誰かにとっての世界の終わり
大地は溶融している。
大気はその組成を変え、遠景は陽炎によって強烈にゆがみ、何も見通せない。
「あれだけあった水が、もう見えない……」
この世界の主であった水はどこかに散ってしまった。一滴残らず蒸発したということはないだろうが、エンキとヒラティアの戦いに干渉できずに遠ざかっているのだろうか。
遥か遠方、ふいに光の柱が立ち上がる。
「! あれは」
それは何かがものすごい速さで打ち上がった光だ。雷のように屈折を繰り返しながら飛び、エンキの正面、約100メーキの位置に突き刺さる。
「ぐ……」
エンキが呻く。降り立つのはまぎれもないヒラティア。その足元から蒸気のような白い魔力を昇らせる。
彼女は剣を失っており、よく見れば白雪鋼の鎧もロウのように溶けているが、鎧は時間を逆回しするように復元されていく。
「無機物を復元……あれは詩衒城でしょうか? ヒラティアさん、そんな高度な魔法も……」
「いや、そうじゃないよアドニス」
剣と鎧を覆う白い光、あの光の色合いは、ヒラティアの体を覆うものと同じだ。
「あれは錬武秘儀だ」
「錬武秘儀? あれは肉体にのみ作用する魔法ですよ。それに、傷を癒せるのは自然治癒を促進しているためで、無機物を復元できるわけではありません」
「正確に言うと、あれはもう錬武秘儀とも呼べない。魔力があまりにも莫大なために、まったく違う術になっている。身体強化に加えて飛行、それに傷の修復を自分の装備にまで拡大させている」
僕は樹形図を想像する。
最初に一つの根幹となる術があり、用途に合わせて細かく文化したり、あるいは発展していくことがすなわち魔法の進化というもの。
では、その進化の系図を逆に辿ることができたら。
あるいは、ある一つの魔法を深めていくと、それはごく近い魔法の特性を兼ね備えるようになり、さらに深めていけば、この世にある全ての術を兼ね備えるような万能性を有していくのでは――。
「不思議……」
ヒラティアがそう言う。小さなつぶやきが、奇妙な存在感を持って世界に響く。
「私、本当にあなたには勝てないと思ってた。山に穴を開けるほどの魔法に耐えられると思っていなかった。どれだけ速く動いても雷には追いつかれると、どれだけ剣を振っても剣を溶かすほどの熱はどうしようもないと思っていた。それが当たり前だったのに、今はその当たり前が遠い」
「……馬鹿な、この短時間で歪曲率が増している。まったく未知であるはずの光学術式に対応しただと――」
「今なら、こんなことも……」
手のひらを地面にかざす。すると地面と手を結ぶように火花が散り、地面から黒一色の柱が立ち上がる。それは紙を絞って形を作るように剣となり、握り柄と装飾が生まれる。
「黒練鋼の剣……そんな、錬成系魔法の最高峰であるはずのあれを、易々と生み出すなんて」
アドニスはそう呟くが、僕はもはや驚きとか畏怖とかの感情が遠くなっていた。今のヒラティアには不可能とか無理とかのイメージが遠い、僕たちが想像もできない事象すら実現する、そんな気がする。
それを引き出してしまったのは僕なのか。
僕がヒラティアを裏切ったから、彼女を置き去りにしたから。だから彼女はうんと手を伸ばしてこの場所に来たのか、エンキという手の届かないはずの存在に追い付いたのか。
そのエンキは、何か苦々しい決断をするように言う。
「やむを得ん、この人工空間の術式根幹を破壊してでも……」
エンキは袖を大きく捲り上げ、腹筋から声を張り上げる。
「忘れ去られし時代に生まれた娘よ! 業に満ちた人の世の黄昏よ! これに対応できるか! 零定量遇延猖獗!」
何かが生まれる。
エンキの構える正面。人一人を飲み込むほどの球体。水滴のように柔らかく揺れ動いて見えるが、その表面にエンキの姿が映り込んでいる。水銀のような鏡面作用だろうか。それが生物なのか薬品なのか、術式の生み出す事象なのか判然としない。
「あれは……なんの術でしょうか。見た目は液体を操る魔法……念遊水のようにも見えますが」
「……? ハティ様、何だか景色が……」
僕のそばで翼を展開させていたヴィヴィアンが、何かの違和感を覚えて周囲を見ている。
「何だか、少し高度が落ちているような」
それはすぐに理解できた。体が下方に移動している、目に見えて高度が下がっている。
「あの液体に吸い込まれている!? ヴィヴィアン、上昇を!」
「はい」
しかし奇妙だ、あれが何かを吸い込むような術式なら、なぜ風の流れが感じられないのか?
異変はヒラティアも感じ取ったようだ、かるく跳ねるように真後ろに飛ぶ。
「ていっ」
剣を振る。地面を衝撃波が突っ走って砂塵を上げる。そして水銀のような球体に触れると、それが音もなく消える。
弾かれたとかではない、まるで穴に飲まれたように消えた。
「あれは……」
僕たちが吸い込まれる速度が増している。ヴィヴィアンは燕のような速度で上昇しているはずだが、目算での地上までの距離が変わらない。僕は口に手を添えて叫ぶ。
「ヒラティア! それは異なる世界への穴だ! この人工空間を喰っている!」
例えるなら、世界を数列であると考える。
その一部を削り取るとどうなるか、1から10の並びの中で5と6が削り取られると何が起こるのか。
近くの数が移動して見える? そこだけ空白になる?
しかし、もしその答えが「削られたことを認識できない」だとしたら。
1から10までの数は過去から未来まで変わらず8つであり、4の次は7になる。誰もそれを不自然と思わないし、かつて5と6があったことを証明する方法は存在しない。唯一、現在進行形で食われている場合を除いて。
今はまさに世界という数列が食われている。地面との距離は音もなく縮まり、世界の広さはどんどん狭まっている。
このまま世界の全てを喰らわせる気かと思われたが、エンキはそれ以上のことをしてきた。
エンキが球体に手を触れる。彼はその球体の侵食とは無関係な位置にいられるようだ。球体の表面に波紋が生まれ、エンキが己の鏡像の中に沈んでいく。
そして鏡面体が変形する。
表面の一部が突きだし、生物じみた動きで伸長、複数の触腕となってヒラティアを襲う。
「うわっ」
ヒラティアが飛びすさる。触腕は音もなく地面に突き刺さり、離れた地面から突き出してくる。眼には見えないが、その腕の周囲でも猛烈な早さで距離が吸われているのだろう。触腕の突き刺さった地点が本体に近づくように見える。
ヒラティアの周囲に影が落ちる。数十の銀の触腕が天から降り注ぎ、落下して地を薙ぎ払い、突き刺さって食らう。
ヒラティアの黒剣が欠けている。欠けるというより中ほどから消滅している。触腕に触れたのか。
「ヒラティア! 第五層だ! 上に逃げて!」
後方を見る、遥か彼方にある点、あれは確か第五層へと通じる穴だ。
もし、あの穴が飲み込まれたら。
あるいは、上層に逃げてもどこまでも世界の侵食が追ってきたら。
ぞっとしない想像だが、今は逃げるしか手がない。
ヒラティアは、しかし僕の言葉が届かないのか、地面を飛びながら触腕を回避している。
頬を鏡像がかすめる。その瞬間にも世界が食われているはずで、上下左右の距離感は常に変化し続けているはず。だがヒラティアはあえて紙一重で避けているように見える。己の鏡像をちらりと見て、触腕に触れる寸前まで手をかざして、まるで観察するかのように。
ぱしゃ、と。
ヒラティアの足が水に触れる。彼方に遠ざかっていたはずの水に世界の侵食が追い付きつつあるのだ。水かさは足元から膝に、そして腿へと上がっていく。鏡面に飲み込まれた水のことを、果たして誰かが知覚しうるのか。
水は遠ざかろうとしている。引き潮のように鏡面の球体から離れようとしているのは確かだが、水かさは増す一方だ。逃げ切れていないのだ。
「……んー」
ヒラティアの動きが止まる。黒剣は再び失われ、よく見れば鎧も一部が削り取られている。
ヒラティアは腰を落とし、己の手を水中に突き入れるように斜め下方に、そして五指を伸ばす。
――何を。
「祇技の肆!」
まさか!
「雷雷!!」
うおん。と。
巨大な音が耳を打つ、それが風切りの音だと信じられないほどの音。尖塔ほどもある巨大な剣が振るわれる感覚。
そして鏡面を持つ触腕が千切れ飛ぶ。
数十本が飴のように切り裂かれ、宙を舞い。そして大元の球体までが袈裟懸けに両断されている。
祇技の肆、雷雷とは「斬れないものを斬る」技だ。
しかしそれは名前の通り、雷や炎などが対象だったはず。もちろんそれでも神業に違いないが、まさか原理すらまったく未知の術式を、異なる世界への穴を斬るとは。しかも手刀で――。
「ぐ……はっ」
鏡面体が霧のように消えて、ぼたりと、血のかたまりが落ちる。
エンキの肩口が切り裂かれて流血している。
異なる世界への穴という、概念的なものに包まれていたエンキすら斬ったのか。
ヒラティアが歩を進める。
その背後では水が立ち上がっている。小山のように盛り上がった水が、何かの意思を示すかのように震える。
「……ぐ、やめろ、それ以上力を使うな」
エンキが言う。がくりと片膝をつき、苦痛に目を歪めてヒラティアを見ている。
「…………」
ヒラティアは己の手に視線を落とす。
先ほど、手刀によって空間を切り裂いた手、その少女の面影をとどめる白い指、真珠色の爪、それを不思議そうに見て。
短く一言、呟く。
「……そうか」
「やめろ! それは間違っている!!」
エンキが、何か切羽詰まった様子で言葉を飛ばす。
「お前は世界を左右できるほどの人間ではないのだ! いや、そんなことは誰にも許されぬ! 世界に不可逆を与えてはならん! たとえそれを神に許されたとしてもだ!!」
ヒラティアの足元から、爆発的な量の白光が上がる。
「うわっ!?」
叫ぶのは僕たちだ。その眼に見えない威圧感のようなものが僕らを圧す。その気配はまるで山を跨ぎ越える巨人、あるいは雲を突き抜けるほど巨大な槍。
水が。
この世界の主たる水が再び遠ざかっている。鏡面の中に吸い込まれかけた時より速い。何かを恐れるように潮が引いていく。
ヒラティアの手に剣が握られている。
それは黒練鋼の剣、もはや余分な動作など必要なく、彼女が求めるときにその手に在るというかのように。
「やめろ! 何が起こるか誰にも分からぬのだぞ!! そもそもなぜ書き換える必要がある! 貴様ほどの戦士に、この世界で手に入らぬものなど無いはず! かつての研究者たちのように行き詰まってなどおらぬはずだ、なぜだ!!」
しかしヒラティアはもはや彼を見ていない。下から上に伸びる滝のような、莫大な量の白光の中で剣を大上段に構える。
「くっ」
エンキが印を組む。光が風となって彼を吹き飛ばそうとする中で、高速で詠唱を行う。
「無量の丘を彷徨え」
「戒律の夜に動点は来たらず」
「赤錆の楽園、遍在する不可知の柱」
「過去光の泥、詩人の骨、平面に蛇は散る」
「背理の階梯、城門は呪詛、数えきれぬものを押し止めよ」
そしてヒラティアが剣を振る。
それは空気を裂き、大地を裂き、
世界を、斬り裂いた。
ちなみに設定上の祇技は七つあります
泰泰
鮫鮫
翔翔
雷雷
双双
塵塵
鋒鋒
※7月18日追記
現在、諸事情により更新が遅れております、申し訳ありません
なんとか7月中に完結させる予定ですので、もうしばらくお待ち下さい。




