黄金の恋愛裁判
「ヒラティア……」
ほんの1時間ほどを隔てての再開なのに、なんだか随分と久しぶりな気がする。
この数日で神にすら迫るほどの存在になったからか、それとも――。
「ハティ、私と一緒に帰ろう」
僕の方に手を伸ばし、何事でもないようにそう言う。かつて彼女を罠にかけて自由を奪ったことなど気にしていない、いや、そんな過去など存在しなかったというように、ごく自然に。
「大丈夫、私がいればハティにも悪いことは起こらないの。ワイアームにだって入学できる。秘術探索者にだってなれるよ。この世界ではね、悪いことは何も起きないの。そういうふうに作ったの。私がハティのことを見ている限り、ハティにもずっと幸福が続くんだよ」
「ヒラティア、上で暴れているのは何なんだ」
「あれは私の分身。私にもいろいろな考えの子がいるの。どうやって世界を変えるかで意見が別れてるだけ、でも大丈夫、オリジナルの私には絶対に勝てない。人への被害も絶対に出ない、壊れた街はすぐに治せる。あれはこの世界の守護天使なの。この世界に私がいるという気配みたいなもの。みんなもう慣れてるよ。今は封印されてるみたいだけど、この世界ができてから私の主観では何百時間も経ってるんだよ。さあハティ、私と一緒に」
「ヒラティア、やめるんだ」
「……っ」
一瞬の間を置かずにそう返す。ヒラティアは胸元に己の手を引き戻し、怯えるような仕草を取る。
「……僕はこの数日、さんざん苦労してきた。ワイアームに入学するにはどうすればいいのか考えて、ワイアームの外からやってきた魔獣と戦ったり、刻銘魔印の古代機械を壊そうとしたり、古代の魔法使いとも対峙した。あらゆることは流されるままに起こって、翻弄されるままに問題が次のことに移っていった」
「……」
「でも、世界を俯瞰して見た場合、この一件の中心は常に君だった。この街に起こっていたことは君が欲するものを求めるだけの物語。僕が叶えられなかった願いを、無理矢理に叶えてしまうほどの力を君が身に付けるまでの物語なんだ。世界を変えるほどの力を」
「……」
「なめないでくれ。僕は自分の力でワイアームに入る。自分の力で秘術探索者になってみせる。ここまで旅をしてきて、最後は君の力で願いを叶えるなんて滑稽だ。僕は君の人形じゃないんだ。この旅は僕の旅だ、君は関係ない」
「……どうして」
ヒラティアは拳を震わせて、頭を何度も振って、
そして地面を強く踏みつけて叫ぶ。
「どうして私から逃げるの! どうして私の思う形で側にいてくれないの! 私だってハティのこと好きだよ! 子供の頃から一緒だったじゃない! それでいいじゃない!! 宿屋を手伝って私の帰りを待っててくれてもいいし、学者さんとして私が持ち帰ったものを研究してくれてもいい、どうして秘術探索者なの!? 無理に決まってるじゃない! 魔力枯渇体質なんだよ! そんなことみんな分かってるよ! ハティだって、私だってずっと前から分かってた!! 私がどうしてここまで無茶なことをしてると思うの! ハティを秘術探索者にするためなんだよ! それをどうして拒むの!!」
「かつて、世界に魔法が生まれた大変化があった。そして今、君が世界を変えた。だがそれで僕だけを救ってどうする。魔力枯渇体質は全人口の1%に現れる。その全員の夢を叶えられるのか。全員が一番になりたいと願ったらどうするんだ」
「それは……でも、少なくともみんな幸福に近づけるはず。悪いことは起きない、少なくともずっと減るはず……」
「無理だ。どれほど世界の仕組みが変わっても、幸福が独占や優先に近いものである限り、全員が幸福になるなんてできるはずがない。でもそれが当然だ。勝者が少数だからこそ競争が生まれる、だからみんな努力する、それが健全なんだ。仮に僕が秘術探索者になれずに一生を終えたとしても、それは僕がそれまでの男だっただけ。一生の間に不断の努力を続けたなら、それが叶うか叶わないかなんておまけでしかない。無理矢理に願いを叶えるなんて、あってはいけないんだ」
「ハティのわからずや!!」
だん、と地面を踏み鳴らす。その衝撃が地の底まで染み入り、周囲を揺らすかに思える。
「どうして分かってくれないの! 全部ハティのためなのに、も、もう、無理矢理に連れて行ったっていいんだよ!」
この時のヒラティアが、自分を見失っていたのは明らかだった。
しかし彼女はやはりヒラティアだった。僕の幼なじみ、優しくて非道なことなどできない彼女だった。僕ににじり寄る歩みも、多くの緊張をはらみ、手の甲には汗の玉が浮いている。
その僕の前に、さっと現れる人影。
「ヒラティアさん、おやめください」
褐色の君が。両腕を開いてヒラティアの前に立ちふさがる。
「ヴィヴィ……どうして? ハティが成功できるんだよ、ヴィヴィにとっても良いことのはず……」
「……ヒラティアさん。私はずっと、南方の村で育ちました。幼い頃から竜術師さまの従者となることを運命づけられ、それを疑うこともなかった。私にも既知の男性はいました。一緒に村を出ようと熱烈な言葉を与えてくれる方もいた。でも私はそれを拒んだ。竜の巫女が己の役割だと思っていたからです」
「……?」
「ですが、私はたった一度だけ、それに逆らったのです。己の運命に」
それは、ヴィヴィアンにとっては舌を噛み切るような告白だったと思われる。喉の奥から絞り出すような声、舌先は震え、何か幻想の怪物に言及するような畏れがある。
「私は、先代の巫女が村に戻った後、術士様の後を追いました。そして、あのガトラウト様を見つけたのです。ですが、私は声を掛ける勇気がなく、ずっと物陰でその様子を見ていました」
そういえば、と僕は思い至る。
ガトラウトがここで行き倒れていて、ヴィヴィアンは……つまり一週間ほど前の彼女は、この時点では物陰に隠れていた。
それはおかしい。
僕が合格発表を見て、この路地まで来たのは小一時間後だ。僕はあの瞬間、偶然ヴィヴィアンが駆けつけたのかと思っていた。しかしそうではなく、ヴィヴィアンはずっとこの場所に潜んでいたことになる。
「それは、勇気がなかったからです。己のこれからの人生を誰かに捧げる覚悟ができていなかったのです。私は物陰にうずくまって、村での日々や、巫女としての教え、これまでに出会った人々の言葉、様々なことを考えていました。そこへ、ハティ様が現れたのです」
その告白は……。
「ガトラウト様が曾祖母から逃げていたのは知っていました。可能ならば誰かに術を譲渡したがっていたことも。そもそもガトラウト様は、誰かに譲渡するために竜幻装を求めたことも。しかし私が竜の巫女として名乗り出れば、おそらく考えを変えるであろうことも分かっていた。その瞬間。私の目の前に二つの道が見えたのです。私は自らの主を選ぶことができた。ほんの数分だけ隠れているか、名乗り出るかで、運命の分岐が見えたのです」
「その瞬間の、なんという高揚」
「私は、自分の意志で自分の道を選ぶことができた。けしてガトラウト様が嫌だったわけではありません。しかし私はハティ様を選んだ。うら若き青年、この世に絶望していたあの方には私が必要だと思えた。そのたった一回の選択だけで、私は永遠に自分の人生に満足できる、そう思えたのです。選択とは一瞬、選択肢とは極小。でも私は自分の意志で選んだ。それだけで十分、それだけで満足なのです」
「ヴィヴィアン……」
――選ばれし御方。さあ、その力をお示しください。我が左手に口付けを。幻想を現実に、神秘を真実に、伝承を未来に――
あの言葉。
そうだ、ヴィヴィアンと初めて出会ったときに言っていたこと。
あれはそういう意味だったのか。
選ばれし御方。それは運命や、偶然に選ばれたわけではない。ヴィヴィアンが、彼女が僕を選んだのだ、という意味――。
「わ、私が――」
ヒラティアは、明らかに気圧されていた。
おそらく純粋な実力では、この大陸すべてと天秤にかけられるほどのヒラティアが、この眼の前の少女の言葉に圧倒されている。
「私が、傲慢だって言うのね――」
「貴方には何でもある。力も、知恵も、勝利も」
そしてヴィヴィアンは体を反転させ、僕にそっと身を寄せた。
「だから勘違いをしている。貴方にだって手に入らないものはある。そもそも、厳密な意味ですべてを手に入れるなど出来るはずがない。万能だから、だから手に入らないものある。そもそも、誰かを手に入れるなどという概念からして不遜なのです。人はただ手を取り合って歩くだけ、己の意思を持っている人間を、手に入れるなど」
ぼう、と空気が燃えるような音がする。
ヒラティアの足元から白い蒸気が吹き上がり、その目が大きく見開かれて感情の色が七色に光る。
「じゃあ、もういい!!」
それは魔力の現れ、もはや錬武秘儀を遥かに超越している万能の魔法。それがヒラティアの体にみなぎり、足元から沸き立ち、世界の法則にすら干渉していく。
「ヒラティア、やめるんだ、何を――」
「今なら何でも分かる。この世界は常に重なり合っている。ワイアームの存在しない世界もあるし、雷が起きない世界がある。火が燃えない世界。夜のない世界。人のいない世界もある――」
周囲の景色がぶれて見える。それは草原であったり、砂漠であったり、灰色の立方体が林立する奇妙な風景もある。魔力枯渇体質の僕にすら幻視できるほどの世界のぶれ。複数の異なる世界から、自分の望むものだけを確定させる能力。
「世界から魔法を無くす!」
「!」
「それで魔法使いはいなくなる、遺跡も消える、秘術探索者もいなくなる! それでみんな平等になる! そして私は――」
上空の雷音が激しさを増している。その交差とともに空が割れるような轟音。山が震えるほどの衝撃が降り注ぐ。
「私は、どこか遠くへ行く」
「ヒラティア! やめろ!」
「もう分かるの。400年前の魔法使いたちもそうだった。世の中には収まりきらないほどの力を手に入れた人は、怪物になるか、どこかへ消えるかしかないの。人間はみんな優しい。結局、思いのままに力を奮ってすべてを手に入れる、そんなことは誰にもできなかった。心を壊して怪物になるか、どこかへ逃げるかしかなかった。それが人の限界。だから私も――」
「くっ――止めなければ!」
アドニスが腕を振るう。しかしその術が形になる瞬間。雷気と熱が拡散して消え失せる。
「! これは」
「この世界では私にとって悪いことは何も起きない! アドニス! あなたの術もけして形にならない!」
「そんなことが――」
――
「ハティ様」
僕をそっと抱きとめているヴィヴィアンが、凛とした目をして言う。
「おわかりですね、ハティ様、最後の術です」
ああ、分かる。
今の僕には分かる。この竜幻装が何であるかということも。
この術こそ、まさに世界の例外であると。
この術だけは何者の干渉も受けない。神に近い存在になったヒラティアの影響すらも、なぜなら、この術はおそらく――。
そして最後の術とは、すなわち、口と口の接触であることも。
「ヴィヴィアン、今までありがとう」
その体を強く抱き返し、耳に囁きかける。ヴィヴィアンの身体が熱を帯び、息が早くなるのが伝わる。
「ハティ様」
「こんな僕に力を貸してくれてありがとう。君がいなければ僕はここまで来れなかった。君はとても素晴らしい女性だ、きっとこれからも歩んでいける」
「だけど……」
その体をぐいと引き離す。ヴィヴィアンは驚愕に支配された顔で僕を見る。
「ハティ様、どうして」
「人は一人じゃ生きられない」
さっきの僕の言葉。
自分一人の力でワイアームに入る。秘術探索者になる。
それは虚言だ。ただの強がりだ。多くの人間の助けがなければ、人は何にもなれない。何もできない。
そしてそれは、ヒラティアだって例外じゃない。
「僕たちは何にだってなれる。ヴィヴィアン、君が選択したように、僕も自分の人生を選択できる。ヒラティアの言うように宿を手伝ったっていいし、学者になる道だってあったはずなんだ。僕の強がりでそれを認められなかっただけだ」
だが。
「……ヒラティアはそうじゃない。彼女はヒラティア=ロンシエラにしかなれない。自分で自分の力を消すという選択肢が持てないんだ。それが強者である彼女の弱みなんだ。だから――」
「ハティ様、でも私は――」
言いかけるヴィヴィアンを、背後から抱きとめる影。
赤と黄の編み髪、アドニスが彼女を抱きしめている。
「――私に言わせれば」
その何かを面白がるような笑い。彼女もまたこの旅で変わったと思える。何事にも余裕を持って構え、すべてを受け入れるおおらかさが備わったような。
「ハティさんは立派な男ですよ。どれか一つしか選べないということもない。きっとヒラティアさんも、ヴィヴィアンも、ついでに私も一緒に抱きしめられるぐらいの腕の丈はあるでしょう。足りなければ、我々も互いが互いを抱きしめ合えばよいのです」
「……分かりました。必ず、ご無事で」
僕は決然と二人の視線を振り切って、吹き荒れる暴風の中に歩を進める。
頬を小石がかすめる。雷撃のような速度に達しているが、それが僕を傷つけないのは分かっている。不可思議な事象だった。象ですら消し飛ばすほどの暴風が吹き荒れているのに、僕はその風の空白を縫って歩を進められる。
それは、ヒラティアが僕を拒んでいないから。そう思うことにしよう。
「ヒラティア」
僕は白い光の中に腕を突き入れ、そこにいた人間を強引に引き寄せる。
光の中のヒラティアは、少し驚いた顔をしていた。でもやはり美しい。君こそまさに世界の中心だ、ヒラティア。
僕はその身を抱き寄せ。その唇を塞ぎ。
そして世界が、輝きに包まれる。




