第三章 9
忘れるはずがない。
かつてベアトリスの隊を全壊させた謎の伏兵。誘拐事件の際、廃屋の倉庫にしまわれていた武器。それらに刻まれていたものとまったく同じ紋章が『ザイン』として描かれていた。
その主は――第九代イリア帝国・皇帝陛下、ヘルフリート。
(第九代……? 我々が争っていた時代の皇帝は八代目だったはずだ。つまりこいつは、ロランド併合後に皇帝となった男か)
在位の年数を見ても違いはないだろう。だが、とリヴィアは眉を寄せる。
(この年数が正しいとすれば、ヘルフリートは当時八歳という計算になる……そんなに幼い子どもが、一体何を出来ると言うんだ?)
普通に考えれば、ヘルフリートの私設兵がベアトリスの隊を襲った、と考えるのが自然だろう。だが八歳という年端も行かない子どもが、戦場の指揮が取れるとは思えない。
ヘルフリートについて詳しく書かれているものはないか、とリヴィアはさらにページを繰る。しかし彼について書かれていたのは、やはり先ほどの系譜図だけだ。
他の本も隅々まで確認してみたものの、やはりヘルフリートに関する情報は得られない。念のため書庫番にも尋ねてみたが、首を横に振るばかりだった。
(戦乱によって失われた本も多いのだろう……だがとりあえず、私の隊を襲ったのは間違いなく帝国側の兵だった……問題はそれを誰が指示したか、だな……)
おそらくその人物を突きとめられれば、内通者の存在も明らかになるはずだ。しかし今手元にある資料だけでは、とても捜し当てられそうにない。
それによく考えてみれば、バルデス将軍もこの書庫で同じものを確認しているはずだ。もし内通者を特定できる何かがあれば、とっくに見つけ出しているだろう。
「やはり、時間が経ちすぎている……何か他の手がかりを探すしかないな」
はあ、とため息を零したリヴィアは、手にした本を戻すべく書架へと向かった。元の位置に差し戻しつつ、隣に並んでいる書目にぼんやりと目を向ける。
その瞬間、リヴィアの視線は釘付けになった。
(『新婚さん必見! 旦那様に作ってあげたい♡ラブラブメニュー』……だと⁉)
そのあまりに場違いなタイトルに、リヴィアはわなわなと唇を震わせた。なぜこのような本が王城の書庫に⁉ と困惑するが、そもそも本は存在自体が希少なもの。どんな内容であっても保管しておく価値はある、と考え直す。
(いや別に新婚と言っても、家では料理人が作ることになるのだから、私が腕をふるうことはないし、……でももしクラウディオが喜びそうな料理があったら……)
リヴィアが料理を出すたび、抑えきれない喜びを噛みしめるようにして笑うクラウディオを思い出し、思わずぶんぶんと首を振った。手にするには相当勇気のいる本を前に、リヴィアはしばらく立ち尽くす。
やがて書庫番にばれないよう、こっそりと本の背に指をかけた。
(す、少し中を確認するだけだ。『肉肉丼』を改良する一助となるかもしれないし……)
拍打つ心臓を宥めつつ、リヴィアはこっそりとページをめくった。どうやらかなり古い本らしく、綴られている紐が今にも切れそうで心もとない。
中には肉、魚、野菜、果物と食材別に書かれたレシピが多数掲載されており、リヴィアは初めて見る料理たちにおおおと目を輝かせた。
家庭的なものからパーティー用のご馳走、お茶会でゲストに喜んでもらえる焼き菓子など、様々なシーンに対応できるようになっている。
(牛肉の表面を焼いて、低温で長時間火を通す……なるほど、こうした肉を薄く切って丼に乗せても良いかもしれないな……)
かつてのベアトリスであれば、こうした本があることにすら気づかなかっただろう。
やがて『各地の郷土料理』と題されたページにたどり着いた。イリア帝国の名産である野菜を使ったもの、地方の村でお祭りの際に食べられる夕食――そして現れた一つの料理の箇所で、リヴィアはぴたりと手を止める。
(これは……)
それはロランド王国の建国祭で振舞われる焼き菓子だった。
卵と牛乳を混ぜた小麦粉を、油で揚げて砂糖をまぶしたもので、ベアトリスも小さい頃食べた記憶がある。ルイスも好きで良く買っていたな、と思い出し笑いをするリヴィアだったが、見出しの下に書かれていた作者の一言に息を吞んだ。
「『これは私の故郷、ロランドのお菓子です』……?」
まさかこんなところでロランドの名を見るとは、とリヴィアは慌てて次のページもめくってみる。紹介されていたのは四品と少なかったが、ロランドの家庭料理や他国にはほぼ知られていない伝統的な食事などで、リヴィアはいよいよ確信を深めた。
(この著者は……ロランド出身で間違いない)
だが仮にそうだとすれば……どうやって敵国であったイリア帝国の料理まで、網羅することが出来るというのか。
(そうだ、最後のページに著者の情報が書かれているはず)
リヴィアは緊張に震える手で、裏表紙側を開いた。一番後ろに当たるページには『セルド歴五十二年』という年数が書かれている。その数字の奇妙さに、リヴィアは思わず眉を寄せた。
(これは……ロランドが併合された『後』に書かれたもの……?)
ロランド王国が帝国に吸収されたのは、セルド歴三十五年のこと。この本が書かれたのは、それから十七年も経ってからということになる。
つまりこの作者は、イリア帝国の支配下に置かれながら、生き残ったロランドの民ということだ。
おまけに『本を書く・読む』という行為は上流貴族のみ許された贅沢なため、当然この作者もそれなりの地位を有していたはず。
(だが他国の傘下に置かれた場合、元々の国の貴族たちは、爵位や財産を剥奪されることがほとんどだ……この人物だけ、その屈辱を受けなかったというのか?)
もちろん、敗戦国のすべての貴族が地位を失うわけではない。
しかし領地への支配が長く、領民たちの強い反感を得る恐れがある場合や、宗教・儀礼的な役割を担っている家であるといった何らかの理由が必要だ。
そしてもう一つ。
(……いや、あるな。家名を残すため、最も多く取られる手段……)
それは、戦勝国とあらかじめ密約を結んでおく方法だ。
物資の供給や武器の支援など、敵国の利になるように動くことで、戦争が終結した際に自らの身分だけは保証してもらう。
戦いが長期化し、自国の旗色が悪くなったと判断した場合におきがちだが、ばれてしまえば当然、国家反逆という大変な重罪だ。
(もしやこの人物が、……内通者に関係している?)
疑惑の念は、次第に怒りに変わっていく。バルデス将軍もおそらく、こんなタイトルの本の作者までは把握してはいないだろう。
焦るなとリヴィアは深く息を吸い込み、そろそろとその名前をあらためる。だがその名前を見た瞬間、こくりと息を呑み込んだ。
「……コサ・リカ?」
そこに書かれていたのは、黒髪に褐色の肌をした男――ラウルの腹心である彼の名前だった。







