第一章 8
翌日、リヴィアは邸の蔵書室に赴いた。
(昨日は本当に疲れた……)
結局クラウディオがいなくなった後も、リヴィアはしばらく東屋から出ることが出来なかった。
おまけにようやく顔の赤味が引いて邸に戻ると、両親が今から国王陛下でもお招きするのか、というほどの歓迎会の準備をしているところだった。
(結局断れた……のか?)
どうして何も言わずにお帰しするの⁉ と責め立てられ、リヴィアは正直に経緯を説明する。縁談を断った、と知った両親は一気に魂を取られたような顔つきになり、そのまましおしおと自室に戻って行った。
その姿を見たリヴィアは申し訳ないと思いつつも、やはり気持ちは変わらない。
(私だって、う、嬉しくないわけではない……だがやはり、クラウディオにはクラウディオとしての、進むべき道があるはずで……)
穏やかに微笑むクラウディオの顔が脳内に甦る。
同時に、指先に触れた彼の唇の感触も思い出してしまい、リヴィアは雑念を払うようにぶんぶんと首を振った。
一旦落ち着こう、と気を取り直して書架の前に立つ。
「ふむ……まずは年表か」
それらしい本を手にしたリヴィアは、ぱらりと表紙を開いた。
ページには伯爵家の歴史に合わせて、この国の変遷がつづられている。現在から過去へ、リヴィアは次々とページを繰った。
(――あった、イリア帝国)
今から二百五十年ほど前、年表の多くを占める国。
その前の時代を見ると、『ロランド王国』という名前が併記されている。年号も記憶の通りだ。
(セルド歴三十五年、イリア帝国によって併合……我々は、負けたのか……)
ベアトリスが命を失ってからすぐに、母国ロランドは帝国の手に落ちていた。その後帝国は栄華を極め、約百年近い治世を築いたらしい。
前世のこととは言え、自らの国が滅亡したことに、リヴィアは胸を痛めた。そのまま年表を辿っていくと、やがてイリア帝国が終わりを迎える。
(トリアス歴六十六年、イリア帝国で内部反乱が発生。以降反乱軍を率いた領主たちが力を持ち、それぞれが国としての権利を主張した……)
前世であれだけ苦戦させられた帝国は、最期は内側から崩壊したようだった。広大であった帝国の領地は三分割され、それぞれが国として独立した。そのうちの一つが、今リヴィアのいるルーベン王国らしい。
(あれだけ強大であった帝国が……皮肉なものだな)
年表から読み取れる情報はそのくらいで、リヴィアは静かに本棚に戻した。他にもいくつかの資料を紐解いてみたが、子細な歴史が分かるものはない。やはり伯爵家の蔵書程度では、国家のあれそれに関わる情報は得られないのだろう。
あらかたの本を確認したリヴィアは、はあと小さく肩を落とした。すると本棚の脇に立てかけられていてた巻物に気づく。なんだ? と思いするする広げると、国内の詳細な地図が現れた。
「この地形……この国は元々、ロランドの土地だったのか」
中央にあるのがルーベン王国。
それと隣接するように二国の輪郭が描かれていた。
三つに分かれていて気付きにくいが、三国を合わせた形は、帝国とロランド王国を合わせたものとほぼ合致する。しかも過去ロランドだった領土の大部分は、ルーベン王国が統治していた。
(まてよ、それならば……)
リヴィアは大きく目を見開くと、過去の記憶と照らし合わせながら、東の国境付近を指でなぞった。年月が経っても変わりにくい山や川、平地などを辿り、ようやく目的の場所を捜し当てる。
リヴィアは地図をもとの場所に戻し、勢いよく玄関へと駆け出した。そのまま厩舎に向かうと、干し草を運んでいた下男を呼び止める。
「すまない、馬を一頭貸してもらえないだろうか?」
「お嬢様? う、馬なんて、どうして」
「どうしても行きたい場所がある。だが馬車で行くには道が悪い」
「で、でしたら輿で……」
「出来るだけ早く行きたいんだ。頼む」
「そ、そう言われましても……」
すると騒ぎを聞きつけた御者が、慌てた様子でとりなしにやって来た。
「リヴィア様、申し訳ございませんが、さすがにお嬢様お一人では……」
「そう、だよな……いや、無理を言ってすまなかった」
蒼白になっている二人の顔色に気づき、リヴィアはすぐに引き下がった。考えてみれば、父親からも一人での乗馬は禁止されていた。ここでリヴィアが無理を通せば、叱責されるのは彼らの方だろう。
(くそ……こんな時、アルヴィスがいれば……!)
ベルベットのような見事な毛並みと、他の追随を許さない素晴らしい駿馬だったかつての相棒を思い出し、リヴィアは心の中で嘆息を漏らした。
するとそこにもう一人――アルヴィスではなく、別の元・相棒が顔を覗かせる。
「失礼。リヴィア様、こちらにおられましたか」
「ル、じゃない、クラウディオ⁉ 何故ここに」
「婚約者の家を訪れるのは普通のことでは?」
「毎日来るのは普通ではないだろう。そもそも、私は昨日断ったはずだ」
するとクラウディオはうーん、と苦笑した。
「俺は諦めていませんので」
「はあ?」
「何度断られても、何度だって求婚します。だって俺には貴方しかいませんから」
まったく知らない男から言われたら、何だこいつはと殴り倒したくなる台詞だ。
しかし相手は、はるか二百五十年前の前世からリヴィアを慕っていたという筋金入り。ちょっとやそっとで引き下がるはずがない、とリヴィアは気が遠くなった。
そんな強気な騎士団長は、はてと首を傾げる。
「それで、どうしたんですか?」
「あ、ああ、その、馬を借りようと思ってだな……」
ここで問答しても無意味か、と察したリヴィアはとりあえず事情を説明する。するとクラウディオは、どうすればと小刻みに首を振る御者と下男の顔を見た後、ぱあっと明朗な笑みを浮かべた。
「そんなことでしたら、俺が」
「え?」
「一人では難しいのでしょう? でしたら俺がその場所まで、乗せて行って差し上げますよ」
「な⁉ だ、だが、しかし」
「どうでしょう、それでしたらお許しいただけますか?」
クラウディオが御者に問いかけると、彼は先ほどまでの混迷が嘘のように、晴れ晴れとした表情で何度もうなずいた。
「も、もちろんでございます! かの騎士団長様でしたら、我々も喜んで送り出せますとも!」
「お、おい! 一応私はまだ嫁入り前の娘で、男と二人なんて父上が許すはずが」
「旦那様からは『ランディア卿の言うことには、我が命と思って従うように』との指示が出ております!」
(ち、父上ー!)
「やあ良かった。では行きましょうか」
何としても公爵家との結婚を成立させたい。
そんな父親の思惑をありありと感じながら、リヴィアは一人拳を握りしめた。
「リヴィア様、お手を」
「ああ」
正門の辺りで、リヴィアはクラウディオに引き上げられながら、ようやく馬の背に腰かけた。クラウディオの馬は栗毛で、人間を二人乗せてもまったく動じない強靭さがある。馬の頸とクラウディオに挟まれる形で横向きに座り、リヴィアは視線を前に向けた。
「おお、結構高いな……」
「この時代では、女性が一人で馬に乗ることはまずありませんからね。リヴィア様も初めて乗られたのでは?」
「いや、一度こうして乗せてもらったことがある」
すると背後で手綱を引きかけていたクラウディオが、ぴたりと腕を止めた。
「そ、それは、一体どなたと……?」
「父上だよ。小さい時、どうしても乗りたいとだだをこねたんだ」
「あ、あー、そういうことですか」
「なんだ?」
「いえ、なんでもありません」
んん、と変な咳ばらいをするクラウディオに、リヴィアはわずかに眉を寄せた。
やがてクラウディオの合図を受けて、馬がゆっくりと一歩を踏み出す。規則的な歩調が少しずつ速くなっていき、リヴィアは懐かしい振動に心を浮き立たせた。