変貌者
プロローグ
噎せ返る程の緑の臭いに満ちた原生林。一般人が足を踏み入れるには適さない荒地を進み、物音に反応して寄ってくる“獣”を狩る。
「今日はやけに多いな……うざったい」
やたら数だけは多い膝の高さ程の肉食猿――キィキに集られるも、蹴りで牽制し鉈の一撃でドタマをかち割れば臆病な猿共は名前の由来となるキィキィと甲高い鳴き声を上げて一目散に逃げ去る。
鉈にこびり付いた血肉を拭き取りながら私は、マーディ=ヴィクト=リーパーはそんなキィキ達の去ってゆく方向を見すえる。彼らは臆病だが狡猾、こうして目を光らせていなければ逃亡の振りをして背中から襲いかかる場合もあるのだ。
殺したところで一銭の価値にもならない屑だとしても、無用な怪我を負うよりはましである。
最も、今の私なら多少の負傷は誤差に等しいだろうに、無意識に無意味な行動に従うのも以前の感覚が染み付いているからか。
アラド大陸。私の生まれ故郷、ノイエンド帝国の領地が広がるローランドより大海を超えた先に見つかった未だ人の支配が行き届いていない未開の地。
ある理由から私はアラド大陸の開拓民として志願し、海を渡る事となった。
理由については深く掘り返す必要も無いだろう。名家に生まれた者が無才故に絶縁の烙印を押されただけの事、今の帝都ではよくある話だ。
まさか当事者になるとは思いもよらなかったが。
そして追放され縋る縁も無く彷徨う末に生活苦に陥ったので、食うには困らないと音に聞く開拓民の一員として、中でも命の危険を伴うハンターの荒稼業へ手を出した。
狩人。開拓を妨げる獣を駆除する役目を負う者のことである。文明の発達した都市群では余り見かけない職種だ。
往来身体が飛び抜けて頑丈な特異体質を持っていた為、荒事には耐性があった。むしろそれ以外に能のない落伍者とも言える。
そしてハンターをやる上で肉体の頑強性は特別有利となる要素ではなかった。更にはハンターに必須となる拡大技術を私は一つも会得していない。
スキルが無いため戦闘職ももちろん無しだ。
当然ながらスキルもクラスも持たない人間を仲間に引き入れるなどと酔狂な考えをする相手はおらず、たった一人で今日も日銭を稼ぐため都市外へ足を運んでいる。
無心で歩みを進める私の前で、木々がざわめき鳥獣の声が途絶えた。
大物が現れる全長だ。アラド大陸の獣はローランドとは比べ物にならないほど殺傷能力に秀でた進化を遂げており、それら魔獣と呼ばれる者共の暴力に晒されれば多少タフなだけの体質でも誤差でしかない。
樹木が倒れ、地が揺れる。振動は明らかにこちらへと迫っている。完全に補足された、アラドの原生生物は人に対して強い敵意を見せる。
逃げれば何処までも追いかけてくるだろう。
だから
「いいよ……来い」
私は前に出た。森深く、人目が無い場所で助けも期待出来ない状況。
並の人間なら唯の突進で殺戮する魔獣の接近に対し、私は鉈を捨て、防刃加工の施された迷彩服の上を脱ぎ払う。
誤解を招きかねない行動。だが、決して自暴自棄になったわけでも気が狂ったのでも無い。
人と比べれば頑丈なだけの体質、拡大技術を持たない無能。
繰り返す。くどいようだが、今の私は違う。
無論体質は消えておらず、技術を手に入れた訳じゃあない。
ただ、この大陸が並の獣を魔獣へ変えるように、理由は知れず、私自身も――変わった。
仕上げだ。
右手の甲には赤子の頃に祖父から刻まれたという666の聖痕が顕れている。
長い年月が流れても消えることの無い異様の傷。――の証。
深く。
心の奥を探る、錆びた檻、ひとつ輝く蝶番を砕くイメージ。証を消した。獰猛な闘気が沸き立つ。
込み上がる。
底へ、底へ、腹の底、緻密な細胞の全てを凌駕して全身へ喝采が響き渡る。
解き放たれり。
消えたのならば、代わりに現れよう。
轟音が鳴る。木々の隙間を捻じ広げて大物の魔獣は私を押し潰さんとし、丸太のような角を以て突撃している。
殺意一色の愚直な突進行動。しかし魔獣の目は、私と視線を交わした瞬間別の色彩を灯す。
滾る獣の性を鈍らせる色に、私は落胆した。
ああ、やめてくれ、折角の“闘い”に滑稽な様を晒さないでほしい。
しかし時は止まらない。魔獣の浮かべた驚愕と、私の昏い感情が混ざり合う中で両者は遂に接触する。
――ピギィイイイイィイイイイッ!!
魔獣が悲鳴を垂れて悶絶した。
生まれ持った強靭な筋力、身体を隙なく覆う堅固な外骨格に加え、突っ込みひとつで敵対者を容易に葬る額に備えた必殺の角。
攻防ともに高い能力を備え壮絶な生存競争を生き残った魔獣、スロウヴォリスは攻撃手段の要である角を掴み止められ、身を守る外骨格の装甲を砕かれた。
魔獣の身体が破壊されていく。頭を押さえつけられ、強引に鎧を剥がし四肢を折る。
剥がし、折り、殴り、砕き裂き捻り掴み潰し締め上げ叩き伏せ喰らう。
透き通った獣の瞳に、私の姿が写し出される。
あぁ――醜いな。