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その愚か者は英雄になれない  作者: 真鍋仰
一章 得ること、失うこと
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002 救う価値、救われる価値①



 どうしてこうなったんだろう。


 血の雨が降る中、僕は思った。頬と流れるのは涙なのか、はたまた降り注ぐ血の雨なのか。

 それはどうでもいいことだった。


 もう躰はどこも痛くないのに、心だけが無性に痛む。


 いつまでも止まない血しぶきが躰を濡らす。雨に混じった鉄臭い赤い液体がどろどろと僕の体を汚していく。僕の心を蝕んでいく。


 どこで間違ったんだろう。


 点滅する街灯が場を照らしあげた。壊れかけのその街灯は半ば折れながらもその役割を果たしている。砕けたコンクリートはその場の凄惨さのほんの一部でしかないというのに。


 血潮を上げ続ける人形のような屍が光のない目でこちらを見ていた。

 碧く輝いていたはずの目は、もう光を失っている。


 もう見ないでくれよ。僕のことなんか、見ないでくれよ。


 死にたい。早く死にたい。


 しにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたい……っ!


 ……もう、殺してくれよ。


「おどれが死ぬことはあらへんよ。死を忘れるんが、おどれの定めやさかい。かか。かかか。かかかか。かかかかか! おもろいわあ。おどれのその顔、ほんまおもろいわあ。ぜえんぶうしのおて、ぜえんぶきえちもおて。絶望に絶望しきった顔は格別やわあ」


 その女は凄惨に笑っている。

 僕を見て、嗤っている。


 弧を描いた口はい紅色で、そこからかすかのぞくのは左右対称に上歯から生えたふたつの牙。その存在は僕でも知っているほどに有名で、禁忌のものだった。


 おまえの、せいなのか?


「いんやあ、おどれのせいや。おどれがまちごうた。おどれがうしのおた。おどれが殺したんや。かかか。こんほどおもろい話は蒐集したことがないわ。うちの五指に入るかもしれへんわあ」


 僕のせいだ。何もかも、すべて。


「せいぜいおどれが望んだようにみにくくいやしく生き延びるがええやん。うちにそう願ったんはおどれやろ?」


 ああ、その通り。僕が望んだんだ。僕が願ったんだ。

 死にたくないって願ったんだよ。


 それってあたりまえのことだろう?


 無能で死にかけの僕が生きたいと願うのは当然のことだろう?


「そうやなあ。あたりまえやさかい。けんど、おどれがまちごおたのはたったひとつや。そんひとつがこの結果をもたらしたんや」


 それはきっと僕が最初から思っていた通りのことで。


「おどれがいたこと、それだけや。かかか」


 女は凄惨に笑った。

 僕を見て、嗤った。


 では、僕はどうなのだろう。

 笑っているのか、泣いているのか、叫んでいるのか。


 それはきっと思い出してみれば分かることだ。


 少なくとも、僕が選び、選ばれた運命の果てはこんなあっけない終わりなんだ。



 *   *   *



 丁寧に整頓されたデスク、その椅子に腰かけるのは中年の男。やせぎすでも特段太っているわけでもないその男は清潔さがうかがえる白衣をまとっている。

 彼の背後にはいくつものレントゲン写真の張られたデスクボードがある。それは健康体の写真を見たことがない僕にもわかるほどに多くの白い空白部分があった。


「……多く見積もってあなたが生きていられるのは一年でしょう。心中お察しします、古藤(こどう)弘嗣(ひろつぐ)さん」


 彼の反応に僕は逸る動悸をこらえ、聞き間違いかと思いまっすぐ目を見た。形容しがたいほどに感情の渦巻く目を見て確信した。

 聞き間違いではないのだと。


 だが、確信したものの驚きというか動揺がない。すんなりと受け入れられた。


「……あと、一年、か」


 なのにどうしてか躰の震えが止まらない。

 怖くないし、寒くもない。

 だけど、どうしてか躰の震えは止まらず衝動的に両腕でしっかりと自分を抱きしめていた。


「残酷なことだと思いますが診察結果をお伝えします。すでにいくつもの臓器にがんが転移してしまっています。それぞれ微かなものですがここまでの数の治療は手術では手に負えません。あなたを治す前にあなた自身の躰が耐え切れないでしょう。特に原点だと思われる左肺はつぶれかかっている有様です。よく息苦しい程度で済んでいましたね」


 レントゲン写真を指し示しながら彼はそう説明した。


 なるほど、実にわかりやすい事実だった。つまり要約すればこういうことなのだろう。


「……僕は、死ぬんですね」


「……はい」


 暗く、重い返事だった。


 僕にこんな返事ができるだろうか。重さが伴うような言葉が吐けるだろうか。いや、きっとできない。歳を経て立派な大人になったとしても僕のような無才の凡人には不可能だ。


 そして、大人になることも高校生の僕には無理な話だった。


「延命治療はおすすめしません。ここまで悪化したステージⅣのがんではおつらいだけです。薬品代も高額になり余命の一年を伸ばせてやっとだと思います。また放射線治療などもありますが無理でしょう。……申し訳ございません」


 厳しい口調が、最後にこらえきれずに言った謝罪がこの医師の強さを思わせる。


 きっと奇跡かなんかがあって僕が助かったのだとしたらこの医師を目指すようなストーリーが始まるのだろう。


 だが、僕には先などなかった。

 あるのは残酷な現実だけ。

 変わりようのない事実だけが、そこにはあった。


 陰鬱な気分になる。わかっているからこそ落ち着いていられる。いや、きっと僕は理解していない。想像できる範疇にない出来事で、だからこそ僕は震えているだけで済んでいる。奇声を発しながら暴れまわることもない。人生の終わりに絶望することもない。


 ただ、死ぬんだという納得があっただけだった。


「ご家族の方には私からご報告しておきます。あなたの口から言うのは重すぎる話です。定期的に検査を行うので月に二度ほど来てください。痛み止めが必要でしたら処方するので……やけは起こさないださい。悔いなくお過ごしになさってください」


 尻すぼみになりながらも最後まで彼は言い切り、僕は席を立った。

 震える足取りはいつにもなく不安定で本当に僕の足なのかと疑ってしまうほどに動かない。


 そんな足を懸命に動かして扉を開け、ゆっくりと頭を下げる。


「ありがとうございました」


「……はい。元気でお過ごしください」


 僕は一歩を踏み出した。

 それが希望ではなく、くらやみへの道だと知りながら。





 春はとうに終わり汗ばんだ頬を撫でる夏風は渇きを感じさせる。それはなにも風だけではない。天下にいる人々を射殺すような日差しもより一層の渇きを覚えさせられた。

 冷房の効いた病院とは大違いの感温差に思わず身震いする。先ほどまでの震えが再来したかのような感覚に思わず顔をしかめてしまった。本当に、厭になる。


 肌に張り付く半袖のワイシャツを扇ぎ、紫外線から完全に足を守ってくれているジーパンは脱ぎたくなるほどに熱かった。まあ、囚人観衆の前でそんなことをするほど追い詰められてはいないのでしないけども。


 いや、追い詰められてはいるのか。


「あと、一年」


 持ってきていたパーカーをはおり、腕に当たる紫外線をカットする。蒸し暑さが増したが直火焼きされているような気分を味わう炎天下よりはましだ。

 そして、きれいに舗装された道を歩き始めた。


 しばらく歩いたところで、ふと立ちどまって今までいた大きな病院を眺めた。

 ガラス張りの箇所が多い立派な建物で反射した太陽がとても眩しい。地面も地面でコンクリートなのが憎たらしい。

 暑さが二割増しになった気がする。


 思わず額に手を当て、はぁーとため息を漏らした。

 そうするとまだ冷房の効いた病院から出たばかりだというのに額にもうっすらと汗をかいていることに気が付いた。厭な汗だ。本当にそう思った。


「……コンビニにでもよるか」


 人生あと一年。

 もしかしたらそれ以下かもしれないがとりあえずはいつも通りに生きてみようと思う。


 手始めに、のどが渇いたから水でも買おう。





「ただいま」


 帰宅を報告する習慣の呟きに、しかし声は返ってこない。


 きっと今頃、あの医師から僕が死ぬことを告げられているのだろう。そもそも両親とも共働きで帰りも遅くたいてい返事が返ってくることはないのだが。


 暗い玄関の電気を手探りで点け、スニーカーを脱ぐ。

 そのまま廊下を歩いてリビングへ入った。そこも電気が点いていることはない。だから電気をつけ、うなだれるように椅子へ座った。


 時刻はすでに十時半をまわっていた。午前ではなく午後の。


 それはコンビニで水を買った後、なんだか無性に家に帰りたくなくて公園のベンチでうたたねをしていたからだ。たまによってくる子供がいたがたぶん物珍しさからだろう。無邪気にはしゃぐ子供と言うのはいいものだなぁと初めて思ったものだ。


「……あと、一年ね」


 あっという間に口癖になってしまったこのフレーズ。きっと死ぬまで僕は言い続けることになるのだろう。本当に、憎たらしい限りだ。

 そこまで考えて冷静になってみるとどうやら僕は精神的に疲労しているらしい。


 それも仕方ないことだろう。あと一年。つまりあと三六五日の命だ。

 誰だって落ち込みはするものだろう。


 僕だって落ち込んでいるのだ。


「はぁー」


 思わずため息を漏らす。本来なら今頃、近くの公園のベンチでぼーっとしていたのだろうが、警官が来て職質されたので帰ってきた。

 どうやら親御さんたちは子どものように無邪気ではいられないらしい。


 警官には「余命宣告されたので落ち込んでいたんですよ。あと一年なんですよね、僕」と言ったら疑うような、腫れ物に触るような表情を浮かべて帰って行った。


 憐れむなら金をくれと言いたい。


 冷蔵庫を開けるのも億劫で水道の蛇口をひねり、音を立てて落下する水を両手ですくって飲んだ。


 そして、部屋を見渡す。広い部屋だ。

 三人暮らしの家にしてはやや広すぎる3LDKのこの家は貧しさに反比例しているかのような大きさの家だ。もっと小さな間取りでも十分に生活できるというのに両親は家賃を払うべくあくせくと働いている。身を粉にして働いているのである。


 仕方ない。落ち込んでいたところで気分は晴れない。

 ならば気分転換に家事でもしよう。

 そう思って灰色のエプロンを着る。


 帰ってくる両親に遅めの夕食を作り置きしておこう。

 そう思って僕はものの少ない冷蔵庫をあさる。


 さあて、何を作ろうかな?


 自然、気分は高揚した。





 冷めないようにラップをかけ、物静かな部屋が無性に厭でテレビをつけ、スプリングの弱いソファーに腰掛けた。腰かけたというよりかはどっさりと座ったのだが。

 食欲がなく作っておいたのは両親の二人分。量的にも味的にも不満はないだろう。さっすが僕、いい仕事したなあ。


 余裕ができたことでまたも部屋を見回した。

 相変わらずものに溢れた部屋だ。

 リビングだというのに思い出の品やら何やらがたくさん飾られている。そのせいでいつも掃除する時は埃がたまりやすくなって大変なのだが両親の趣味なので悪く言おうとは思わない。


 ただ昔の旅行に出かけたときに撮った写真や小学生の時にものの見事に落選した図工の作品は飾らないで欲しい。

 てか、捨てたい。目の端に入るだけで恥ずかしくなるから捨てたい。

 しれっと捨てようとしたけど気付かれ、あの手この手で戻って来た品も何品かあるのでもうあきらめているけど。


 ……ゴミに出した奴ってどうやって回収したんだろうね?


 軽い現実逃避をしたせいでその独り言のような話題が終わると自然にマイナス思考に戻ってきてしまった。


「……あと、一年」


 無意識で呟き、思わず軽く笑ってしまった。僕はこんなにも心根の弱い奴だったのかと。


 いや、と即座に頭を振った。

 もともと僕は小心者の臆病者だ。トップオブ弱者の弘嗣さんだ。……くそ、無駄にかっこいい名前つけないでよ、おじさん。


「はぁー」


 またもため息を漏らしリモコンでテレビを消した。


 厭に静かな部屋だ。いつもは騒がしいはずなのにそれと対比すると天と地の差のような気がする。どちらが天かはわからないけど。

 まあ、いいやと目を閉じると眠気が僕を襲った。それに身をゆだねひと眠りすることにする。風呂は明日の朝にでも入ろう。


 眠りと言うのは理不尽がないものだからな。



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