004 救う価値、救われる価値③
ゴロゴロとカートを押す横でミネは小さなメモ用紙を片手に書かれているものをカゴに入れていく。対した量でもない。が、ひょっこりのぞいたメモに書かれていない商品が意外と多くカゴに入っているのには流石に頭が痛くなった。
お使いもできてねえじゃねえですか。
「あ、これも入れてー」
「おーい。その辺にしろよ。おじさんに怒られるぞ」
「……ヒロ、買って?」
「そんな余裕があったとしても買ってやらないけど、まあ、もともと夕食代がせいぜいだから無理。ていうかおまえはさっさといらない商品を棚に戻してきなさい」
「要らない商品などない」
「なるほど。ならばおじさんに怒られろ。そしてお小遣いを没収されてきなさい」
僕は足早にカートを押す。これだから僕の腐れ縁さまは困るのだ。
「なんでだよ。いいじゃんかー」
そうするとミネは数歩でその距離を詰めてきた。カートを押しているというのもあるのだろうが地の運動能力に天と地ほどの差があるのだから仕方ない。
「僕は忠告をしているだけだぞ? 素直に言うことを聞いておけば怒られもしないのに」
「ふっふっふ。ヒロの諫言はもう聞き飽きたのだよ」
「どこの人だよ」
「あたしだって学習してるんだよ。すなわち、ワイロさ」
学習。学習ね。この脳筋が学習。まあ、するか。誰だって。生きているなら学ぶだろう。事実、こんな脳筋よりも頭の悪かった僕が高校に通っているのだ。学ぶことは誰にだって。
……生きてさえいれば、できる。
「わかった。それなら僕の家は出禁な。……そんな汚い奴を入れたくはない」
カートを押す。ミネは立ち止まっても僕は立ち止まらない。
「わ、わかった。わかったから待っててね。すぐ戻してくるから!」
そんな彼女の言葉も聞き流す。
なんとなく厭になって僕はさっさと会計を済ませてスーパーを出た。
いつもなら適当に合わせて、結局は流されてミネが怒られ、僕が怒って終わる他愛のない話だったはずなのに。
なぜだか無性に腹が立って僕はきつく当たってしまった。
あれくらいで折れるタマではないとわかっているけど、それでも僕は僕のことが厭になった。
気が付くと汗がすごかった。
暑さのものではないことは日が沈み涼しく感じる気温から分かった。これは冷や汗だった。それに気が付くと躰が震えてきて立つのもままならずに近くにあったベンチに座った。
ここはどこだっけ?
見渡すと青々しい木々が樹立し、瑞々しい草花が芽吹いている。
そんな緑に囲まれた場所だった。
今まで歩いていた舗装された道が、僕を照らす街灯が不自然にも思える緑豊かな公園だった。
ここは近くの公園。昨日、ぼーっとしていたのも確かこの公園だったはずだ。
何気なく足取りがこちらに向いたのだろうか?
いや、気に留めていなかったがここは通学路を外れたすぐだったのだった。道理で僕がよくここを訪れているはずだ。
そして再び。僕は何をするでもなくそこに座ったままだった。
何がきっかけだったのかなど考えるべくもない。
彼女は生きることに意義を見出し未来に希望を持った。僕とは正反対のような奴だった。
対して僕は生きることに見切りをつけ将来はないと知りながらも醜く残された時間を生きる愚か者だった。
生きる理由は死にたくないから。
死が定まった今でも、そしてそれより前も僕はそう言う風に生きていた。
無能な僕は、しかし、有能な友達が、親友と誇れるようなそんな奴が隣にいた。
そいつだけではない。両親もまたエリート街道にさえ乗らなかったが優秀であることには変わりない。
そんな環境下で、それでも僕がひねくれにひねくれ、ぐれにぐれなかったのは全員が抜けていたが故だろう。
有能だが総じて家事全般は不得意で今でも母さんの料理はトラウマだし、父さんは洗濯機を二台壊している。ミネなんかたまに部屋を掃除しに行ってミネのおじさんが忙しいときは飯を作ってやらないといけないくらいだ。
僕は無能なりにも活躍する場があった。有能が届かない部分を補うことができた。誰にでもできる簡単なことだけが僕の取り柄となった。
それをふまえてのきっかけだ。簡単すぎる。バカな僕でもわかる。
……すべてだ。ミネに会った。ただそれだけで容易く崩壊する。両親に会ったとしてもそれはかわらない。
劣等感に苛まれ続け、出自よりの影の薄さでろくに覚えられず、それに加えての死の宣告。これで精神がおかしくならないのならば僕は精神面において有能だったということだ。
つまり僕はどこまで行っても無能なんだ。
まるで死の宣告は無能などいらないとの主張のようでさえあった。
はっはっは! 笑える。本当に嗤える。
感傷に浸るのもいい加減にして欲しい。痛々しすぎて聞くに堪えない。僕のことながらなんて弱い奴なのだろう。
勝手に他人と比較して自分な矮小さを知り、それを見ようともせずいざ目を合わせればお得意の現実逃避のように目を背ける。
なんとも僕らしくて、笑える。
「どうしたの、ヒロ?」
「……いつからそこにいた?」
抱えていた頭を離し、顔をあげるとすぐ横には心配そうに見つめるミネの姿があった。いつの間にか着替えたようでいつものような人の目を気にしない露出の多い部屋着だった。
周りを見てもすっかり暗くなっていて街灯と小さく輝く星々だけが僕たちを照らしていた。
「十分くらい前かな。声かけても返事ないし、またなんかやらかして心配性こじらせてるんじゃないかなって思って気付くの待ってた」
「……寝ていたのかな、僕は」
「しーらない。てか、今何時かわかってる? 夜中の二時なんですけど。ヒロが帰ってない。どこにいるのか知らない? ってヒロのお母さんから電話があって様子変だったからしばらく探してたら見つけたんだぜ」
「そう、か。ありがとう。じゃあ、僕は帰るよ」
そのままおぼろげに立ち上がろうとすると腕を引っ張られ強制的にベンチに戻されてしまった。予想していなかったので強かに打った尻と背中が痛かった。
「ちょい待てし。理由ぐらい聞く権利があると思うんだけど? あんな棘を刺しておいて謝ることもなしか?」
睨みつけられたなんて僕には言えなかった。その目はいつものように睨んでいるようでいて人を心底心配して零れそうなほどに潤んだ瞳は、僕に向けるには美しすぎた。
「……ごめん。僕が悪かった。でも話す義理はない」
「いやある。幼なじみだから」
拒否しても彼女は入り込んでくる。僕の心にもぐりこむ。
そんな勇気が眩しくて心配されることが輝かしくて。
だから僕は無性に苛立った。
「おまえみたいなのが幼なじみとか笑える。僕には友達すらろくにいないんだよ。そんな存在がいるとでも?」
いつになく冷たい声。僕の声ではないと思えてしまうほどにその声は冷たかった。
だが、彼女の勇気は折れない。僕のような平凡な奴ではないから。特別な存在だから。
「あたしがいるじゃん。友達で、幼なじみ。勉強できてスポーツできて胸も大きい。スーパースペックの幼なじみがいるじゃん」
「ははっ。そんな奴が僕の友達とか。僕は夢でも見ているんですかって話だよ。いいから腕を放してよ。おまえに言うことはない」
心が痛む。それに比例するかのように苛立ちが募る。
それを言葉にのせて普段は口にしない棘のこもった言葉を放つ。
だが、それでもミネは特別だから腕を離さずに言葉を並べる。
「どうしたの? 何があったの? 学校でいじめられた? 楽しみにしてた弁当のエビフライ床に落とした? 言ってよ。相談にのってあげる。話せば楽になるかもよ?」
口調がやわらかくなり睨んでいた目元も今ではすっかり潤みをおびていた。冗談を口にして軽く微笑みながら僕を見つめる。
その優しさがどうしようもなく憎たらしかった。
「いいから放せ」
ビクッと僕の腕をつかんでいるミネの手が震えた。いつもでは考えられないほどに彼女は怯えていた。
誰よりも勇気を持ち男よりも男勝りでやや暴力主義な、僕とは似つかない恐怖とは無縁のミネが怯えていたのだ。
「……あたしじゃ、頼りない、かな?」
その弱々しい姿がどうしても見ていられなくて、僕は視線を外して弱く握られた腕を振り払ってほどいた。
力負けする僕が、解放された。
「あ」
弱々しい声が零れる。目じりにたまった光る何かが零れそうなほどに揺れてそれを目の端に捉えただけで罪悪感に苛まれその元凶の自分が厭になる。
「……迷惑だ」
ただひとこと。そう言ってその場から走って逃げた。
* * *
怖いことには慣れている。
だって対処のしようがあるから。
目を閉じて、耳をふさいで、息を殺す。そうすれば怖いことなんて怖いだけだわ。
暗いことには慣れている。
だって対処のしようがあるから。
目を開いて、耳を澄まして、声を出す。そうすれば少しは安心できるのだわ。
痛いことには慣れている。
だって対処のしようがあるから。
見ないようにして、聞かないようにして、感じないようにする。そうすればいつの間にか終わっているのだわ。
でも、
苦しいことはダメ。
怖いことも暗いことも痛いことも平気だけど。苦しいのはダメだわ。
息ができないのはダメ。
お腹が空いているのはダメ。
大切な誰かが死ぬのもダメだわ。
それらはとても苦しくて、だから私には無理なの。
追われ続けて何かわからないけど大丈夫。明かりがほとんどなくて手探りなのも大丈夫。裸足でずうっと走り続けて足の裏に小石がささっても大丈夫。
怖くても暗くても痛くてもぜんぜん平気。ぜんぜん大丈夫。
でも、ずうっと走って胸が苦しいのはダメなのだわ。
願わくは、
……こんな私を、だれかたすけて。