2 『Hey Ho』
いつのまにか家族がいなくなっていた。神隠しにでもあったようだった。書置きの一つもなかった。
生活感はそのままに、空気だけが淀み始めていた。
私は薄暗いリビングのドアを開けたまま、しばらく立ち尽くしていた。そしてようやく両親と弟が、私を置いてどこか遠くへ行ってしまったことに気がついた。
台所に行き、蛇口をひねり、コップに水をそそいだ。まだ水道が生きていることに安堵しながら、私は一気に煽った。しかし気が緩んでいたのか思いっきりむせてしまい、咳き込みながら水を床に吐き出した。
鼻や気管がむずむずして苦しい。だけど私のそんな醜態を見咎める人間は、どこにもいなかった。
私はすぐ冷静さを取り戻し、今度は落ち着いて生温い水を喉の奥へ運んだ。喉が音を立てる。その音だけしか、私の耳には聞こえなかった。
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久しぶりに外へ出たから歩き方を思い出すのに少し時間がかかった。そしてこの数年間まったく使われていなかった私の筋肉は、もう悲鳴を上げつつあった。
額に汗が浮かんだ。それを手の甲で拭った。
家の外へ出たことを一瞬だけ後悔した。
果たして自分は、無事に学校へ辿り着けるのだろうか──。
炎天下のなか、私は自分が通学路の途中でのたれ死んで、野良犬とカラスとウジの餌になるところを想像した。限界まで熱せられたコンクリートに横たわって、私はこんがり焼かれて美味しそうだ。彼らは私のことを骨の一本になるまでしゃぶりつくしてくれるだろう。
ぼやけて揺れる世界を見つめながら、そんなことを考えた。
坂を登りきると、私の住んでいるこの町が中途半端に見渡せた。名物も名産品もない、マスコットキャラクターもいない、犯罪率が極めて低いことだけが唯一の自慢である、つまらない町だ。
町はここからでもわかるほどに、生の気配を感じなかった。
しかしそれはこの町に限った話ではなく、全世界規模でどこも同じ状態だった。
みんな地下のシェルターに潜ったり、親戚のいる田舎に疎開したり、地球の裏側まで避難したりしている。自分の住んでいる町を捨てて、一日でも長く生き延びようと必死に無駄な努力をしている。
私の家族もそのどれかを選んだのだろう。
どこに行ったのかはわからない。今頃家族三人で肩を寄せ合って、迫りくる地球最後の日に向けて心の準備でもしているのかもしれない。
だけど逃げて、何がどう変わるというのだろう。
一週間後には、この地球上で人類が生きていられる場所なんて一つも残されていないのに──。
八月三十一日、人類は滅亡する。
直径五百キロメートルをこえる超巨大隕石の衝突によって、一人残らず虐殺される。
恐竜を絶滅させた六五〇〇万年前の隕石が、直径わずか十キロメートル程度のものだったことを考えると、その破壊力たるや想像に難くない。
地球は容赦なく破壊され、そこに生きるありとあらゆる生物は一瞬にして死に絶える。人類がこれまで積み重ねてきた歴史と文明は、その日をもってすべてめでたく終わりを迎えるのだ。
しかし誰もその隕石の存在を知らなかったわけではない。むしろ知っている人間は少なからずいた。しかも彼ら彼女らはずっと前から隕石の衝突を主張し続けていた。
だが世界はそれをまったく受け入れず、狂人どもの戯言と笑った。
かつて何度も嘘に踊らされた人類は、世界の終わりを一向に受け入れようとはしなかった。
自分たちのかけがえのない日常はこれからも永遠に続いていくのだと、つい最近まで誰もが信じて疑わなかった。
そして人類滅亡の未来がようやく現実味を帯びてきたのが、今年の春頃だった。
日本では例年通りの桜が咲き誇り、その花びらがひとひらも残さず散ってしまった後だった。
日本人は嘆き悲しんだ。
あの桜が、自分たちが見ることの出来た最後の桜だったのだと。
こんなことになるのなら、もっと寄り添っていたかったと。
そして世界中が蜂の巣をつついたような大混乱に襲われた。
地球上に住むすべての人類が、やっと事の重大さを認識し始めたのだ。
隕石は誰が名付けたのかはもうわからないが、北欧神話における終末の日になぞらえて《ラグナロク》と呼ばれるようになった。
それから強盗や殺人の件数が跳ねあがった。この世界規模の大混乱に乗じて、死ぬまでに一度でいいから人を殺してみたいという欲求を持った人間たちが、いっせいに行動に移ったのだ。
日本ではあまり見られなかったが、知性と教養が発展途上にある国々では《人間狩り》と称して道行く人々を銃で射殺したり、刃物で惨殺したり、放火で町を火の海にしたりするという光景がよく見られるようになった。
日本では殺人者よりむしろ、自殺者のほうが増えた。日本の人口はみるみるうちに一億人を下回ったという。六月の、梅雨のどんよりとした空気に耐えられなかったのだろう、その時期に自らの命を絶つ人間が激増した。
日本列島は死体で溢れかえった。
私はその光景を直接見てはいなかったが、写真や動画はネットに無数に上がっていたので、それらを見て愉しむのがここ最近の日課になっていた。
誰一人として地球そのものから逃げることは許されなかった。すぐに世界各地のロケット発射場が大量に押しかけた無秩序な民衆たちによって占拠され、スペースシャトルと発射台の数々が一つ残らず破壊された。
これによって自分たちだけは地球外へ脱出し、この未曽有の隕石衝突から逃れようとしていた権力者や大富豪の老人たちの足を引っ張ることに、見事に成功した。名もなき市民の怨嗟の声が、人類の生存者を認めなかった。
どれだけ優秀な頭脳を持っている学者でも、どれだけ飛びぬけた身体能力を持っているアスリートでも、どれだけ人気のある映画俳優でも、一人の例外も許されなかった。宇宙ステーションにいる宇宙飛行士たちは補給がなくなりいずれ死ぬだろうと、無情にも見捨てられた。
現代の文明においても、直径五百キロメートルの超巨大隕石に対処出来る技術はまったく確立されていない。
人類の滅亡は不可避の現実だった。
そして人類は、自分たちに残されたわずかな時間を、思い思いに過ごし始めた。
人を殺してみたり、自分を殺してみたり、不眠不休で神に祈ってみたり、家族や恋人と急造の地下シェルターに潜ってみたり、地球の裏側へ逃げてみたり──新品同然の真っ白なセーラー服を身にまとい、真夏の炎天下にうなされながら、入学式の次の日から不登校になり二度と通うことがなかった自分の母校へと、地を這うなめくじのような足取りで登校してみたり……。