刻の井戸には誰もいない
その時。
ヒラティアの眼前で黒い亀裂が生まれ、そこから黒い光とも言うべきものが溢れ出すかに見えて。
その一瞬の情景を遮るように「時計」が出現する。
直径50メーキ以上の巨大な文字盤。そして周囲には大木のように巨大な柱時計。すさまじい早さで次々とせり上がってくる。
それらは外装の板が剥がれて内部が剥き出しになっており、歯車から漆黒の鎖が伸びて隣の時計へ。さらに四方八方の時計へと渡される。わずかの間に柱時計の数は数千本。そこを渡される鎖は森の葉陰の様相となる。
「あれは……」
魔法の象形には、その効果を象徴するものが現れる。
あれは何らかの封印系魔法。しかも時空に干渉するものか。北方では使えるものなど一人もいない、伝説にのみ存在する高位魔法だ。
「降りよう」
僕が言うと、ヴィヴィアンはすこし警戒した様子で僕を抱き締めてくる。
「危険ではありませんか? あの方は……」
「大丈夫、エンキはもう僕らに構っている場合じゃないと思う」
アドニスも含め、僕たちはゆっくりと降下する。
地面に降り立ったとき、エンキは全身から汗を噴き出して肩を上下させ、両手で違う印を切りながら何かをずっと呟いていた。鎖が新たに射出され、あるいは柱時計の側面から新たに歯車が突き出してきて鎖を中継する。柱時計の森が複雑さを増していく。
場の重心となるのは巨大な文字盤。
何かの数式のようなものがびっしりと書き込まれ、回転する針は10本以上ある。目にも止まらぬ早さで動く針や、半回転してから四分の一ほど戻る動きを繰り返す針など――。
エンキの仕掛けたこの術、僕にもその理論構成はまったく掴めない。僕は背を向けているエンキに問いかける。
「エンキ、ヒラティアはどうなったんだ」
「「相」の変化についての言及は現次元の我々には不可能だ。もはや関知の域外へ出ている」
「僕たちに分かるように言ってもらおう。いま、お前はヒラティアを封印するために猫の手も借りたいはずだ。僕らにも話しておくべきだ」
その言葉に、エンキは少しほぞを噛むような気配を見せ、背を向けたままで言う。
「この世になぜ魔法が存在するか分かるか。なぜ言葉だけで炎が生まれ、筋肉の作用だけではあり得ない力が出せるのか」
「それは、まず基本的なものでは自然界の精霊や、異界の存在に働きかけて」
「違う」
吐き捨てるような声だった。エンキは苦々しく語る。
「誰かが世界をそのように作ったからだ。太古の昔、この世の摂理を極め尽くした人物がいた。そやつは、世界を動かす法則のあまりの単純さ、退屈さに我慢ならなくなった。だから世界を書き換えたのだよ」
「書き換えた、そんなことが……」
確かに、エンキは世界を書き換えることがどうの、と言っていたが。
「その人物、始源の魔法使いに呼応するように次々と超越者が生まれた。彼らは異界の存在を創造し、炎や風の精霊を創造した。しかしそれは人間には手に余る事象だった。だから一つの魔法の体系が生まれるたび、一人の研究者が怪物となった。人の世の倫理観など、個人が永続するという概念の前には芥子粒のように矮小だった」
「……だから、お前はヒラティアを封印したのか、あのままでは彼女が怪物になるとでも」
「それも違う」
エンキは僕らの方を振り向く。汗にまみれた顔は少し彫りが深く見え、急に老け込んだようにも見えた。
「怪物になった研究者は、自らの永続を求めたに過ぎぬ。あの娘はそれとはまったく次元が違う。あれは歪曲律の理論的到達点すら越えている。魔法ですらあの娘には足りぬというのだ。あれは魔法を超えたものを求めている」
「……それはつまり、始源の魔法使いと同じ」
「その通りだ」
エンキが指を鳴らす。すべての柱時計の歯車が回転し、鎖が猛烈な勢いで走行し、巨大な文字盤で十あまりの針が回転する。そして、時計ならば12時にあたる地点ですべての針が静止した。鎖の走行はずっと続いているため、視界の端が常にかき回されるような感覚がある。
「あれはかの爛熟の時代、その黎明と同じだ。この世界に何かまったく新しいものが生まれようとしている。一切の事象を遮断する時柩にて封印したが、これですら長くは持たぬ」
「では、どうする気なんだ」
「ここが研究者による人工空間であることが幸いした」
エンキは真上を見上げる。空間同士の繋がりは上や下で表現できるものではないが、感覚的な動作だろう。
「この空間の五層と六層、つまりこの場所と、一つ現次元に近い階層の間に人工空間を増設する。しかも空間それ自体が自らの複製を作り、入れ子構造として無限に増殖していくような術式だ。これによってこの場所は、地上から無限に近い速度で遠ざかっていくことになる」
「そんなことが……」
「可能だ。それならば見た目上で光の速度を越えて離れていくことになる。世界改編にも影響はないはずだ」
その「はずだ」という言葉に、わずかな気弱さがあったことに気づくが、声には出さない。
「待ちなさい」
アドニスがそこで言葉を挟む。
「そもそも、なぜヒラティアさんを封印せねばならないのです。かつて世界に魔法が生まれ、今また何かが生まれようとしている。それは歓迎すべきこととも言えるはずです」
「愚か者が!」
エンキの腹からの声、それには剣を降り下ろすような怒りが込められていた。
「世界に魔法が生まれて何が起きた! 研究者どもは扱いきれずに自滅、破滅、あるいは浅ましくも共食いまで犯したのだ! 世界に新しい法則が加われば、それについていけぬ者は容赦なく滅びる! あるいは、あの娘ただ一人だけが適応できるような世界に変じたならばとうなる! 我らなど刹那の一瞬で」
「わかった」
僕は手を突きだし、エンキの言葉を遮る。争っている場合ではないのだ。
「一つだけ質問したい」
「なんだ」
「ヒラティアを元に戻せる可能性はあるのか」
エンキは僕を見つめる、歪んだ右目と震える眼輪筋、何かしらの葛藤が見てとれた。
「分からん」
そう言って息を吐き出す。そこで理解した、エンキはあまり「分からない」と言いたくないのだ。
「あの文字盤はこの時柩の要だが、実体はない。手で触れれば結界の中に入れる。内部はあの娘が作った空間になっているはずだ」
「人工空間か」
「術としての次元が違う。もはや、あの娘が作り出した場所の方が「現実」だ」
とす、
と、地面にガラスの器が突き立てられる。エンキが生み出した砂時計だった。
「三時間だ。それが時柩で封じておける限界。歪曲律が極端な伸長を見せるような現象、そこには大なり小なり精神の過負荷、つまり狂気が絡んでいる。もしあの娘が正気を取り戻し、願望の充足が果たされて世界を書き換える必要が無くなれば、歪曲律が平衡を取り戻すはずだ」
そしてエンキは背を向け、宙に浮き上がる。
「私は人工空間の術式を練らねばならぬ、お前たちは事象の中心に接触しろ、うまくいけば儲けものだ」
エンキはそうとは認めたくないだろうが、彼にとっても藁にもすがる気持ちだったのだろう。やや力ない飛行で第五層への穴へと向かっていく。
「失敗したら!」
そこで背後から出てくる褐色の影。
ヴィヴィアンが、声を絞り出して叫ぶ。
「失敗したらどうなるのです!」
「……」
エンキは何かを言ったような気もするし、沈黙を返しただけのようにも思える。
ただ一つ言えることは、この階層に三時間を越えて留まっていても、エンキはためらわず空間を増設させる、その術式を使うだろうということだ。
僕は踵を返し、あの時計の文字盤のようなものへと歩き――。
「待ってください!」
すがり付く、それは言うまでもなくヴィヴィアン。全体重を腕に乗せるように引きとどめる。
「危険です! 中がどうなっているか分からないのですよ!」
「行かせてくれ、中に入らなければ一生後悔する、そんな気がするんだ」
「ハティさん」
と、僕を落ち着けるためか、つとめて静かな声を出すのはアドニス。
「闇雲に入るべきではありません。まずは少し休みましょう」
「……」
※
一秒でも惜しい状況ではあったが、僕たちはしばし休憩するように座り込んだ。それぞれ携行していた水を飲み、食料を口にする。
本来は海底だった場所なのだが、エンキの放った壮絶な術のために地面は乾いている。術式で生み出された砲塔の残骸などは消えていたが、大渓谷もかくやとばかりにえぐり返された地面はそのままだ。
遠景には水色の山波が見える。あれはこの場所の本来の主であった水だ。僕らに関わりたくないのか、十ダムミーキ以上は距離をおいて、山脈のような様相でぐるりとこの場所を囲んでいる。あの水量が一個の生物とは、理解した今でも感覚がおかしくなる思いだ。
「ヒラティアは、昔からの付き合いなんだ」
片膝を立て、誰にともなく言う。
「いつも無茶ばかりしてて、暴れん坊で、何にでも興味を持つ子供だった。付き合わされて死にかけたことは一度や二度じゃないけど、でもいつも守ってくれた。獣からも、大人のお説教からも。彼女は子供の頃から強くて、魅力的で、いつか南方の果てまで行くという、大きな夢を持ってた」
「…………」
ヴィヴィアンは僕の側にいて、膝の上に手を置いている。僕が急に立ち上がって、文字盤に駆け出すのを恐れるかのように。
「僕はいつもヒラティアに守られていたけど、でも本当は、僕がヒラティアを守りたかったんだ」
彼女に面と向かっては言えなかったこと。
今このときなら、力を得た今なら言える気がした。
「彼女を助けてあげたかった。彼女の夢のために僕が力を貸したかった。彼女を危険や悪意から守ってあげたかった。でもそれはいつも叶わなかった。だから、せめて知識を身に付けようと思った、秘術探索者として彼女の隣にいたかったから」
そう、僕は、ただ彼女を助けたかった。
なぜなら彼女は世界の中心だから。僕にとっても、世のすべての人にとっても。
「だから、僕は行こうと思う」
決然と、目の前の二人を見る。
「今なら果たせるんだ。きっとヒラティアが待ってる。暗い場所で泣いている。だから僕が助けたいんだ、そのためにずっと、生きてきたんだから」
「ハティ様……」
ヴィヴィアンは、僕にそっと抱きつくように身を寄せる。その熱い吐息が肩にかかり、彼女の体温が伝わる。
そしてヴィヴィアンは顔を上げ、アドニスの方を見やる。
「アドニス様、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「……はい、何でしょうか」
「おの、ハティ様は……」
「なんだか、すっごく勝手なこと言ってませんか?」
…………
……
「え?」
僕の目が点になる。
「そうですね、私もそう思いました。なんか雰囲気はあったので流そうかなとも思いましたが」
「えっ何、どゆこと」
「ハティ様!」
両肩を持って強引に振り向かせられる。そこには目を三角に吊り上げ、頬を膨らませたヴィヴィアンがいた。
「まず第一に! ヒラティアさんが助けてくれだなんてヒトコトでも言いましたか!?」
「えっ、いやあの、それはええと」
「というかハティ様だけ中に入って、それで帰ってこれなくなったら私はどーしたらいいんですか!? なんやかんやで私も中に入る流れですよね絶対に! アドニスさんもですよ! 一人で行かせられるわけないでしょう! だからまず私たちに同行してくれと頼むべきじゃないんですか!?」
「そうですね」
編み髪をかき上げて、アドニスが同意の声を上げる。
「それはまったくその通りです。何ですか私たちは犬のように勝手についてこいと言うのですか。一人歩きの変態です」
「う、け、けっしてそんなつもりは……」
「というかハティ様! 過去の話もいろいろおかしかったですよ! 大人のお説教からも守ったって何ですか!? ハティ様を強引につれ回してたのはヒラティアさんでしょう! とばっちりでハティ様が怒られることから守るのは当たり前です!」
「そ、それはまあ、そうなのかな」
「ハティ様! この際ですから言わせていただきます!」
「は、はい」
「ハティ様は、なぜ私がいるのにずっとヒラティアさんのことばかり見てるんですか! 宿でもずっとそうでしたよね! なぜ私の胸からは目をそらすのにヒラティアさんの胸は凝視するんですか!」
「してないよ!?」
「アドニスさんもいやらしい目で見てましたよね!」
「それはいつも感じてました」
「あどにいいいいいいいす!!」
にわかに起こったこの混乱、まだまだ混迷を深めていくことになる。
思えばこの時点で、全力で土下座しておくべきだった……。
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