第三章 3
「ち、違った、その、フリだ。キスをする、真似をしてもらいたい」
「それは一体どういう……」
「そ、その、婚約に当たって、ちゃんと確かめたいと、いうか……」
急に歯切れが悪くなったリヴィアに、クラウディオは困惑の眼差しを向けていた。やがて不安げに眉尻を下げたかと思うと、わなわなと震えながら尋ねてくる。
「そ、それはもしや、ラウルと比べるということですか……?」
「ち、違うぞ⁉ 頼んでいるのは君にだけだ!」
「俺だけ?」
途端にクラウディオの訝しみが解け、わずかな笑みがこぼれた。だが自身でも気づいたのか、すぐに表情を改め平静を装う。
「よく分かりませんが、リヴィア様のお許しがあるならいくらでも」
「う、うむ。では、頼む」
おおよそキスをねだるとは思えない物言いに、クラウディオは苦笑しながらリヴィアの前に立った。空気を伝わって、この心臓の音が届いてはしまいかと不安になりつつも、リヴィアはそっと目を閉じる。
やがてクラウディオの影が瞼の上をよぎり、体が近づくのを感じた。リヴィアはそのまま強く瞑目する。
だが次に触れられたのはリヴィアの手で、ぐいと持ち上げられたかと思うと、その指先に暖かい呼気が触れた。
(……?)
「あ、あの、終わりましたが……」
「い、いやクラウディオ、その、……唇に、してもらいたかったんだが」
「んぐ」
クラウディオの変な声が聞こえ、リヴィアはそろそろと睫毛を押し上げた。すぐ目の前に真っ赤になったクラウディオの顔があり、リヴィアもつられて赤面する。
いたたまれなくなったリヴィアは、たまらずその場から離れようとした。
「す、すまない! 突然変なことを頼んで悪かった」
「リヴィア様!」
「わ、忘れてくれ! よく考えればこんな、順序も考えない依頼など、そもそも――」
だが逃げようとするリヴィアの腕を、クラウディオはしっかり掴んで離さない。
「もう一度だけ」
「……?」
「もう一度、チャンスをください。今度は、ちゃんとやりますから」
自分から言い出した手前断ることも出来ず、リヴィアはぎゅっと手を握りしめると、おとなしくクラウディオの元へと戻った。
クラウディオはほっと肩を落とすと、こくりと分かりやすく唾を呑み込む。
「……失礼します」
そう言うとクラウディオは、そっとリヴィアの腰に手を回した。彼我の距離が一気に狭まり、リヴィアの心臓は再びどくどくと早鐘を打ち始める。
やがてクラウディオの手がリヴィアの頬に触れ、そのままくいと顎を上向かされた。
(……!)
目をつむっているが、クラウディオの視線をはっきりと感じ、リヴィアはもはやなすすべもなく硬直する。そのまま自身とは違う体温が近づいて来て、瞼に影を落とした。
そこでリヴィアははたと不安になる。
(……待て。距離が近すぎないか? もしやちゃんとするというのはそういう意味で……?)
真似でいいという言葉はどこにいったのか、とリヴィアは心の中で動揺した。だがクラウディオの顔はなおも近づいて来て、空気の層があと一枚、というところまで肉迫する。
(……!)
しかし覚悟していた唇への接触はなく、そのままの状態がしばらく続いた。目を開けるわけにもいかず、リヴィアは困惑したまま唇をぐっと引き結ぶ。
するとすり、とクラウディオの鼻先がリヴィアの鼻へと触れた。
とうに限界を迎えていたリヴィアはその瞬間目を見開くと、勢いよくクラウディオの体を押し剥がした。
そろそろとクラウディオの方を見ると、彼はどこか余裕めいた声色で嬉しそうに目を細めている。
「――どうでした?」
「……ッ!」
リヴィアはそのまま一歩、二歩と後ずさると、すばやく踵を返してその場から逃げ出した。目をしばたかせるクラウディオを残し、正門の方へと全力で駆け抜ける。
(無理だ、あんなの……)
手の甲で口元を押さえる。
わずかに触れた呼気の熱さや彼の体温、そして触れた鼻の冷たさを思い出し、ぶんぶんと首を振る。
キス出来る相手なら、恋愛対象だなんて。
触れてほしい、と思っていた自分がいるなんて。
(私……私、やっぱり、好きなんじゃないか!)
ようやく確信した答えを胸に、リヴィアは思考回路がぐちゃぐちゃなまま、ただひたすらに走り続けた。
取り残されたクラウディオは、しばし一人で唖然としていたが、やがてはあーと息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。
(俺は、どうすれば良かったんだ……)
突然リヴィアからキスをして欲しいと言われ、恥ずかしいとは思いつつも手に口づける真似をした。
だがリヴィアの要求はそのさらに上――唇にしてほしかった、と恥ずかしげに告白されてしまい、クラウディオの思考は一度完全に停止した。
(こういうのは、年上の俺がリードするべき、なのに……)
内心は混乱でどうにかなりそうだったが、今まで培ってきた度胸をフル稼働して、なんとかそれらしい格好を演じてみた。
だがいざリヴィアの顔を前にすると、邪な欲望が首をもたげてしまう。
(リヴィア様、ダメです。こんな不埒なことを考えている男の前で目をつぶるなんて、無防備すぎます……)
いっそこのまま、本当に口づけてしまおうかと思った。
だがクラウディオのことを信じ切っているリヴィアを前に、どうしてもそれだけは出来なかった。それでも、少しでも意識してほしかったのと、男に対する警戒心だけは持ってほしくて、わざと鼻先だけぶつけてみる。
意外なことに効果はあったらしく、リヴィアは薄紫の目を子猫のように見開くと、驚くべき速度でクラウディオの元から逃げて行った。
(警戒心を持ってもらえたのは良いけど……嫌われてたらどうしよう……)
薄々感じていたのだが、どうもリヴィアは男に対して親しく接しすぎるきらいがある。警戒心なく胸で泣いたり、半裸のクラウディオに抱きついてきたり、こうしていきなり口づけの真似をねだってみたり――
(まあ、ベアトリス様も男女の差なく付き合う方だったしな……だからてっきり、決まった恋人などいないと思っていたのに……)
クラウディオは、新たに現れた『元・婚約者』のことを思い出す。ディエゴと呼ばれていた彼とルイスは面識がない。ベアトリスにそんな相手がいたこと自体初耳だった。
(幼馴染だと言っていた……きっと俺が知らない、二人だけの思い出だって……)
そんなことも知らず求婚をして、本当に良かったのだろうか。もし俺より先にラウルと出会っていたら、今頃は――
体の奥が締め付けられるような感覚に陥り、クラウディオは思わず胸元をわし掴む。
(しっかりしろクラウディオ、今更弱気になるんじゃない!)
ふうと短く息を吐きだし、クラウディオはようやく顔を上げた。すると回廊の向こうからサルトルが姿を見せる。
「クラウディオ様、明日の件ですが」
「ああ。そろそろ出る」
「承知いたしました。それから急で申し訳ないのですが、旦那様よりこちらの手紙が届いております」
「父上から?」
差し出された二通の手紙を受け取り、それぞれ中を確認する。
「なかなか厳しいが、俺に出ろということだろう。分かった、準備する」
「かしこまりました」
悩んでいるうちにも、やるべき仕事は次から次へと訪れる。クラウディオははあと溜息をつくと、名残を惜しむように鼻の頭を指先で優しく撫でた。







