睦まじき世界の卵
そのとき、僕とヒラティアの間に起こったこと。
それは一瞬の幻だったのか、それとも時間も空間も意味を持たない二人だけの世界に迷い込んだのか。
僕はヒラティアを抱いていた。彼女は生まれたままの姿で、いや、肌にも髪にも色素のない、透明に近いほど白い姿に見えた。おそらくヒラティアからは僕がそう見えただろう。
「ハティ、何をしたの?」
「竜幻装だよ。最後の術は、竜そのものを与える術だ」
「そのもの……?」
そう、ドラゴニア神話。
人に様々なものを与えた竜たちは、その与えたものによって人が堕落することを恐れた。だから最後に、自分自身を与えたという。
それは竜そのものの命、力、超常性、そして精神。
「なんだか、体が熱いよ、ハティ……」
「竜としての命が流れ込んでいるんだ。君はいま、限りなく永久不滅に近い。望めば他の竜幻装の変化をすべて同時に出すこともできる」
「それが最後の術なの? 無敵の戦士を作り出せる……」
「そうじゃない、そんなものはオマケなんだ。一番肝心なことは、竜としての心を備えること」
僕はヒラティアの胸にそっと手を起き、その拍動を確かめる。
「竜は完全無欠だった。永遠の命を持ち、世界の全てを知っていた。そして彼らは、己が手に入れるより、与えること、施すことの喜びがより大きいことを知っていたんだ」
「与える……」
ヒラティアは光に包まれた姿で、僕の手をそっと握る。
「うん……分かる、分かるよハティ、私にも分かる。望むんじゃなくて、誰かの夢を応援することが素晴らしい。無理矢理に夢を叶えさせるんじゃなく、寄り添って一緒に歩む方が正しいって分かる」
「そうだ、ヒラティア、それは魔力枯渇体質の生まれる理由でもあるんだ」
ヒラティアが、はっと目を見開く。
「僕もヴィヴィアンも、自分よりも誰かを優先させる人間だった。誰かを応援したい、誰かの側に寄り添いたいと考える人間だったんだ。魔力とは世界に干渉する力。その原動力はきっと欲望なんだ。より自我が強く、何かを欲している人間ほど魔力が強くなるんだ」
皮肉なことだ。
あれほどワイアームに入りたいと願ったのに、魔力を持てなかった。僕の激情は欲望ではなかったのか?
きっと違うのだろう、僕は他者を押し退けてまで夢を追うことはできない。どんな手段でも使うほどには吹っ切れない。似ているようで何かが違う。それは個人を規定する、根元的な部分の差異としか言いようがない。
僕はそこまで言って、光の束のように見えるヒラティアの髪を撫でる。
「でもね、ヒラティア、欲する感情が大きなことは悪いことじゃない。それもまた人の持つ力強さだ。魔力のあるなしは優劣じゃない。個人の気質、魂の形の違いでしかないんだ」
僕がそう言うと、ヒラティアは安堵したようだった。僕にしっかりと身を寄せて、耳に息を送るようにそっと問いかける。
「もしかして、ドラゴニア神話って……」
「そうだよヒラティア、ドラゴニア神話とは現実にあったことなんだ。かつて起こったという世界の変化、世界に魔法が生まれたという変化とはまるで別個の事象。竜幻装は魔法ではないんだ。まったく独立した、超越者たちからの贈り物なんだ。望むのではなく、与えることこそが幸福なのだと、人に教えるための……」
そう、「深き書の海」で見つけた古い書物。
あの書物では、粉砕された魔物の死体を不思議なものだと語っていた。村の老人が語る竜幻装についての話が疑わしいものだと。
あれはおそらく、あの書物が400年前よりも遥かに以前。世界に魔法が見いだされる前に書かれた書物だからだ。ついでに言うなら、あの書物は湖に返却されたばかりだった。
誰が借りていたのか? 言うまでもない、ガトラウトだ。
全てのことが一直線に連なるような感覚。まばたきの一瞬のようにも、途方もなく長いようにも思える旅、その最後に、全ての事象が結末へと収束するように思える。
それはヒラティア=ロンシエラという少女の成長、究極的にはそれだけ、ただそれだけのために万物が変貌しかけた。
そういうこともあるだろう。
少女こそは、世界の中心なのだから。
「さあヒラティア、生まれ変わるんだ」
「生まれ……変わる」
「そう、特別な力を自分の意思で抑えるんだ。世界はもう少しだけ、自分自身の力で歩けるはず。劇的な変化は要らない。緩やかに、穏やかな変化を望むんだ。全ての事象を最初にまで巻き戻して……」
その時、頭に浮かぶ言葉がある。
それはやはり一瞬の、唇が触れあっていた刹那の情動だったのだろう。
僕たちは一瞬で互いを理解した。それもまたキスの生み出す魔法ということだろうか。
僕は脳裏に浮かぶ言葉を、その力ある竜の声を、世界に拡散させるように放つ。
「竜の流転する命、幻装!!」
※
※
――ねえ、あの噂って聞いてる?
――うん聞いてるよ、例の編入試験に受かった子、今日から来るんでしょ
――すごいよねえ、魔力枯渇体質なのに、学科で全教科満点だったから、特例で入学が許されたとか
――あれ、そうだっけ、実技でも満点だったって聞いたよ
――二人とも違うよ、魔術師級の魔物を倒して、その功績が認められたんだよ
――えー嘘だあ、そんなのが出たなんて聞いてないよ
――魔術師級なんてここ数年目撃されてないのよ、討伐するなら南方に行かなきゃ
――あれ、そうだっけ、そうだったかなあ
――きっと優秀な人なんだろうなあ
――私アタックしようかなあ
――あんたたち知らないの、確か、風紀騎士団長の恋人だとか
「世間はいろいろ言っているようだが」
学園長の執務室は手狭な部屋だった。
かっちりとした服で巨体を包み、髪を撫で付けた学園長が、爪を切りながら言う。
「まあ学生のうちは学業に専念したまえ、しばらくは座学の単位を取るといい、南方への遠征は学園に慣れてからだな」
「……」
「ガトラウト様、ほんとに学園長だったのですね」
僕とヴィヴィアンは並んで立っていた。ヴィヴィアンの民族衣装は学内でも注目の的だったが、逆に僕はあまり目立たなかった。噂だけが肥大しているようで、一部では僕は身の丈2メーキの大男になっているらしい。
学園長が問いかけに応じる。
「ああ、私は一介の秘術探索者のつもりだがな、いろいろと雑事を押し付けられるうちにこうなってしまった、面倒なことだ」
「……ヴィヴィアン、今日は入学手続きだけだから、先に戻っていてくれ。僕もすぐに帰るから」
「分かりました。宿では入学祝いの準備がしてあるそうですよ、速く戻ってきてくださいね」
そしてヴィヴィアンは一礼をして、部屋を出る。
「……それで」
僕は目の前の学園長を見下ろし、やや声に力を込めて言う。
「何やってるんだよ、エンキ」
「おや」
学園長は爪切りを机に起き、不敵に笑う。
「興味深いな、なぜ分かった? かなり正確に変化したつもりなのだが」
「ヒゲだ、ガトラウトのヒゲは旅をしていたせいで日に焼けて質感が軽くなっている。今のあんたのヒゲは太くて黒い」
「なるほど紫外線による体毛の劣化か、それは盲点だった。というより、君の観察眼を称賛するべきだろうな」
それ以前に、ガトラウトがヴィヴィアンに何の反応も示さない時点で別人だと分かった。だいたい話し方も違うし、威厳みたいなものも雲泥の差だ。変装がその対象になりきることなら、エンキは落第点としか言えないが、それは黙っていた。
「本物はどうしたんだ、まさか」
「失敬な、話し合いで代わってもらったのだよ。学園長の業務もおおむね理解したぞ、私なら支障なくこなせる」
「そんな馬鹿な……、仮にもワイアーム練兵学園の学園長だぞ、代わるだなんて」
「南方に美女だらけの村があると教えたら向こうから頼んできたぞ、頼むから代わってくれと」
「きっちりあいつを理解してんじゃねえ!」
どうも外見がガトラウトなせいか、言葉が荒くなってしまう。
「……で、なんで学園長なんだ」
「観察のためだ。あの娘の異常なまでの歪曲率はとりあえず消えたようだが、この学都ワイアームの繁栄は注視に値するようだ、しばらく滞在させてもらう」
「……お前が犯したことには、立派な犯罪もあるぞ」
「そのことだが」
エンキは椅子の背もたれにぎしりと体重を預け、頬杖をついて言う。
「あのアドニスとかいう娘の兄がいただろう、私が「骨」に変えていたものだが」
「……それがどうした」
「あれは元に戻した」
…………
「何だって……?」
「出来ないと思ったのか? 加工理論とは可逆性がなければ完成とは言えぬ。多少面倒な工程を踏むがな。それよりも君たちによって地面に埋められていた方が手間だった。なんと地下3.7ダムミーキの深みまで押し込められていたのだよ」
「今どこにいるんだ!」
「落ち着け、あいつは家に帰りたくないらしい。南方の、私の研究施設に戻ったよ。妹によろしくと言っていたぞ」
「……」
「とりあえずそれでよかろう。他にも北方人類を何人か「骨」にしていたが、それらも復元して、記憶を消して解放した。この町の連中からも「羽」の……北方の言い方だと帝鳳か、その記憶は消しておいた。破壊も可能な限り修復した。人的被害は出ておらぬよ。ここに滞在する以上、君たちとの軋轢はなるべく解消しておきたいからな」
「あんたの仕業だったのか、てっきりヒラティアが正気に戻った際に修正されたのかと」
「両方だ。私がやった部分もあるし、勝手に治った部分もある。ふむ、私もそれなりに観測していたが、世界を大幅に改変しておきながら、その痕跡も残らぬほどに元に戻っている。実に興味深い」
ガトラウトの姿をしたエンキは、指の先で万年筆を回しつつ、同時にいくつもの事を考えるような風情で言う。
「一体どうやった? 歪曲率が特異点を越えていたのだぞ。その深みから言葉だけで引き戻したというのか?」
「言葉だけじゃないよ、肌の触れ合いだ」
「愛撫か?」
「そんなところだ」
エンキはそのやりとりを軽口と捉えたのか、やや渋面を作って言う。
「まあ良い、じっくりと観察させてもらおう」
「いいのか、北方人類はこれから更に南方の奥地に行くことになる。多くの遺跡をあばき、より強大な力を手に入れるかも」
「構わん、私はもはや人類とは別個の生き物だ、人類が繁栄しようと衰退しようと知ったことではない。世界を改変するほどの怪物の出現だけを警戒している」
「……北方人類すべての抹殺とかは考えないのか?」
「言っただろう、まず知性ありき、人類など知性の乗り物に過ぎんのだ。一人残らず消したとしても、また世界のどこかに「人類」が生まれる、そういうものだ」
ドラゴニア神話。
その言葉が脳裏をよぎる。
もし完成した人類がいたとしたら、どのようなものか。
それは欲望を持たず、与えること、施すことの喜びを知っていた。
そして世界に「鉄」を、「風」を、「言葉」を、
「生と死」を、「腐敗と発酵」を、「歯車と滑車」を、
そして「恋愛」を。
様々なものを与えて、この世から消えていったという、ドラゴニア種族。
世界に新しい要素を与えて、そして新しい「人類」にそれを託す。
あるいはそれは、遥かな過去から何度も繰り返されてきた、あまりにも巨大なサイクルでの循環なのか。
想像が肥大しすぎて軽い目眩に襲われた。僕はひとまず考えを打ちきり「まあいいや」と声に出す。
「犯罪を犯さないと約束するなら、好きにすればいい。だが覚えておくんだ、もしお前が妙な真似を始めたら、ヒラティアが、いや、この僕が、いや……」
体を反転して、部屋を出て行く。扉を閉める際に一言。
「誰かそのへんの暇なやつが、すぐに退治にくるからな」
その言葉を受けてのエンキの渋面ぶりは、特筆すべきだったろう。




