第三章 7
「はあ、……はあ、ここなら、誰もいないな……」
あまたの人影をかいくぐり気配が無くなったところで、リヴィアはようやく足を止めた。
どうやら会場の裏手まで来てしまったらしく、静かな庭の向こうには物寂しい回廊が続いているだけだ。走ったことより精神的な疲弊がすごい、とリヴィアはぼんやりと回廊の一角へ向かう。
(なんだかこう、無性に体を動かしたい……)
そこでリヴィアはふと、回廊の柱を仰ぎ見た。その上に繋がる天井は、平素に見かけるものより低く、ジャンプすればリヴィアの身長でも届きそうだ。
(この縁……懸垂にもってこいなのでは?)
突如ひらめいた考えが抑えきれず、リヴィアはドレス姿のままひょいと飛び上がった。予想通り天井はリヴィアの体を支えるのにちょうどいい高さで、おまけに指先で掴みやすいよう深い溝まで掘られている。
(おお! 素晴らしいな!)
自宅には懸垂に適した場所がなく、少々不満に思っていたリヴィアはこれ幸いとばかりに両腕を折りたたむ。
以前のリヴィアであれば一、二回が限度だっただろうが、剣の鍛錬で筋肉がついたのだろう、いとも簡単に体が持ち上がった。
楽しい! とリヴィアは夢中になって懸垂を続ける。
だが突然、良く通る女性の声が響き渡った。
「そこにいるのは、リヴィア・レイラか」
「――!」
気配を感じ取るのが遅れ、リヴィアは慌てて縁から手を離した。
ぱたぱたとドレスの裾を整えると、動揺をひた隠しにしながら楚々と顔を上げる。
(まったく気づかなかった。一体誰が――)
「失礼いたしました。お見苦しいところ、を……」
だがそこに現れた人物の正体に、リヴィアは目を疑った。
現れたのは王妃殿下――銀に近いブロンドを華やかに結い上げ、濃紺のシンプルなドレスを着こなしている。
肩と背中を出したデザインがよく似合っていた――が、リヴィアは思わず「む?」と眉を寄せる。
夜の闇の中でも輝く白い肌。
だがその露出した部分には、とても女性とは思えないほどしっかりとした上腕二頭筋がついており、リヴィアは恐る恐る上を向く。
王妃の澄んだ緑色の瞳を見つめた瞬間、覚えのある衝撃に襲われた。
彼女は。
いや、『彼』は――
「……将軍閣下、ですか?」
「そうだ。ようやく思い出したか、ベアトリス」
形のよい唇が、大きく横に広げられる。
その笑い方を見て、リヴィアは思わず額を押さえた。
現世では国の母たれと慈愛に満ち溢れた王妃殿下。
その前世は――素手で熊を倒しただとか、不死身だとか、とにかく武勇を挙げたらきりがないほど豪放磊落な無敵の男。
ベアトリスの上司でもある将軍閣下・バルデスだった。
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今までの思考がすべてすっ飛んでしまうほど驚いたリヴィアは、慌ただしくその場に跪いた。顔を上げるのも恐ろしいとばかりに、回廊の床を見つめたまま口を開く。
「た、大変失礼いたしました! まさか閣下まで、こちらにいらしているとは……」
「顔を上げろベアトリス、いやリヴィア殿。せっかくのドレスが汚れてしまうぞ」
「も、申し訳ございません……」
そろそろと立ち上がり、改めて王妃の方を見る。
齢は五十ほどだろうか。自信に満ちた顔つきは美しく、凛然とした美しさをあますところなく体現していた。
胸の前で組まれた腕には隆起した素晴らしい血管が走っており、立派な上腕二頭筋も見間違いではない。
「久しぶりだな。息災だったか」
「は、はい。閣下は……王妃殿下になられたのですね」
「いや何、最初はただの侯爵家の令嬢だったんだがな。気づけばこんなところまで来てしまった」
「令嬢……」
「安心しろ、夫婦仲は良好だ。前世の記憶があるとはいえ、今の私は女性だからな」
どうにも処理が追い付かず、リヴィアは頭の中で情報の整理を繰り返していた。性別の違いでつい騙されそうになるが、彼女の纏う圧倒的な空気はまぎれもなくバルデス将軍のものだ。
「このことは、ルイスたちも知っているのですか?」
「私は彼らの前世を知っているが、おそらく彼らの方は知らないだろう。どうやら前世の記憶を取り戻すには、この世界である程度の年数を生きることが条件らしいからな」
「年数、ですか?」
「齢を重ねるにつれ、前世の記憶を思い出す力が強まる。君の記憶がはっきりと戻ったのも、十七、八というくらいではないか?」
「た、たしかに……」
「それに加え、前世で面識のある者同士、近い距離で接することがトリガーとなる。騎士団長とは言え、王妃である私と彼らが密に接する機会はほぼない。私は単に長く生きているという権能だけで、彼らの前世に気づいているだけだ」
なるほど、とリヴィアは得心する。
言われてみればリヴィアの記憶がはっきりと蘇ったのも、クラウディオやラウルと対峙した時だった。
そこでリヴィアははっと目を見開くと、すぐに頭を下げる。
「閣下、申し訳ございませんでした」
「何の謝罪だ?」
「……わたくしは、かつて与えられた任務を完遂することが出来ませんでした。それに加え預けていただいた兵たちも、いたずらに、失ってしまう、結果に……」
言い終えるよりも先に、リヴィアの目から涙が零れた。
最近ようやく思い出して泣くことも少なくなってきたというのに、こうして言葉にすると後悔と慚愧の念が鮮明に蘇ってくる。
しっかりしろ、とリヴィアは自身を叱責し、掠れた声のまま言葉を絞り出そうとした。
だがそれを王妃が優しく制止する。
「もうよい、ベアトリス」
「で、ですが……」
「我々は負けたのだ。それに対する責任は、すべて私にある。お前一人が背負い込み、気に病む必要はない。謝らなければならないのは私の方だ」
すまなかった、と頭を下げる王妃に、リヴィアは慌てて首を振った。
「閣下が謝られる必要などありません! すべて、私が至らなかったことが原因で」
「もういい、と言っただろう。どうあがいたところで、ロランドはとうに滅びた。忘れることは出来ないだろうが、今はこの新しい命を生きることも重要だ」
「閣下……」
「ロランドの兵たちの悲しみは、この私が引き受ける。だからリヴィア、お前はこの国で素晴らしい人生を送りなさい。それがきっと、死した仲間たちへの一番の弔いだ」
すべてを見透かされそうな王妃の緑色の瞳に、リヴィアの姿が映り込んだ。
その言葉はあまりにも優しくリヴィアの心に落ちてきて、今まで必死に押し固めて来た悲哀や絶望をいとも簡単に崩していく。
(新しい、人生……)
悲しんでいいとクラウディオは言った。
生まれ変わったかつての仲間たちも、温かくリヴィアを迎え入れてくれた。そして将軍は、自分がすべて肩代わりすると笑う。
その瞬間、リヴィアの瞳から再び涙が零れ落ちた。
だがそれはいつもの全身が乾き切るような悲泣ではなく、心の奥底から泉のように湧き起こる感情からだった。







