世界のページをめくる音
「そうですか、兄が……」
『花と太陽』亭に戻ると、何を置いてもまずアドニスにそれを報告した。
彼女は僕の言葉をじっくりと長い時間をかけて受け止め、そして言葉をこぼす。
「ともかくも、生きていてくれたことに安心しました。いつか、また会える日が来ると信じましょう」
彼女と兄の間にあったこと、アドニスの属するアウレリア家の問題については詳しくないが、少なくともアドニスの表情からは憂いが薄れたように思えた。
今はそれでいいと思う。人と人、あるいは家と人という複雑な問題、それは長い年月をかけて取り組んでいくべきだろう。僕が手伝えることがあるなら協力したいと思った。
アドニスは肉と野菜の串焼きを盆に乗せ、食堂の長テーブルに並べる。テーブルにはすでにローストビーフにミートパイ、小麦粉の皮で挽き肉を包んで蒸し焼きにしたもの、そして山盛りのソーセージなどが並んでいる。
アドニスの大きめのエプロン姿は、なんだか新鮮な印象だ。
「ハティ様、すいません、もう少しで料理が揃いますので」
そこへ登場するのはヴィヴィアンだ。両手にはそれぞれ大きな皿、フルーツの盛り合わせと、ヨーグルトソースの冷製菓子などを乗せている。
「ヴィヴィアン、その服」
僕は驚く。彼女は白いワンピースを着ていた。細部まで装飾があって洗練されたラインをしており、スカート部分はサイドが少しだけ切れ上がっている。袖にはフリルのついたリボン。よそ行きのイブニングドレスのようでもあり、給仕の服のようでもある。
「あ、これですか、デパートで買ったものをアドニスさんに見立ててもらって組み合わせたのです」
「どうです、上半身をぴっちり包んだことでより魅力が出ていると思いませんか」とアドニス。
確かに、この服は彼女の胸を丁寧に包んでいる。胸元には大きめのリボンが飾ってああり、腰の部分もすとんと落ちていて、彼女の凹凸が過剰なスタイルの印象を薄めていた。
しかしそれによって清楚な印象というか、少女らしい可愛いらしさのようなものも生まれている。
「うん、すごくいい、印象ががらりと変わったよ」
「ありがとうございます」
ヴィヴィアンは心底嬉しそうに笑みを見せる。
これは少し後になって理解したことだが、彼女の暴力的なまでの胸。悲しくも常に男の視線を引き付けてしまうその抜群のスタイル、それにヴィヴィアン自身も振り回されていると感じていたらしい。
アドニスによって全身をかっちりと包むようなファッションを教えられたことは、彼女にとっては大きな革命だったのだとか。
とはいえそれは僕が見慣れてきたからで、この格好でも街を歩けば十人の男のうち七、八人が振り返りそうだけど。
ヴィヴィアンは二の腕まで使って大量の皿を持ち、ホールケーキを三つ、グラスに入ったジュースをいくつも並べていく。さらにクッキーを缶ごと、チョコソースのかかったプディングが八つ、果物のゼリー寄せ、まだ熱気を上げているクルミ入りの焼き菓子などなど。
「ハティ! あんたの祝いで言うのも悪いけど、料理運ぶの手伝っておくれ!」
厨房から声が飛ぶ。そちらへ行けば、マザラおばさんが大急ぎで料理をこしらえていた。腕自慢で知られている人だが、この時は戦場のような忙しさである。
そこに並んでいるのは山盛りのパスタが三種類、段重ねになっているハンバーグ、チキンライスとバターライスは鍋いっぱいに。貝料理に魚料理、トマトとチーズと葉物野菜のサラダ、そしてオーブンでローストされているのは子豚の丸焼きである。
念のために申し上げるならば、今日あるのは僕の入学祝いである。王様の戴冠式ではない。
さて、どうして僕が編入試験を受けられて、晴れて合格となったのか。
そこには大勢の人間が絡んだ複雑な事情があるが、とてもシンプルに言うならば、僕は学園側に抱き込まれた格好だ。
今回の事件、エンキと帝鳳の記憶が消えているため、表向きには「七つの試練場内部にてモンスターたちが暴走し、風紀騎士団がこれを治めた」という形になっている。それをいち早く察知し、内部に乗り込んだのが一年筆頭のアドニス、僕たちはそのお付きと理解されてるらしい。
記憶の修正がえらく正確でソツがないと思っていたが、細かな調整はエンキがやっていたということか、やはりエンキの力は底知れない。
ともあれ、今回の事件は学園側の不祥事に当たるため、僕を取り込むことで、情報が外部に漏れることを防いだ格好だ。もちろん試験は実力で突破したと確信してるけど。
ついでに言うならば、結局のところ本物のガトラウトには会えていない。
三年前、面接で彼に会っていたこと。ガトラウトが竜幻装を求めて南方へ行ったこと。
そしてそれを僕に譲渡したこと。さすがにこれを偶然では片付けられない。
ガトラウトが僕のためにこの術を取ってきた、その想像は成り立つが、単に通常の遠征のついでかも知れないし、何かしらの偶然の組み合わせかもしれない。ガトラウトに詳しい動機を聞いても、どうもとぼけられそうな気がする。
ともかく、僕が南方に遠征するようになればいずれ出会いもするだろう。そのときにはせめて、誠実に礼を述べたいものだ。
「ハティー! ただいまー! どこー!」
と、宿の玄関の方からヒラティアの声がする。
「こっちだよ、料理運ぶの手伝って」
「うん、わかったよー」
入り口付近にはヒラティアともう一人、ショートボブの女の子がいた。
「あっ」
「アドニス様っ!」
その子、リリコットは僕を突き飛ばして突っ走り、アドニスの胴にしがみつく。
「おや。貴方も来たのですか」
「お久し振りですアドニス様! 18時間ぶりですね! よければこのあとで一緒に食事でも、いや買い物でも、それともいっそ私の家に!」
「今日は祝いの席ですよ、まずハティさんにお祝いを述べなさい」
「はいっ!」
そしてリリコットは振り返り、僕の手を持ってぶんぶんと振る。
「アドニス様が喜びそうなプレゼント知らない? ところでおめでとう!」
「ところでの前後が逆だろ!」
思わず突っ込んでしまう。
このリリコットという騎士団メンバー、あれ以来ずっとアドニスに付きまとっているらしい。彼女の中ではあの件の記憶はどういう形で残っているのだろう? なんか怖いから聞かないけど。
そして、ヒラティアだ。
「えへへ、急いで帰ってきちゃったよー」
彼女は今日も風紀騎士団を率いて討伐依頼をこなしてきたという。南方からやってくるモンスターは少なくなったが、まだまだ都市の周辺には危険な生物が多い。
ヒラティアはいつのまに剣と鎧を置いてきたのか、腰を縛ったワンピース姿になっている。
「他の子たちもすぐに来るはずだよー、そしたら食べようね」
ヒラティアは僕に抱きつきながら言う。頬を寄せて頭を固く抱き締めるような激しい密着だ。
「もう、ヒラティアさん、いつもハティさんにくっついて、迷惑でしょう」
「あう、ごめんなさいヴィヴィ」
「さあ、こっちを手伝ってください」
ヴィヴィアンに袖を引かれて、飾りつけを手伝いにかかる。
「ねえねえ、ハティはどこへ遠征に行きたいの?」
すると背後からヒラティアがかぶさってきて、僕の頬をつつきながら言う。
「色々あるよー、地下何百階もあるダンジョンとか、木の数より魔物の方が多い森とか、目に見えるものが何もない透明な街とか」
左からもヒラティアが頬を寄せてくる。そして食堂の入り口から、あるいは階段の上から、赤い髪の少女が何人も現れ、そしてパーティ会場に散らばる。
何か妙なことが起きているように見えるが、何のことはない。
今現在、ヒラティアは11人に分裂している。
ヒラティアの作った世界で見た、彼女の分身体。オリジナルはそれを「意見が分かれた自分」と表現した。
そしてエンキは言った。魔力、彼の言う歪曲率の高まりは、大なり小なり狂気が絡んでいると。
つまり、あの現象はヒラティアの精神の乱れの現れだったのだ。だがヒラティアが自分の力を抑えるためには都合がよかったのだという。かりそめの分身ではなく、別個の自分として力を分散させることで、一人一人の魔力は従来のヒラティア程度にまで抑えられたのだとか。
このことを把握しているのはリリコットを含めた騎士団メンバー、それに僕たちだけ。エンキも把握しているだろうが、とりあえず世間一般には知られていない。普段はオリジナル以外は変化の術をかけて、一般市民に紛れている。
「体の調子はどう?」
「うん、今日のパーティはみんな出たいって言ってたけど、たぶん終わったら一人減ると思うよー」
事件の直後は、なんと27人に分裂していたのだ。混乱が起きないように身を隠すだけで一苦労だった。幸いに変化の魔法という便利なものがあるので、オリジナル以外は姿を変えて町に遊びに出たり、買い物をしたり、海で遠泳したり山で歌ったり川原で石を積んだり、あるいはひたすら剣を振ったり腕立てしたり大食いしたり、そうして精魂尽き果てるまで動くか、欲求が十分に満たされるたびに数を減らしていった。あと一、二ヶ月で一人にまで戻るだろう、たぶん。
「まったく、ヒラティアさんは大した方だと思います」
アドニスがあきれたように言う。その背後ではすでに串焼きにかぶりついているヒラティアがいる。
「ストレスの発散のさせ方まで、常人とかけ離れてるんですから」
「うーん、そうかも」
僕も同意する。
何でもできるヒラティアにとって、唯一満たされないことが、やりたいことが一つしかやれない、という点だった。楽しく過ごすこと、秘術探索者として興味を追うこと、武人として責務を果たすこと、そして遊び呆けること。それをまさか、こんな方法ですべて満たすとは。
「まあいいさ、何人いてもヒラティアはヒラティアだ」
分身は微妙に性格が違う。求める物が違うからだろう。やたらと僕にくっついてくる者もいれば、食べ物しか見えていない者もいる。こういう多面性こそが少女性というものだろうか。
何にでもなれるけど、何か一つにはなりたくない。
無敵なのに満たされない、強くなるほどに乾きがつのる。
矛盾しているけどそれが彼女だ。
だから僕は、そんな彼女を丸のまま受け入れられる男になりたいと思う。
「ヒラティアさんたち、ハティ様に迷惑ですよ! 手を洗ってきてください!」
「はーい」
「はいー」
「はいだよお」
ヴィヴィアンに一喝されて、ヒラティアたちはぞろぞろと流しの方に行く。
褐色の少女はふうと息をついて、僕をちらりと見上げる。
「ところでハティ様、改めてお聞きしたいのですが、やはり秘術探索者になられるのですか」
「ああ、昔からの夢だったからね、僕自身も、南方の不思議なものには憧れてたし」
そこでヴィヴィアンの肩を抱き、他のヒラティアたちに聞こえないようにそっと言う。
「それに目標もできたよ、最初に行く場所はもう決まっている」
「……ハティ様、それは、もしかして」
そう、ヴィヴィアンの村だ。
彼女の村に伝わっていた竜幻装。かの大爛熟期とはまったく別個に存在する術の体系。とても興味深い、何年かけてでもその全容を解明したいテーマだ。
「この術の歴史もそうだし、ドラゴニア神話も、それに術それ自体もまだまだ奥が深そうな気がする。僕はそれを解明したいんだ、協力してくれるね」
ヴィヴィアンは少し頬を赤らめ、腕をもじもじと擦り合わせながら言う。
「はい、その……私でよければ」
「術の研究ですか、その際は、私との約定も果たしていただきたいものですね」
す、と僕の背後に立つのはアドニス。
「う、や、約定って」
「あの術を何回見たと思っているのです? 発動条件がキスであることぐらいさすがに気付いてます。ヴィヴィアンのうら若い肉体に一体何度みだらな口唇接触を行ったのですか、数えきれない変態です」
「そ、それはでも、仕方なくて」
「まあ良いです。しかし私にも平等にキスしていただきますよ。いつぞやの竜の尾の分を入れて、あと32767回、きっちり払っていただきます」
「アドニスさん、竜幻装でそんなにキスしたら緩和作用で声が出ますよ?」
「…………いえその前に死ぬと思いますが、ともかくしばらくは貴方たちに付き合わせていただきますよ、私もアウレリア家の復興のため、南方の遺産が必要なのです」
僕たちはそれぞれの目標と、今後というものを漠然と考える。
ワイアームへの入学、かつては遥かに遠い夢だったものが、今はこの手にある。
しかし人の欲望、あるいは探求心というものは底がないのか、一つの夢が叶うたびに、また新たな目標が生まれるような気がする。
「ハティーーーッッ!!」
「ほごっ!?」
がば、と背後から飛びかかるのはヒラティア。
この重さは五人はいる。いかん、内蔵が出る。
「さあさあハティ、パーティだよ、楽しくやろうねえ」
「ヒラティアさん、飛びかかるのは三人までと決めていたでしょう、ハティ様が困ってますよ」
「ヴィヴィアン、あなた何というか物事に動じにくくなりましたね……」
学都ワイアームは今日も騒がしい。
それも当然だろう。ここは学生の街、秘術探索者の街、未来に夢見るすべての人々のための街。
そして学生こそは時代の中心。
今を生きる僕たちこそが、世界の中心なのだから。
(完)
これにて完結です、最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございます。
この話は以前にarcadiaで連載していたものですが、途中で止まったまま放置していて、それが心に引っ掛かっていたので、こうして物語に完結を与えてあげることができて心底ホッとしています。これも読んでいただいた方の存在あればこそです。本当にありがとうございました。
さて次回作は近いうちに始められると思います。止まってる別の作品もあるのでそっちも進めたいのですが……いずれにしても近いうちにということで。




