辛めのソースと秘密味の朝食
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食堂兼宿屋「花と太陽」亭の1階。宿泊してる人は食堂で簡単な朝食を摂ることができるが、今日は誰も泊まっていないとのことで、食堂スペースには僕とヒラティア、ヴィヴィアン、それに厨房の奥にマザラおばさんがいるだけだった。
ヒラティアの前には皿が10枚ぐらい並んでいる。ひき肉をまぶして辛めのソースをかけたスクランブルエッグ、岩塩とバターを混ぜたものを塗りながら食べるふかし芋、薄くスライスしたラディッシュとリンゴのサラダ、レバーを葉物野菜で巻いたもの、季節のフルーツ。。そんなメニューをもくもくと食べ終えた後、ヒラティアが尋ねる。
「ねえヴィヴィ、本当にハティに魔法が使えるようになったの?」
「はい」
にこりと笑ってそう答えるヴィヴィアン。年が近いためか、ヒラティアは彼女のことを愛称で呼んでいた。
ヴィヴィアンの今の服装は木肌色のゆったりとした貫頭衣、マザラおばさんからの借り物である。そんなゆるやかな服を着ていて、なぜそんなに胸が張り出すのだろうか。
「別の男の人から受け継いだ、だったよね。あの太った人だったっけ?」
「そうです」
先日、路地裏で遭遇したあの禿頭で肥満体の男……あまり思い出したくないけど、あの男性とのキスがつまりは竜幻装の譲渡だったのだという。女性に対しては術の付与、男性には術の譲渡というわけか。
ヴィヴィアンの話によると、彼女は南方において竜幻装の魔法を守護する一族であり、あの太った男は旅の秘術探索者だったという。あまりそうは見えなかったが、まあ見た目についてはもういいか……。
彼は竜幻装を前の伝承者から受け継いだが、どういうことかその数日後に村を脱走、生まれ故郷であるワイアームの街へと帰ってきたという。しかも、戻ってきたその日に僕に竜幻装を譲渡……ヴィヴィアンの言葉で言うなら「伝承」したらしいのだ。
僕は疑問に思って尋ねる。
「なんで僕に渡したんだろう? やっぱり魔物に襲われるから持っていたくなかったのかな? ヴィヴィアンはその人についてワイアームまで来たの?」
「伝承の理由は分かりかねますが、その方とずっと同行していたのは先代の竜の巫女です。あの術者様はなぜか先代の巫女を避けていました。馬や船を乗り継いで逃げていたのですが、先代も術者様を追って、はるばる南方からこの街まで来たのです」
「へえ、すごいね……南方って言っても広いけど、ワイアームからだと南方と呼べるギリギリの場所でも、馬で七日以上の距離だと思うけど」
「先代は体の丈夫な方でしたので。ですが、先の術者様がこの街に入られる直前にリウマチで倒れてしまわれ、後継者であったひ孫の私と交代したのです」
「……え、先代の竜の巫女ってヴィヴィアンのひいおばあちゃんなの? ……何歳?」
「104歳だったかと思います」
「…………」
104歳でパワフルなお婆ちゃんに追いかけられる……。ちょっと想像しがたいけど何となく逃げる理由も分かる気がする。
ちなみにこの大陸は400年前の大爛熟期の終わりに、一度ほとんどの人間が死に絶えたと言われている。現在の人類というのは主に北方にわずかに生き残っていた人々の末裔。あとは南方と呼ばれる、大陸の内陸部に生存していた人々である。現在見つかっているだけで十数箇所、ごく少数の人間が暮らす村があり、南方という言葉は必ずしも大陸南端や南半分を意味しない。
なぜ南方に生存者が残っていたのかは村ごとに状況が違い、その記録も曖昧なことが多いので、一概には語れない。魔物も入ってこないような深山幽谷に住んでいた人々、何か強力な魔法によって守られていた人々などだ。ヴィヴィアンの村はこのドラゴンドレスで魔物の氾濫……大災害を生き抜いた、ということだろうか。
「とにかく、ハティも魔法が使えるようになったんだよね?」
いくぶん声を高めてヒラティアが言う。食堂には僕たちしかいないが、ヒラティアはいつもと同じ、短めのスカートに白い前掛けという給仕姿だった。赤い髪は窓からの朝日を受けてやや色素が薄く見え、張りのある若者の肌はみずみずしく輝いている。
「はい、ハティ様は竜幻装の正当なる伝承者になられたのです」
「じゃあ、これで魔法使いに……ううん、秘術探索者になれるのね?」
「ま、まあ、そうみたいだね……」
僕は自分でもまだ確信が持てない、というトーンで相槌を打つ。
大爛熟期において、人間は数千もの魔法の体系を編み出したと言われている。魔法そのものではなく、魔法の体系を数千、である。
天候を操り、動物を操り、特に優れた魔法使いは星の動きや時の流れすらも操ったという。
それらの魔法に共通することはシンプルである。
魔力を消費する、だ。
魔力とは生命エネルギーとも精神エネルギーとも言われているが、多くの人間が普遍的に持つ力であり、消費すれば疲労感があり、休息や食事により回復する。そして例外なく、すべての魔法はこの魔力の消費を伴う。
例えば人間の「夢」に干渉し、眠らせたり、眠っている人間を操る淫妖夢という術の体系があるが、これは魔力を消費するという点で催眠術と区別される。
そして魔力を消費するという共通点は、すなわち僕のような魔力枯渇体質には使えない、ということでもある。数千の術の体系、数万の魔法の数々、その全ての習得は。すべては魔力の有無から始まるのだ。
……で、あったはずなのだが。
確かに使える。
この数日ヴィヴィアンからレクチャーを受けているのだが、体にキスをするだけで体を変異させ、ヴィヴィアンの体に様々な竜の部位を宿すことができる。彼女だけでなく、そこらの雌猫にすら竜を宿すことができるのだ。実際そういう訓練もやったのだが、突然竜の羽を生やして飛び上がったあの猫には悪いことをした。ちゃんと着地して翼が消えるまで見届けたけど、さぞ驚いたことだろう。
この術を使う条件は3つ。
対象の体にキスをすること、
ある程度体の大きさがある生物であること、
そして雌性体であることだ。
ヴィヴィアンのような竜の巫女は、いつでも術を行使できる媒体として側に仕えるのが使命であり、術それ自体は彼女でなければいけないという訳ではない。だから使おうと思えばヒラティアにも、マザラおばさんにだって使える……とのことだ。
「ねえ、じゃあ一度見せてよ」
ぐい、と顔を近づけてヒラティアが言う。
「えっ」
「街の外壁見たけど凄かったよ。あんな魔法、ベテランの秘術探索者だってそうそう使えないよ。わたしも見てみたいんだもん」
街の外壁についた巨大な爪痕は、衛士隊によって調査が行われた。かなり広範囲に女皇蜘蛛の死骸が散乱しているのが認められ、市井の魔法使いとの戦闘があったと判断。女皇蜘蛛の脅威を考えればこの程度の破壊はやむなしとの結論が出され、倉庫や粉挽き小屋の破壊については特に犯人を探すこともせず、それらの建物の持ち主には街から見舞金が支払われたらしい。
数多くの秘術探索者が住まうこのワイアームは、雑然としているが基本的には豊かな街だった。豊かであるということは、いろいろに寛容であるということだ。
「ねえねえ、使ってみせてよ」
「いや、でも、それは、その……」
と、ヴィヴィアンが横から僕の二の腕をつかみ、ぐいと立たせる。
「ヒラティア様、申し訳ありません。竜幻装は必要な時以外に使わず、みだりに人に見せるものではないとの教えなのです。もちろん術者様の判断が優先されますが、ハティ様も我々の教えに賛同してくださっています。どうかその意志を尊重していただけないでしょうか」
「え、うん、ハティがそう思うなら……」
と、寂しそうな顔を見せるヒラティア。
ヴィヴィアンに竜幻装のレクチャーを受ける時、まず第一に言われたことがある。
竜幻装の発動条件が「キス」であることを秘密に、というものだった。
竜の巫女の存在や術の効果などは知られてもいいが、発動条件だけは内密にしたい、と言うのだ。
理由はいくつかあるらしいが、ヴィヴィアンの村でも術の伝承者と竜の巫女だけがその発動条件を知っており、一般の村人には秘密にされていたという。
理由としては第一に伝統だから、そして具体的な理由として発動条件が知られれば、竜の力を得ようとする不埒な企みを抱くものが出るから、とのことだった。それは納得のできるところだ。
あれほどの威力と汎用性、それに条件の容易さ、それが広く知られてしまったら、どんな考えを持つ者がいるか分からない。
……それに、個人的にこの条件が知られるのは避けたかった。
ヴィヴィアンと宿を同じにしているというだけで危ういのに、日常的にその体にキスしているなどと知られたらどんな目で見られることか。街中の男性から石を投げられそうな恐怖がある。それに特にヒラティアには……。
「さあ、ハティ様、今日もレクチャーを行いますので二階に参りましょう」
びくり、と僕の背中がわずかに突っ張る。肩がこわばり、瞳孔が緊張する。
「? どうしたのハティ? 昨日もそうだったけど、レクチャーの時間になると様子おかしいよ?」
「な、なんでもないデス」
「さあ、参りましょう」
と、ヴィヴィアンが僕を連れて二階に上がる。僕は下手くそな操り人形のようにぎくしゃくと階段を登る。ああ、膝の関節が曲がらない。
「……?」
ヒラティアは、階段の下で首を大きく傾げていた。
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