始まりの地へと還る
第九章
世界とは、誰かの物語である。
王や英雄と呼ばれる者、勇気や知恵を持つ者、あるいは街角の名もなき誰かの物語。世界も、時代も、人の世のすべては誰かの物語を彩る舞台装置に過ぎないとも考えられる。
世界を主体的に眺めるのは英傑、秀才、努力家、あるいは美男美女、持たざる悲劇の人。
誰が物語の主役であるか、脇役であるかなど誰にも分からない。
しかし、ある時代、ある場所には、疑いなき世界の主体が存在する。
学都ワイアーム、人類の中枢、時代の先鋭、繁栄の核心であるこの街もまた、誰か一人を中心に回っているのだ。
では世界の終わりとは、その人物における物語の終わりと同一なのか。
世界の中心であり、始まりと終わりを司る誰か。
その人物の物語が終わるとき、世界は何処へ行ってしまうのか……。
※
乾いた地面の上で、僕は両膝を丸めて、背中の丸みで地面をごろごろ転がりながら悶絶する。ダンゴムシは防御のためではなく、痛くて丸まってるという仮説が浮かんで消える。
「これは客観的な評価として言いますが」
僕の太股にゆっくりと治癒魔法をかけるのはアドニス。
「あなた、損か得かで言えばものすごーく得してますからね。ヴィヴィアンさんのあの踊り、一国の王でもそうそう見られるものではありません」
「わ、わかってますデス……」
そのヴィヴィアンはというと、妙にすっきりとした顔で明るく微笑んでいる。汗をかいたせいか、全身がツヤツヤと水気に満ちていた。
「アドニスさん、私なんだか自信が持てた気がします」
「そうですか、それは何よりです」
何だかこの二人は妙に仲が良くなったというか、何かの組織の同志のように意思を一つにしてる気がする。
ようやく脚の痛みが引いて、僕はよろよろと立ち上がった。アドニスは肩を回してから言う。
「さあ遊んでる場合ではありません。ヒラティアさんを助けに行きましょう」
「遊んでたの!?」
「遊びで人が救われることもあるでしょう。ヴィヴィアンさんにとっては大事な時間でしたよ」
「その通りです」
ヴィヴィアンは深く何度も頷き、僕は何か言うとヤブヘビになりそうだったので、そこには触れずに背後を振り向く。
そこには巨大な時計の文字盤。数字ではなく複雑な数式のようなものが描かれ、十本の針が異なる速度で回り続けている。
「極めて高度な封印魔法です。私もこの術の構造式はまったく読み解けません」
僕も、あらゆる事象を拒絶する術式なのは分かるが、その構造はまるで分からない。およそ北方人類のレベルを遥かに越えているのだ。
だから小細工は無用、まっすぐ正面から当たるしかない。
「触れた瞬間に内部に吸い込まれるかもしれない、手を繋いでおこう」
「分かりました。ハティ様、内部ではくれぐれも御身の安全を優先させてくださいね」
そして僕ら三人は手を繋ぎ、僕が先頭に立って文字盤に手を――。
触れた刹那、ぱしりと電気的な刺激が指に伝わり、僕の意識が揺れて。
※
「ハティ、どうしたんだい、ぼーっとして」
名を呼ばれる。
声の方を振り向けば、そこには樽のように太った女性。髪を頭の上で団子にまとめており、大きめのエプロンは洗いたてのように白い。
「……え、あれ、マザラおばさん?」
それは僕が下宿する『花と太陽』亭の女主人。僕の親戚であり、ワイアームで数十年も宿屋を切り盛りする肝っ玉女主人。
「! ここは!?」
かつては酒造所だった名残のあるオーク樽の匂い、料理と酒の匂い、磨かれた木の香り、裏手にある別館の浴場から漂う湯の香り、高めの天井、居並ぶがっしりとした印象の丸テーブル……。
「ここは、ハティ様の下宿……」
背後にヴィヴィアンの声が生まれる。それによって混乱から一気に引き戻され、これが何かの幻覚や夢ではないことを意識する。
「地上まで瞬間移動した!? まさか! 複数の人工世界の境界を飛び越えてそんなことが!」
「いえ、たしかエンキがそのような術を使っていましたが、しかし跳躍したような感覚は……」
「そちらの二人はお客さんかい?」
マザラおばさんが何事でもないように言う。
よく観察すれば、ここは宿の一階、階段の真下だ。マザラおばさんは僕たち三人が階段を下りてきたところ、と思ったのか。
――ん?
「いや、おばさん、ヴィヴィアンとアドニスじゃないか、二人とも今はこの宿屋に下宿してるでしょ」
「下宿? ああ宿泊かい。そんなら宿帳を付けといておくれ」
「え……」
どうも妙だ。マザラおばさんはまるで二人と初対面のような……。
「それより、今日は合格発表を見に行くんだろ? はやく行ってきな」
「……」
僕は数秒だけ思考し、そしてガラリと気持ちを切り替える。
「ああ、そうだった、じゃあ行こうか二人とも」
「あの、ハティ様、いったい何が」
「いいから先に出ておいて」
僕はヴィヴィアンの背を押して入り口の方に向かわせる。
そして店内を見渡す。朝の早い時間なのだろう。まだ他の客の姿はない。
「……おばさん、ヒラティアはどうしたの?」
「ヒラティアかい? そういえば今朝は見てないねえ、朝は早い子だし、散歩でも行ったんじゃないかねえ」
「分かった、ありがとう」
僕たちは外に出る。
大通りには朝の賑わいが満ちている。荷物を積んで行き交う荷馬車、店を開ける準備をする商売人、朝から元気に走り回る子供たち。
それに加えて、この日は旅装の若者が多い。
旅装束であるマントを背に垂らした男性に、大きめの鞄を持って歩を進める女性。彼らはワイアームの外から来た人々だ。今日の合格発表を見るために来た受験生だろう。
「間違いない……今日はワイアームの合格発表の日だ」
「では、我々は過去に戻ったのですか」
アドニスが言う。確かに目の前の事象はそうとしか説明できない。
しかし。
「いや、そんなはずはない……」
「しかし、時空間遡行はまさに究極の魔法ですが、今のヒラティアさんならば」
「そうじゃないんだ、時空間遡行は確かに高度な魔法だが。かつての大爛熟期の魔法使いには使えたものなんだ」
――彼らは星の動きや、時の流れすら操ったという。
「だからヒラティアは何かそれ以上のことをやっている。この場所はかつてのワイアームのようで、何かが違っているはずなんだ」
「しかし、時空干渉とは全ての因果率に干渉する大魔法です。それを上回る魔法などあるはずが!」
がん、と。
アドニスが杖を強く地面に打ち付け、その弾みで手から杖がこぼれる。金属の杖が地面でかるく跳ねる。
「あ、し、失礼……」
身を屈め、杖を拾おうとして。その動きが数瞬止まる。
「? アドニスさん、どうかされましたか?」
「いえ、今、杖が何本かに見えたような……」
何本か……?
「いえ、すいません。疲れ目みたいなものでしょう」
「ちょっと待ってくれ」
確かに今、僕の目にも杖の像がぶれて見えた。ほんの一瞬だけだが。
違和感は究明されなければならない。僕はポケットからコインを取り出すと、真上に向かって指で弾く。
「! コインが増えて……!」
ちゃりん、と落ちたコインは一瞬だけ像がぶれて見えて、表を向いて止まる。
「今の現象は何です!? コインが何枚にも見えました!」
何枚も……。
「アドニス」
「は、はい」
「僕には一瞬だけぶれたようにしか見えなかった」
「一瞬……? そんなはずはありません、少なくとも七、八枚に分かれて散らばるように見えました。いえ、コインは一枚きりのはずですが」
そして脇のヴィヴィアンは、わけが分からないという顔で所在なげにしている。僕は何となく予想できる答えを思い浮かべ、彼女に問う。
「ヴィヴィアン、君の目には何枚に見えた?」
「あの、すいません、お二人とも……おっしゃっている意味が分かりません。コインは最初から一枚だけです」
その答えに、アドニスがごくりと息を飲む。
「な、何が起きているのですか」
「……分からない」
アドニスに詳しく確認すると、指で弾いた直後からコインが増えたように見えた。しかし実際は増えておらず、落ちて散らばったと思った直後に、一枚を残して他は消えたという。
しかし、僕とヴィヴィアンにはその現象が知覚できなかった。
僕たちの共通点といえば……。
「魔力枯渇体質……」
僕は呟く。
そうだ、あの時。
疲労を回復させようと、ヴィヴィアンの体に聖癒痕を刻んだ時だ。紋様は発光せず、術が発動している気配がなかった。
「おそらく、ヴィヴィアンも魔力枯渇体質だ。これはコインの件と無関係とは思えない。この現象は魔力枯渇体質には知覚できないんだ」
「魔力枯渇体質……し、しかし、そんなはずが。貴方はともかく、ヴィヴィアンさんは何度も竜幻装を使っているはずです」
そうだ。南方に伝わっていたという奇妙な術。そのそもそもの疑問が、ここへきて頭をもたげてきた気がする。
なぜ魔力枯渇体質である僕にあの術が使えるのか。今までは聖癒痕のように、被術者、対象の魔力を利用する術だと思っていた。だから僕に魔力がなくても使えると。
「ヴィヴィアン、ちょっとごめん」
僕は腰から鞭を引き抜き、先端をヴィヴィアンの腕にあてる。愛雷鞭の刻印が褐色の肌に刻まれて……。
「……あの、何も起きないようですが」
「やっぱりだ、彼女も魔力枯渇体質だ」
「そんな馬鹿な! ではあの術は!」
「今はそこじゃない、ともかくも僕らには竜幻装が使える。なぜ使えるのかは今考えなくてもいい。僕たちにコインの分裂が知覚できなかったこと、そのほうが問題だ」
この世界は、僕たちが元いた世界と何が違うのか。世界に新しく加わった要素とは何か。
そして今ここで、僕たちは何を成すべきか。
「……そうだ、ガトラウトだ、彼に会おう」
「ガトラウト……ですか?」
「ああ、この日、僕は試験の結果を見に行って、不合格を知った。そして絶望に駆られて路地の奥へ奥へと走っていった。そこでガトラウトに会って、竜幻装を受け継いだんだ」
この世界はヒラティアによって産み出された仮の世界。
この日、僕たちの間に起きたことといえば竜幻装しかありえない。おそらくヒラティアもそこへ向かうはずだ。
「あの路地へ……」
ヴィヴィアンが呟く。
する、と、僕の体に腕が回される。ヴィヴィアンが僕の胴にひしと抱きついている。
「? ヴィヴィアン?」
「ハティ様、私……」
僕の胴に顔を押し付けて、くぐもった声で言う。
「あの路地で、私の、とてもはしたない姿を、見るに耐えない嫌らしいものをお見せするかも知れません。私は、ハティ様にお見せしてきた顔だけではない一面もある。とても悪い女なのです。どうかお目こぼしください。私のことを嫌いにならないでください。どうか……」
「……」
彼女が、ゼオールデパートで言っていた言葉を思い出す。自分は悪い女なのだと。
もちろんヴィヴィアンにも様々な一面があるのだろう。ただ貞淑なだけの竜の巫女、術の媒体としての従者ではない。さまざまに生々しい顔を持った一人の人間だ。
あの路地で、彼女もまた己の物語を生きていたのだろうか。
すべてが、あの路地に集約している。
あの場所こそが、物語の始まり。
それは僕だけでなく、ヴィヴィアンも、ヒラティアも、学都ワイアームも、そして北方人類すべてを巻き込むような物語の始まりが、あの場所にあると言うのだろうか――。




