005 救う価値、救われる価値④
意味もなく駆けた。
のろまな足でわき目もふらず、体力も考えずに走った。全速力でずっと走った。
走って走って、やるせない気持ちを、気持ち悪い整理のつかない気分を全部走るための薪にして頭をからっぽにして走り続けた。
どれくらい走っただろうか。
僕は立ち止まって荒い息で少しでも多くの酸素を取り込む。足が痛い。ここがアスファルトの地面じゃなかったら惜しげもなく寝転んでいただろう。足腰ががくがくする。運動していなかった弊害だ。おじいちゃんか、僕は。
「はあ、はあ、はあ」
まったく息が整わない。真っ暗な中、僕はひとり荒い呼吸を続けた。
しばらくして顔を上げた。ただ膝の上に置いた腕はそのままで呼吸はやっと楽になって来たかと思える程度に回復した。
見渡せば静まった住宅街。
夜も更け、間の大きい街灯だけがここらを照らしている。心なし星がきれいに見えるのも営みの光が少ないせいだろう。
くらやみに包まれたこの場所がまるで僕だけの空間かのように感じた。
ひとりぼっちの、そんな場所に。
「……なわけないだろ。高二病もいい加減にしろ、僕」
おぼつかない足取りで見知らない住宅街をゆっくりと歩く。
荒い呼吸のまま激しい胸の痛みも無視してとりあえず歩く。
僕のことだ。そこまで遠い場所でもないだろう。隣町かそこらの可能性大だ。むしろ、まだ隣町にすらたどり着いていない可能性すらある。
だから歩く。まっすぐ歩く。
帰路につくことはない。少なくとも日が昇るまでは帰りたくなかった。とんでもない不良児である。流石の僕もドン引きだ、我ながら。
本当に何がしたいんだろうか、僕は。
空がやや明るくなってきた頃。
見知らぬ神社の境内にぶっ倒れていた。
……いや、なんでだろう。記憶がない。
とにかく歩き回って、その間自分のことを悪鬼羅刹の如く罵倒し続け泣きそうになったところまでは記憶がある。
本当、僕って自罰趣味が過ぎるんじゃないですか? 心折れかけたような気さえするんですけど。
とりあえず筋肉痛の色濃く残る重い身体を起こして立ち上がる。
あーあ、きれいだった制服がドロドロに汚れてしまった。このパーカーも結構気に入ってたんだけどなあ。穴が開いちゃっているよ。
帰って洗濯しようと思い鳥居をくぐろうとして、うわあと声を漏らしてしまった。いや、ほんとに、うわあ。
長い階段だった。
とりあえず大きな木にさえぎられて地上が見えなくなるぐらいには長い。しかも階段は細く小さく雑草だらけの砂利だらけ。手入れされているようすすらない。
振り向いてよく見れば奥にある本殿も朽ち果て参拝客などここ数年訪れていないだろうと思えるほどには荒んでいた。
清め水などは濁っているしそもそもそれを溜める石すらも砕けておりほんの少しだけ汚れた水が残っている。それは清め水などではなくただの雨水だろう。
賽銭箱の存在など思いつかなるほど原形をとどめていない状態で本殿の前にある。
僕が神社だと判断したのはきっと苔の蒸した鳥居が最初に目に入ったからだろう。そうでなければ僕はかつて人のいた森の中と形容しただろうから。
それほどまでに草木は多い茂り天井を覆うような朝日を隠す大木は樹立し人の生活痕はなかったのだ。
「……はよ、帰ろ」
そんな異界に僕は背筋をまっすぐ伸ばしてそそくさと立ち去ろうと階段に足をかけ――
――なかった。
伸ばした足を反対側へ踏み出した。
重い足を上げて境内を走る。罰当たりだし自罰的でもある。罰当たりにも神道である真ん中を倦怠感すらある躰で、鞭を打って走る。
光があった。輝きがあった。
閉じ込んだくらやみを照らす光があった。
だから僕は無意識で走った。衝動的に走った。
差し込む淡い朝日ではない。そんな弱々しいものじゃない。いや、ある意味ではそれよりも弱々しく儚い。そんな光だ。
「はあ、はあ。……おい、大丈夫か!」
崩れかけの本殿に小さく灯った光は天上より零れる朝日を幾千にも反射させて薄汚れながらもそれを成し遂げる。
それこそは金色の髪。
今まで見た中でも最も神々しく弱々しい光をその金糸のような髪は帯びていた。
弱々しさはその光だけではない。そんな輝きを宿した金糸の髪の持ち主こそが最も弱々しかった。
白亜の色の犯しがたい肌は飴細工のよう。触れただけで壊れてしまいそうで僕はそれに触れられない。
小柄な体躯はやせ細り、それがますます壊れやすさを思い知らせる。
汚れた手足は傷つき血が滲んでいた。何があったのかなどわからない。ボロボロのおそらく洋服のようなものをまとい、すり切れた傷の残る足は靴を履いていない。それが違和感で仕方がない。
安らかな寝顔は天使のようで高貴さを演出する。整った顔立ちは安らぎとは無念の状況にあるにもかかわらずすやすやと睡眠を謳歌する。瞼は閉じ、ニキビやシミなど無縁の頬は生物であると証明する色を少し帯びている。
金糸の少女がひとり、床で眠りについていた。
「……は?」
勢いで叫んでしまったが呼びかけられた本人は眠りこけている。思わぬ展開に僕の頭はエラー反応を起こした。
が、少女が寝返りを打つことでその思考停止もゆっくりと回された。
小さな寝言を小さな唇とあけてむにゃむにゃと呟きながらゴロンと転がって静かに眠る。……のはいいんだけど無防備もいいところなのだ。
発育が良くないのか、それとも見た通りの年齢なのか。お世辞にも大人などとは言えない。年齢的に見てもせいぜい高校生。中学生に見えないと言えば嘘になる。
そんな少女が無防備に木くずのような床で眠っているのだ。布団もなしで。
もう一度呟こう。
「は?」
いやいやいや、ありえないっしょ。流石のミネでも躊躇するよ? まあ、いざとなればやるだろうけど。
こんなにも幼い少女がひとりきりでこんな今にも崩壊しそうな建物と呼べる範囲を逸脱した場所でぐっすり寝ているのだ。
正直、黙っていられない。
仕方ないと重い躰で更に鞭を打って少女を持ち上げた。許して欲しい。見ず知らずの男に抱き上げられるのはトラウマ並みの体験かもしれない。けど、少しだけ本殿を出る間だけ我慢してくれ。
このまま見過ごすなんて僕にはできないんだから。
少女が目覚めたのは日が高く昇ってからのことだった。
木々の中という日陰の中だけあってやぶ蚊が多く、刺された箇所をかかないようにしつつ気が付けばかいていて痛いほどにかゆくなっているという悪循環を繰り返しているさなかに、少女は境内のちょうど僕が転がっていた場所で目をこすった。
金糸の汚れた長い髪は背中に広がっていて地面との間には僕のパーカーが敷いてある。
流石に地面の上で眠るにはきついだろうと思ったのだが薄手のパーカーを布団にして僕が眠りこけるほどには眠っていた。
起き上がらないのはきっと寝起きに弱いからだろう。視線の焦点もあっていないようで手足をやや動かして伸ばしているだけだった。
何度かパチクリと目を開けてそれでもまどろんでいるようで僕は声をかけた。
「おはよう。大丈夫か?」
できるだけ警戒されないようにと心がけて優しい声音で尋ねたのだが少女はビクッと俊敏な動きで距離を取った。
先ほどまどろんでいたとは思えないほどの警戒心でそれには僕の方が驚いた。
ただあたりまえのように布団代わりのパーカーを持っていかれたのが何とも言えない気分だった。
「……だれ?」
警戒心バリバリのとげとげしい言葉は安らかに眠っていたとは思えないほどのものだった。僕を睨む宝石のような碧い目は鋭く、何よりも怯えていた。
「えっと。僕は、古藤弘嗣。偶然きみを見かけて。いや、怪しいよね。こんなところに偶然って。あははー。……えーっと、とにかく。僕は何もする気はないから安心してほしい」
自分で言っていて滑稽になるほど少女を安心させるための言葉は思いつかずそのまま話した。ここがどこなのか知らないのに偶然ここに来たって。笑っちゃうでしょ。
「………」
ジーっと碧い瞳は僕を見つめる。見定められていると感じるのは気のせいではないだろう。
「……親はいる? 家出なのかな?」
できるだけ優しく下からの目線で尋ねる。
それに対して少女は首を横に振った。
家出ではないらしい。が、こんな幼い子が家出ではなくこんなところに独りでいる理由はまったく見当がつかなかった。
「僕が言うのもなんだけど、どうしてこんなところに?」
ひとまず僕のことは置いておいて少女の理由を尋ねた。
数瞬間があき、小さく答えた。
「……逃げてた」
「何から?」
そう尋ねたが少女は口を開かなかった。
逃げている、というのは物騒な話だと思ったがやはり何もイメージがわかない。如何せん現実離れしすぎていて僕ごときでは理解すら危うかった。
こんなことなら少女が目覚めるまでの間、ぼーっとしているんじゃなくてあたりを散策しておけばよかった。そんな後悔を抱いた。
「……とりあえず警察に行こう。きっときみの親御さんも心配しているだろうし」
「いやだわ」
「へ?」
そんな間抜けな声をさらしてしまうくらいには今まで小動物が野生の王に睨みつけられているほどの怯えを、警戒を見せていた少女の言葉は鋭く、そして意志に満ちていた。
端的な拒絶の言葉が我儘の範疇でないことを如実に感じさせた。
「……わかった。きみはどうしたいんだ?」
「私は……」
言葉を詰まらせる。警戒心はありながらも会話はしてくれるようだ。僕の見た目の男らしくなさがいいように作用してくれたようだ。やかましいわ。
そこで言葉の代わりに返事がひとつ。
きゅーっとかわいらしい腹の虫の音が響いた。
それはもしかしたら僕のものだったかもしれないけど少女は小さく呟いた。
「……おなかがすいた」
僕は少女を背負って自分でもどう登って来たのかわからないような階段を下っていた。
石造りなのだが形が欠けて大きさが不ぞろいで転びやすくなっている。
それに斜面も大きく一直線の階段なのでもし踏み外せばそのまま一直線に地上へ到達、ついでに天国にも到達してしまうだろうことは想像に難くなかった。
と、なんで少女を背負うような状況になっているのかと言えば簡単な話、少女が靴を履いておらずこれ以上素足で歩かせるのは危険だと思ったからだ。
かなり擦り切れていて血の跡が乾燥してしまっている傷跡はすぐに処置しなければならないと思うほどには見ていて痛々しかったのだ。
携帯していた絆創膏ではとても傷口を覆うことができず早々に断念して少女を説得した結果が今の状況である。
はっきりいって説得するまでが結構大変だったのだがそこは省こう。めんどくさい。
結果的に少女は無駄に痛みを負う必要はないと思うとかそこら辺の説得でしぶしぶ納得してくれてバリバリ警戒心を放ちながらちょこんと背負われていた。
非力な僕でも背負うのが苦にならないほどに少女は軽かった。それは羽のようになんて形容が嘘ではないほどに。
「どこへいくの?」
「僕の家。帰宅後すぐにご馳走してやろう」
触れている温かさが少し減った。躰を少しだけ離して警戒しているようだ。
そりゃそうか。見ず知らずの人の家に連れていかれるのは警戒して当然だ。
幼いながらにもそこはきちんと把握しているらしい。まあ、本当ならこんな怪しい奴について行ってはいけないのだが。
僕が人畜無害な凡人でよかったね。
「悪いけど外食はできないんだ。二百円しか財布になかった。ごめん。途中飲み物買ってあげるから許して」
「……私こそ、ごめんなさい」
「いいよ、別に。子どもが困っていたら助けるぐらいしないとね」
離した躰が元に戻る。それは一番楽な体勢なのだろう。とりあえず安心してくれるのなら幸いなことだ。
僕は階段を降り、やがて見えた激しい太陽の光に目を細めながら地上に出た。
やや高台のそこからは見知らぬ近隣だろうこの町と僕の住む町が遠目に見えた。距離を見て気分が落ち込む。結構あるっぽい。
「ちょっとかかるから、フードを深くまでかぶっておいて。日に焼けるだろうからさ」
僕は少し焼けそうだがこの際仕方あるまい。ひりひりして痛いから焼けたくないんだけどこの少女の肌の方を守るべきだと無意識的に判断してしまったようだ。
さあて、何を作ってあげようか。
そんな料理の設計図を思い描いて帰路を進み始めた。