第三章 2
ディエゴは立ち上がると、リヴィアの足元へと跪いた。
握りしめていたリヴィアの手を取ると、まるでおとぎ話の王子のように口づける。突然のことにリヴィアは手をひっこめかけたが、それを見て不敵な笑みを刻んで見せた。
「婚約は取り下げない。半年のうちに、僕を好きにしてみせる」
「でもラウル、私は本当に」
「――その気持ちに、同情心がないと言い切れるのか?」
ラウルの言葉に、リヴィアははっと目を見開いた。
「聞けば、前世で彼は君を庇って死んだそうだな。君はそれに深く悲しみ――彼に対する深い感謝と贖罪の意志を持っていた。君はそれを『好き』だと勘違いしているのではないのか?」
「違う! ……私は、ちゃんと……」
「君の望むよう剣を教え、馬に乗せ……その心意気は買うが、そうすることで君の心を縛りつけている可能性だってある。あまり焦って結論を出さない方がいい。……そう思わないか?」
押し黙ってしまったリヴィアを、ラウルは静かに見つめていた。やがてコサ・リカが背後から現れる。
「ラウル様、お時間です」
「ああ。すまないリヴィア、もう少し二人で話したかったんだが――それはまた今度、ゆっくり時間を取ろう」
「……」
ラウルに見送られ、執務室を後にしたリヴィアは、一人回廊を戻って行く。鮮やかな新緑の光る中庭にぼんやりと視線を向けながら、自らの心に問いかけた。
(私のこの気持ちは、好きではなかったのか……?)
ざわりと風に揺れた葉の音が、リヴィアの心に一つの疑惑を落としていた。
その翌日。
ひと段落した厨房で語り合う、ご婦人方とリヴィアの姿があった。残り物の小麦粉で焼いた手作りクッキーを手に、全員が首を傾げている。
「好きってどういうものか、ですって?」
「は、はい。出来れば、教授願えればと思いまして」
「可愛いわねえ、あたしもそうして悩んだことがあったわあ」
「まあ普通に考えたら、その人と一緒にいると楽しかったり、わくわくしたり?」
「そうそう。何でもないプレゼントでも、嬉しくなっちゃうのよね」
(なるほど、クラウディオと一緒にいるのは楽しいし、以前花をもらった時は嬉しかった……)
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「会話がなくても、自分を見てくれているんだっていう安心感とか」
(訓練中もしっかり監督してくれている。その辺は問題ないな)
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「あとは包容力? 年上は頼りがいがあって楽だけど、年下も可愛いのよねえ」
(たしかにクラウディオは年上だから、何でも知っていて頼りになる。……む、だがルイスだった頃は年下か? この場合どちらの判定になるんだ?)
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「ボディタッチも分かりやすいわね。どうでもいい人から触られるのは嫌だけど、好きな人ならお互いドキドキするじゃない」
(ボディ……? 以前クラウディオの胸を借りたことはあったが、あの時は情緒どころか泣くことで精いっぱいだったし、情けないところを見せただけだな……嫌な気持ちはなかったが、クラウディオがどう思っていたかは、わ、わからん……)
聞けば聞くほどドツボにはまっていくような気がして、リヴィアは口には出さないながらもうむむと眉を寄せた。
すると結婚二十年を迎えるというベテランの奥様が拳を握って主張する。
「分からないならアレよアレ、唇にキスできるかどうかよ!」
「ど、どういうことですか?」
「唇にキス出来る相手なら、恋愛対象っていうやつね」
この国では男性から女性に敬意を示す際、指先に口づけ、もしくはそのフリをすることが多い。だが唇を触れ合わるキスは当然恋人のそれであり、リヴィアはまだ経験したことがなかった。
それどころか、ベアトリス時代にもしたことがない。
(キス……キスか。たしかに恋人同士の愛情表現としてよく聞く。一度試してみる方法もあるかもしれないな……)
リヴィアは甘みの強いクッキーをひと欠片くちに含むと、そのままゆっくりとかみ砕いた。
その後いつもの飼料運びと、アルヴィスとの交流を終えたリヴィアは、クラウディオの監督のもと、剣術の腕を磨いていた。指定された回数の素振りを終え、リヴィアはふうと額の汗をぬぐう。
「随分安定してきましたね。一度、俺と組んでみますか?」
「いいのか?」
「はい。ゆっくりですけど」
ぱあっと顔をほころばせたリヴィアに苦笑しつつ、クラウディオは脇に置かれていた予備の木剣を軽々と構えた。ぴたり、とリヴィアに向けて切っ先を向けると、穏やかに口を開く。
「どこからでも打って来てください」
「ああ」
言うが早いかリヴィアは、クラウディオの体めがけて腕を振りかざした。だがカン、という甲高い音と共に簡単に防がれる。すぐさま体勢を変え、今度は肩へ。
だがクラウディオは器用に身をそらすと、リヴィアの剣をたやすく押しのける。
「重心が出すぎです。もう少し下に」
「――っ」
「振りが大きい。もう少し脇を締めて」
ベアトリス時代の手法を再現しようとするが、やはりそもそもの体が違うのか、どうしても粗が出てしまう。
その後もリヴィアは諦め悪く剣をふるっていたが、クラウディオの体に触れることは一度として出来なかった。
「はあ、……はあ……やはり、全然だめだな」
「そんなことはありません。太刀筋や狙い方は、かなりいい線行っていると思います」
「あとはそれを、ちゃんと体現できるか、か……」
家での鍛錬メニューを二倍にしようと考えながら、リヴィアはようやく剣から手を離した。
たしかにベアトリスだった頃には遠く及ばないが、随分と剣を扱うことにも慣れて来た――いや、思い出してきたというのが正しいのか。
(だが戦うためには、まだまだ力不足だ……)
しかしどれだけ未熟だと痛感しようとも、こうして剣を握っている時間は本当に楽しかった。
最初のうちは手に無数のタコが出来、メイドたちから仰天されていたが、それも今ではすっかりリヴィアの一部となっている。
これもすべてはクラウディオのおかげか、と考えたところで、リヴィアはいかんいかんと首を振る。
(そうだ……私は、この気持ちが本物かどうかを確かめなければ)
木剣の手入れを終えたリヴィアは、脇によけていた鞄の中から、小さな紙包みを取り出した。きょとんとするクラウディオの前に差し出す。
「ク、クラウディオ、これ、なんだが」
「はい?」
「皆で焼いたクッキーだ。残り物で悪いが、甘いものが好きだったと思って、その、……持ってきた……」
(な、何だかすごく恥ずかしいな……)
ベアトリス時代は、普通の令嬢らしいことを一度もしたことがなかったため、こんな言葉を発すること自体はじめてだ。
断られたらどうしよう、と心臓が駆け足になっていくリヴィアに対し、クラウディオはじわりじわりと喜色に染まっていく。
「良いんですか? 俺に?」
「あ、ああ」
「ありがとうございます!」
満面の笑みで受け取ったクラウディオを見て、リヴィアは安堵と同時にかっと頬が赤くなるのを感じていた。今なら言えるかもしれない、と意を決して口を開く。
「クラウディオ、その、頼みがあるんだが」
「はい、なんでしょう」
「――キスをしてもらえないか」
いそいそと包みを開き、一口かじっていたクッキーの欠片が、クラウディオの口からぽろりと落ちた。
そのなんとも形容しがたい表情を前に、リヴィアは言い方を間違えた、と慌てて弁明する。







