第一章 7
「分かりました」
「! わ、分かってくれたのか」
「確かに結婚は早すぎますね」
「そう、その通りだ」
「まずは『婚約』から、ということですね!」
違う、そうじゃない。
一瞬伝わったと期待したところからの落差に、リヴィアは思わずがくりと脱力する。そういえば前世のルイスもやや天然めいたところがあり、よく同僚たちからからかわれていたのを思い出した。
「いや、順序の話ではなくてだな。たとえばほら、私はただの伯爵家の生まれだが、今の君は次期公爵だ。伴侶とすべき女性にも家柄とか領地とか、それなりの条件があるんじゃないのか?」
「父はそういうことをあまり気にしない人なので。実際俺の母は子爵の生まれですし、この求婚も既に許しを得ています」
「だ、だとしても、もっと私以上に良い縁談の話もあるだろうし」
「記憶が戻って以来、ベアトリス様のことだけを探し求めていましたので、今までの縁談はすべて断っています。おかげで周囲からは女嫌いや変人扱いされていましたが、いやあ、諦めなくて本当によかったです」
「ぐ……」
この男、付け入る隙がない。
確かにルイス時代も、攻撃と防御のバランスが素晴らしく、目立った弱点がないことで有名だった。
その剣技は実に見事で、彼との組み手はスリルがあって本当に楽しかった――と回想に向かいかけたところで、リヴィアは違う違う、と首を振る。
「えーと、あとは、あれだ! 私はまだ十八になったばかりだぞ」
「俺は二十五ですね」
「ほら、年齢だって、前世の頃とはまったく違うし……」
「七歳差なんて、誤差みたいなものですよ。それに俺としては」
するとクラウディオは突然立ち上がり、リヴィアの隣に腰を下ろした。おもわずびくりとなるリヴィアだったが、ここで距離を空けるのは失礼かと必死に堪える。
逃げ出さないのを良しとしたのか、クラウディオはリヴィアの手をそっと持ち上げた。
「ようやく貴方の歳を越えられて、嬉しくて仕方がないんです」
「ク、クラウディオ?」
「ベアトリス様はいつも俺を弟扱いしていたでしょう? たった二つしか違わなかったのに」
「そ、それは、その」
「俺、すごく悔しかったんですから。でも今はもう、弟なんて言わせません」
クラウディオの手が下に添えられ、そのまま指を絡ませるように握られる。その手は記憶にあるルイスのものよりずっと大きく骨ばっていて、リヴィアは一気に緊張を走らせた。
(弟⁉ そんなこと……いや、そういえば……)
思えばルイスは隊の中でも若い方だった。そのため普段から弟分的な立ち位置にいることが多く、ベアトリスもまた皆に倣って、ルイスを可愛がっていた覚えがある。
まさか今更になって、そのことを指摘されるなんて。
心臓が鳴りやまないリヴィアをよそに、クラウディオは絡めていた手にぐっと力を込めた。
「貴方がいつ俺の前に現れてもいいように、ずっと努力してきました。体も鍛えたし、剣術だってルイスだった頃よりずっと上達しています。それもこれも全部、ベアトリス様のためです」
「私、の?」
「貴方を守りたい。もう二度と、あんな形で……貴方と別れたくないんです」
わずかに顔を上げると、真摯にこちらを見つめるクラウディオの視線とぶつかった。ルイスと同じ深紫のはずなのに、その内側には凄絶な死を経験した男の、揺るぎない炎が灯っているかのようで、リヴィアは思わず顔を伏せる。
(私だって……あんな残酷な終わり方、もう二度とさせたくない……)
そこの記憶を思い出そうとすると、今でもわずかに手が震えた。
どうして救えなかったのか、助ける方法はなかったのか――もう決して巻き戻らぬ事柄を、何度も何度も考え、後悔し、絶望してしまう。
だからこそ、とリヴィアは小さく息をついた。
「私も……君を失いたくはない」
「ベアトリス様、それでは」
「だがそれは『前世』の話だ。ルイス……私は君に、縛られてほしくないんだ」
ベアトリスもルイスも一度命を終え、新しい人生を得た。
次期公爵という華々しい人生を得られたのも、きっとルイスの勇気に対する褒章のようなものに違いない。
「君が私を好きだと言ってくれたこと、本当に嬉しかった。結婚をしようという言葉にも偽りはない。だがあれはあくまでも、ベアトリスとルイスの話だ」
「……」
「今の君は『クラウディオ・ランディア』だ。次期公爵で騎士団長という、立派な地位をその努力によって得た人間なんだ。だからどうか……前世のことは忘れて、この世界で新しい幸せをつかんでほしい」
胸の奥で絡み合っていた複雑な感情を、リヴィアはゆっくり紐解きながら吐き出した。掴まれていた手をそっと離すと、クラウディオもまた押し黙ったまま腕を下ろす。
「……わかりました」
「……」
「突然、こんなことを言い出して、申し訳ありません」
やがてクラウディオは立ち上がった。なんとなく顔を上げることが出来ず、リヴィアは俯いたまま、彼が離れていくのを待つ。
だがクラウディオはくるりと踵を返すと、視線を落としたままのリヴィアの前に跪いた。驚くリヴィアを見て目を細めると、そっと自身の胸元に手を当てる。
「確かに、今の俺はルイスではない。クラウディオという男です」
「……」
「貴方の言う意味も分かります。新しい生を受け、その人生を全うせよ、と」
でも、と躊躇いがちな微笑みが続く。
「それでも俺は、貴方が好きです」
「……!」
「ベアトリス様は新しい幸せと言いましたけど……今の俺にとって、一番の幸せは貴方と――リヴィア様と結婚することなんです」
「ク、クラウ、ディオ」
「改めて申し上げます。リヴィア様、俺と結婚していただけませんか?」
そう言うとクラウディオは優しくリヴィアの手を取り、その指先に口づけた。今度は振りではなく、しっかりとした感触が伝わって来て、リヴィアは一気に混乱してしまう。
その様子を見たクラウディオは嬉しそうにはにかんだ。
「でも少し性急すぎましたね。今日のところは、これで失礼いたします」
「あ、ああ……」
「それでは、また」
するとクラウディオは、軽く会釈をすると颯爽と東屋を後にした。怒涛の展開に呆然としていたリヴィアだったが、何となく心細くなり、たまらず脇に置いていた花束を抱きしめる。
(あ、あれは、本当に元ルイス、なのか?)
ベアトリスの知っているルイスとは全然違う。
大人びた言動に、こちらを翻弄する態度。手も体も、かつてとは全然違っていて――思い出すだけで心拍数が上がっていく。
かぐわしい薔薇の芳香にうずもれながら、リヴィアは火照る顔を隠すように、さらに強く花束を握りしめた。
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王宮に戻るため馬を駆っていたクラウディオは、先ほどの自身の言動を思い出すと、突然赤面した。
(お、俺は、なんてことを……)
昨日の再会があまりに衝撃的で、勢いのまま彼女の家と名前を調べたあげく、実家とリヴィアの家にすぐに手紙を出してしまった。
だが出した後で、『書面だけではなく、直接言わないと失礼なのでは⁉』と思い至り、急遽仕事の都合をつけて馬を走らせるという無計画ぶり。
おまけに案内された邸の扉越しに、なにやら断られそうな空気を察してしまい、クラウディオは慌てて乗り込んでしまった。
(それにしても……可愛かった……!)
ベアトリスだった頃も尊敬していたが、歳が逆転し、普通の令嬢のように振る舞うリヴィアはそれだけで愛しさの塊だった。以前の隊長だったら絶対に着ないようなひらひらしたドレス姿も、クラウディオにとっては奇跡の一場面に他ならない。
(しかしやりすぎたか? いやでも、今は俺の方が年上なのだから、しっかりとリヴィア様をリードできるようにならなければ!)
指先に少し口づけただけで、リヴィアの白い肌はあっという間に薔薇色に染まった。ベアトリスだった頃には絶対に見られなかったであろう表情を前に、クラウディオは何かを噛みしめるように、一人拳を握りしめていた。