千々に乱れる乙女の髪は
学都ワイアームは高壁に囲まれた市街地と、その外側に広がるいくつもの村、農地などから構成されており、午前中には郊外から市街地へと人の流入がある、僕らはその人波に逆らって、街の外縁部へと向かう。
「場所の検討はつきますか?」
「ええと……確か広場から北東の路地へ、そこから小道へと向かったような」
時刻はと言えば、まだ街の目蓋も開ききらぬ早朝。次第に人通りが増えてくる頃合いだが、僕がガトラウトと遭遇した時間まではまだ小一時間ある。
「そう、確か、路地でギルドから帰ってきたヒラティアと遭遇したんだ。だからギルドと宿の直線上から折れて行ける道のはず」
まだ一週間足らずのことに過ぎない、おぼろげに残っていた記憶を頼りに右へ左へと進む。
ほどなくたどり着く。前には街の外縁部を囲む壁。左右には石壁がそびえる隘路の突き当たりだ。
「あ、いた」
そこに倒れていたのは太った髭面の男、すぐ側には背負い袋が転がっている。顔は泥だらけで白いヒゲには蜘蛛の巣が張り付き、頭はすっかり禿げ上がってそこに野菜くずが乗っていた。
そしてよく見れば、その人物は補強された野営用の服に革のチョッキ。体のあちこちに試験管や丸めた巻物をくくりつけている。魔器物を駆使する魔法使い、ガトラウトだ。
「……ヴィヴィアン、ちょっと物陰に隠れてて、絶対に出てこないように」
「? はい、分かりました」
僕は慎重に近付き、その巨体を足の先でつつく。
「おい、起きてくれ」
「ん、うーーーん……」
巨漢のガトラウトは寝ぼけた様子で顔をこすり、目をゆるゆると開ける。
そして僕の姿を認めると、がばりと起き上が
る寸前にその顔面を蹴っ飛ばす。
「ほぶっ!?」
「やめろこの変態が!!」
鼻の下にカカトが食い込む感じで蹴ったので悶絶して転がる。痛いぐらい我慢しろ、僕の受けた心の傷のほうがずっと痛かった。
「いま僕にキスしようとしただろ!! お見通しだ!」
その体をだんと踏みつけて一気に言う。
「まず聞きたい! お前は何者なんだ! ここで僕にキスをしたのは偶然じゃないな! なぜ僕のことを知っていたんだ!」
「あの……ハティさん。この方」
アドニスが、僕の袖を引きながら囁く。
「どうしたの?」
「いえ、この方、ガトラウトという名前でもしやと思っていましたが」
アドニスは自分の言おうとしてる言葉が自分でも信じられない、という程度の溜めのあと、何か目に見えないものに言及するような、自信なげな様子で言う。
「肖像画で見覚えがあります……ガトラウト=レジオ。ワイアーム練兵学園の理事長では……」
「は……?」
あらためてガトラウトを見る。旅の汚れに覆われて、髪も髭も伸び放題、旅装は擦り切れてしかも生ゴミにまみれていたが、そういえば見覚えがなくもないような気がする。あれは確か三年前、ワイアームを初めて受験した時に、面接で会っていたような……。
その口からはカニのように泡を吹いて、白目を剥いているため人相が変わっているが、どことなく威厳のカケラのようなものも。
「……あれ」
起き上がる気配がない。
「……打ちどころが悪かったかな?」
「人中に思い切りめり込んでましたからね。倒れる時に頭も……」
どうしよう。アドニスに記憶を消す魔法でもかけてもらおうかな。
それとも縛り上げて海に捨てるべきか。ああもう、こいつに対してはまったく面倒を見ようという気がわかないっ。
「まあいいや、死ぬほどでもなさそうだし、元の状態に戻っただけか」
半分投げやりにそう言って、元のように寝かせて頭に野菜くずを乗せておく。
「もう少しすれば僕がここへ来るはずなんだけど……」
「隠形の術で隠れましょう」
言って、口中で呪文を唱える。僕らを覆うように黒い膜が生まれ、僕らは路地の片隅でその膜をカーテンのように構えて隠れる。周囲の風景に擬態し、匂いや音をカットする魔法の薄膜だ。
そしてタイミングよくと言うべきか、ほとんど間を置かずにそれは来た。
「っ、ヒラティア……」
目の醒めるような白い鎧に、背中の無骨な大剣。赤い髪を後方になびかせた彼女は、路地の中ほどまで歩み来て左右を見る。
「なぜヒラティアさんがここに……。ここでハティさんが竜幻装を譲渡されるのを妨害するつもりでしょうか?」
「そう、なのかな……?」
ヒラティアはこの場所を知っている。このタイミングで彼女が現れて何か目的があるとすれば、そういうことになるんだろうけど。
僕は表情から意思のほどを読み取ろうと目を凝らし――。
「……? あれは、ヒラティアだよね?」
「え? ええ、そうですね、目立つ方ですし、間違うことはないかと」
「……そう、なんだけど、そうじゃなくて、どことなく……」
その彼女は足元に転がっているガトラウトを見つけ。
腰からロープを取り出し、その手足を縛っていく。
「うう、ごめんなさい。怪我はさせないから、ちょっと攫うだけだから」
と、何やら言い訳のように呟いている。
何をしてるんだろう、ガトラウトを縛り上げてるけど……。
だが、僕たちにまともに認識できたのはそこまでだった。
ヒラティアが何かに気づいて真上を振り仰ぎ。
瞬間。その頭上に黒い影が落ちてきて、地面に突き刺さり力を開放。
全身に衝撃。ヒラティアのいた場所を中心に爆発的な衝撃が生まれ、周囲の建物やら壁やらを砂の城のように吹き飛ばす。ガトラウトの巨体が蹴飛ばした木の実のように吹っ飛ぶ。
「のわっ!?」
意識が頭蓋からはみ出しそうになり、後ろの壁にしたたかに体をぶつけるが、隠形の術が障壁となったことでかろうじて意識を留める。目を開ければその場はクレーターのようになっていた。中心に黒剣が突き立ち、周辺の建物が倒壊して開けた場所が生まれている。まるで伝説の武器か何かが、遺跡の奥に残されてるような眺めだ。
「もうっ! しつこいっ!」
ヒラティアは傷一つ負っていない。地面に突き立った方の剣をひっつかみ、真上に投擲、そして自分も跳躍して視界から消える。そのすべての動作に雷音のような衝撃が伴う。
「な、なにが……」
轟音と衝撃で脳が程よく揺らされている。なんとか意識を保つ僕らの上に、ばきいん、と音が降り注ぐ。
見れば上空には衝撃波の白い波。雲が綿を引きちぎるように薙ぎ払われ、周辺の建物でガラスが割れる。
「ヒラティアが誰かと戦っている……?」
魔物だろうか。確かこの場所にも女皇蜘蛛が来るはずだが。
視線を伸ばして目を凝らして、そして僕は見間違いかと目をこする。
「ヒラティアが……二人いる?」
いや、二人ではない。
視線を振り動かすより速く、超高速で空を切って飛ぶ影がある。
それはまばたきの一瞬で交錯し、火花と衝撃波を散らす。四人、いや五人。
「あれは……祇技の伍、双双かな?」
端的に言えば二人に分身する技だ。分身は完全な質量を有し、それぞれが二本の剣を持って四刀流、なんてこともできると聞いている。ヒラティアはさらっと言ってたけど、これだって十分に神業だ。
しかしどうも違うようだ。分身同士で斬り合うなど、仮にできるとしてもそんなことをする理由がない。
「どうなってるんだ……」
そういえばヴィヴィアンはどうなったか、と彼女を探す。
地面にうずくまり、瓦礫の影にいる彼女を見つける。
「ヴィヴィアン、大丈夫――」
彼女は、自分自身を見つめていた。
黒いマント姿に、民族衣装を巻いた褐色の肌の少女。帯状の衣装が少し乱れている。ぐったりと手足を伸ばして眠るような眺めだった。
「……ハティ様、大丈夫です。かすり傷一つありません」
立ち上がり、そう語るのは僕たちと同行していた方のヴィヴィアンだ。民族衣装の巻き方で見分けられる。
「その子は、大丈夫?」
「はい、すべての瓦礫が彼女を避けるように降ってきて、奇跡的に生まれた空白地帯にいたのです。気絶していますが、これは音圧によるもののようです。彼女は身構えていなかったので」
「そうか……良かった」
「いえ、ハティ様、これは偶然でしょうか?」
言葉の背後で、街を衝撃波の爪が突っ走る。数十の建物を粉砕して、大通りを谷間に変えるほどの衝撃。
「あれほどの戦いです、街を巻き込んでいます。ヒラティアさんがそんなことをするでしょうか?」
「……そうだね。風紀騎士団団長ということもあるけど、ヒラティアはけして民間人を巻き込んだりしないはず」
ざん、と頭上で三階建ての屋根の一部が切断される。一抱えほどの石材が頭上から降り注ぎ、僕らの間に入り込むように落下する。
けたたましい音、礫片が散らばって僕らの体をかすめる。
「うわっ、と……あ、危ない。間一髪」
「アドニスさん」
ヴィヴィアンが石材の落下にも動じず、背後のアドニスに水を向ける。
「もしや今、落ちてくる石材が複数にぶれて見えたのでは?」
「何だって――」
「はい、見えました」
アドニスが頬に汗を浮かべ、緊張の面持ちで言う。
「というよりも……落ちてくる石材が回転しながら像がぶれて、ハティさん、ヴィヴィアンさん、あなた方を押しつぶすように見えました。血しぶきが飛び散って……で、ですが、その瞬間。あなた達の間にはまり込んだものを除いて、他の石材が消えたのです。瓦礫に潰された貴方達も、消えました」
「……」
僕は思考する。
僕が潰れる様子が見えた? それは……
「ハティ様、もしやこの世界で起きていること、ヒラティアさんの影響なのでは」
「……うん、だんだん、分かってきたよ。この世界の違和感の正体」
例えば、コインを弾く。
このとき、コインが落ちる結果には様々な要素が絡む。
指先を始めとした僕の全身の筋肉、わずかな空気の流れ、地面の凹凸。コインそのものの形状。それらは複雑に絡み合っているため、同じように弾いたつもりでも、完全に同一の結果を引き出すのは極めて困難だ。
ではもしコインを弾く瞬間、その何十通りもの結果が同時に存在しているとしたら。
それは観測によって確定する。コインがどうなったかを誰かが目撃すればその結果に収束するのだ。
「ある試行に対する結果は、常に重なり合って存在している。この世界ではそれを知覚できるんだ」
それはあるいは二次元が三次元になるような、世界における新たなる観測要素と言える。言葉によってはひどく抽象的な話となるが、しかし簡潔に言い表すこともできる。この世界の中心である彼女の視点に立てば。
「何が起きても、その行動の結果をヒラティアが観測している限り、けしてヒラティアの視点で「よくない」ことが起こらない。それがこの世界の正体だ」
「そんなことが……」
アドニスは半信半疑という顔である。その事象の一端を観測できている彼女ですらそんな様子だ、いかに常識を超えた世界かが伺い知れる。
しかしそうでなければ、ヒラティアがあれほど街を破壊していることが説明できない。
おそらく全ての戦闘が終わった後、街は「奇跡的に一人の犠牲者も出なかった」という結果に収束されるのだろう。もともと、ちょっとした怪我や建物の破損ならば魔法で治せる。重篤な被害だけを避けるならば、あれほどの規模の戦闘も許容できるわけだ。
「もし、それが本当なら、素晴らしい世界とも言え……」
言いかけて、アドニスは口をつぐむ、今のは先刻エンキの怒りを買った発言と同じだ。気まずさが表情に出ていた。
そう、事象の結果を選択できる、しかしそれは誰にでも、ではない。魔力枯渇体質である僕らには事象のぶれがほとんど見えない。それに、もしアドニスとヒラティアが異なる事象を求めたらどうなるか。コインを弾いて、アドニスが表を、ヒラティアが裏を求めたらどうなるだろう。
僕は確認するように言う。
「おそらく事象の偏りは、より魔力が強い人間の観測に収束する」
あるいはそれは魔力ではなく、運命力、人間力、カリスマ性、そんな言葉で言い表すべきものかもしれない。しかし全員の事象が等しく優先されることはありえない。そこにはおそらく優劣がある。
「この世界はヒラティアを中心に回っている。彼女が、あるいは強い力を持った人間にとってより良い結果が常にもたらされる世界なんだ」
それは、果たして理想郷だろうか?
あるいは選民思想の究極の姿、選ばれた少数の人間を中心に回る世界、その栄耀栄華を誰も犯すことは許されず、最少数の最大幸福だけが追求される世界――。
「――そうだよ」
背後から声がする。
振り向けば、そこには彼女がいた。
それを見た瞬間に分かった。その美しい目元も、燃えるような赤い髪も、僕の記憶と寸分の違いもない。
「――ヒラティア」
紛れもない、彼女こそが本物。
唯一無二の世界の中心、ヒラティア=ロンシエラがそこにいた。




