、髪の毛には昔のようなうるおいとつやが戻った。体からは生ごみのような腐臭が消え、南国の果実を思わせる甘い香りが漂い始めた。


 お風呂場から出て、もう一度鏡を見た。

 私は、自分の瞳に小さな光が宿っているのを見逃さなかった。


 制服は新品同様に綺麗な状態で部屋の隅に打ち捨てられてあった。

 手を伸ばせば届くところにあったのに、それらは今そこに現れたかのようだった。


 袖を通してみると、真っ白なセーラー服と紺色のスカートは、驚くほどサイズがぴったり合っていた。

 つまり私は、これを買った当時から何も成長していないということになる──。


 革靴も綺麗な状態のままで下駄箱の奥に仕舞ってあった。

 私の足は居場所を見つけたように、煌めく二つの靴へ吸い込まれていった。


 そして目の前に立ちふさがる扉をじっと見つめた。

 この扉の向こうには、きっと自分が望んだ通りの世界が広がっている。


 数年ぶりとなる外の世界に対して、不安や恐怖といったものはまったくなかった。


 ゆっくり扉を開けていく。

 差し込む光はどんどん大きくなり、私を祝福するように降り注ぎ始めた。


      ●


 腰まである髪が風になびいた。

 国道にかかる大きな橋を渡る。

 車は当然のように一台も見当たらない。


 夏の風が吹いた。

 世界の終わりの匂いがした。


 喉が渇いたので、明かりがついていないコンビニに入った。店内は散らかっていて、埃っぽく、レジには誰もいなかった。

 雑誌は先月号のものが棚に陳列されたままだった。


 色々と持っていかれたのだろう、虫食いのように商品が消えていた。飲み物はなぜか数本だけ残されていた缶コーヒーしかなかった。そのうちの一本を手に取ると、それは無糖のブラックコーヒーだった。黒いラベルの缶は重みがあって、手のひらに吸い付くようだった。


 私はそれを持ったまま、店の外へ出た。

 誰も見ている人はいなかったし、たとえ見ていたとしても、警察や司法はもうまともに機能していないので、私を法律で罰することは出来ない。


 ささやかな犯罪行為に、胸が少しだけどきっとした。


 指に力をこめてプルタブをこじ開け、缶に口を付けた。

 常温で放置されていた生ぬるいブラックコーヒーは、お世辞にも美味しいとは思えなかった。しかしこのほろ苦さは嫌いではなかった。


 顔をしかめながら夢中で飲み干した。

 私は生まれて初めて飲んだブラックコーヒーという飲み物を、世界が終わるときにまた飲みたいと思った。


 学校が遠くで揺らめいていた。


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