永劫を欲す、永劫に欲されるを欲す
そう、彼女の名はヒラティア=ロンシエラ
この名はわずか数年で北方の伝説になりつつあった。神話級の魔物をいくつも討伐し、伝説の秘術をいくつも見いだした戦士科筆頭。人類の至宝。かつての栄耀栄華を復興するための切り札。
だが、そんな彼女一撃を受けてなお、立ちはだかるのはエンキである。
その銀髪を苛立たしげに掻き上げ、鋭く言う。
「人間め、ここまで肥大した個体がいたとはな。やはり出向いてきて正解だったか」
「ひっどい、私デブじゃないよー」
ヒラティアは頬を膨らまして反駁する。どうも根本的に認識のズレがある気がする。
僕たちは少し上空に陣取って、その二人のやり取りを慎重に眺めていた。
「ヒラティアさん……駆けつけてくれたことは有り難いですが、しかし、エンキに勝てるのでしょうか」
「うん……」
客観的に見て、純粋な魔法使いであるほどヒラティアにとって有利な相手と言える。彼女には神速という武器があるからだ。
だが、エンキとの戦いを避けていたのは他ならぬ彼女自身だ。
彼女が南方遠征で見たというエンキの痕跡、そこに彼女を恐怖せしめるほどのものがあったのだろうか。彼女が何かを恐れたり、勝てないと諦めることがどうも想像できないのだけど。
そのヒラティアは黒剣でエンキを示し、何やら宣言している。
「あなたのせいなんだからね! あなたのせいでハティがなんだか急に大人になっちゃうし、ここの石ちゃんとか鎧ちゃんを壊さなきゃいけなくなるし、デパートはお休みになっちゃうし、剣だってもう三本目なんだからね、前のやつ可愛くて好きだったのに!」
あの黒練鋼の剣は三代目だったのか。ゼオールデパートの戦いでボロボロになって、おそらく第五層の戦いでも破損したのだろう、予備を持ってきていたわけだ。
エンキはそんな言葉を聞いているのかいないのか、やや怒気の込もった眼でヒラティアを睨み付ける。
「貴様、そこまで肥大した力をどうやって手に入れた」
「え?」
「鍛練や才覚だけでそこまでは行けぬ。かつての研究者どもは人の器を捨てることで力を手にした。不死性、空間の格納、異界概念の顕現、微小粒子の支配、どれ一つとっても人間には身に余る力だ、だからそれを手にした研究者は、例外なく人としての姿を失った。形象という意味でも、人格という意味でもな」
「よくわかんないよー……」
「だがそれは無数の研究の蓄積あっての進化だ。そこまでの歪曲率、何の後ろ楯もなく到達できるはずがない! 貴様は誰かの研究を手にしたのか!」
「えーっと……」
ヒラティアは少し考えて、そしてぱっと顔を明るくして言う。
「あのね、南方であなたの足跡を見たよ」
「なに……?」
「すごかったよ。山が3つか4つは入りそうな大穴とか、鎖で封印された雲に届くほどのゴーレムとか、森が砂漠にされた跡とか。世の中にはものすごーい人がいるって知ったの」
「あれを見たのか。価値のない遺跡や創造物を潰していただけのことだ」
「そう、そして思ったの、なんでこんなことをするんだろうって、でもきっと、あなたには大切な理由があったんだと思う。だから私はあなたに会いたくなかった。あなたに勝てるとも思えなかったし、あなたの考え方と衝突したくなかったの」
「……」
「でも、もうダメなの」
ヒラティアは剣を下げて、伏し目になって言う。
「もう何もかも変わり始めた。いつのまにかギルドは変質してて、魔法はあるのが当たり前になって、いつもすぐ近くにあったものまで違うものになった。それが私は悲しいの。騎士団のみんなも私についてこれない。ギルドの誰も私ほど遠くまで行けない。それに私がずっとそばにいてもいいと思った人ほど、どんどん遠ざかってしまう。ここにいてもいいと思った場所は違う場所になっていく。どうしてそのままでいてくれないの? 私のそばにいてくれないの? それはきっと私が我が儘だから、手に入れたものはすぐに興味がなくなって、手に入らないものは世界から失われていく。そして誰も対等な意味で私を欲しがらない。私はそんなどうしようもない人間なの」
「ヒラティアさんは何の話を……?」
「……」
アドニスが問いかけるが、僕には何も答えられない。
ヒラティアの言葉は、それは彼女自身の整理しきれない感情なためでもあるし、直接的な言い方を避けていたためでもあるが、なかなか明確な像を結ばなかった。しかし彼女が何かの喪失を恐れ、何かが手に入らないことを歯がゆく思っている、それだけが伝わる。
「私は見たいだけなのに。まだ見たことがないものが見たい。撫でたことのない動物を撫でたい。すごいって思えるものとか、きれいって思えるものが欲しい。何もかも欲しい。欲しくてたまらない。それが私に力を与えてくれるの。ずっとずっと前にそれに気づいて。今まで走ってきたの」
「くっ……」
それは人によっては何でもないような会話とも取れるだろう。だがエンキは強く顔をしかめる。
「探求心、あるいは独占欲、情動を歪曲率に変換しているだと……。それが事実ならば最悪だ。貴様は世界の特異点であり、この世を書き換える知性体の階だと言うのか。そう、そうだ、人の世にはごく稀に貴様のような存在が生まれる。知性で、芸術で、あるいは武力において世界の様相を一変させる。世界がある人物の以前と以後にはっきりと分かれるような存在。かの燗熟の時代が終わり400年、二度と生まれることはなかろうと思っていたが」
エンキは両手を開き、すべての指をカギ状に曲げて力を込めるように見える。
「ならば! 貴様だけはどうあってもここで殺さねばならぬ! 一個の人間が世界の総てに優先するなど認めるわけには行かぬ! 貴様などに世界を書き換えさせる訳にはゆかぬのだ!」
「あなたの言ってること、よくわかんないよー」
「ならば貴様にも分かる言葉で言ってやろう! この私の最も嫌悪する言い方でな! 貴様のような人間のことを――」
「神に愛された人間と言うのだ! 汎混合蛇行地雷!」
エンキの影が伸びる。それは三体の大蛇、厚みのない影だけの蛇がすさまじい速度で伸びてヒラティアへ迫り、そしてヒラティアの足元に至る瞬間。天に届くような爆発。
莫大な量の光と火炎が生まれて、その周囲で音の速さで白いリングが広がっていく。衝撃破が僕たちの居る高さにまで到達する時、全身がバラバラになりそうな風が襲う。
「ぐっ!」
「防壁を貼ります!」
アドニスが手をかざし、僕たち全体を包む緑の繭のような防壁が生まれる。いつぞやの亀の甲羅のような防壁とも違う。全方位的な防御を可能にする魔法だろう。
爆発は連鎖している。まるで数十の大樽に火薬を詰めて並べたような連鎖的な爆発。その爆炎が積乱雲のように立ち上り、爆炎自体をさらに全方位に押しやるような爆発。黒い蛇が無数に殺到し続ける。
その爆炎から白い影が飛び出す。
全身を白光に包んだヒラティアが火線を曳きながら飛び出してくる。剣を構え、離れた場所に着地する瞬間その影が消失する。
視線を動かす。数百メーキを一足で飛んでエンキに斬りかからんとする。この高さで俯瞰で見ていながら、その動きを一瞬見落とすほどの速さ。
「浸潤鋼装甲迷宮!」
エンキが手のひらを上にかざして突き上げる。すると地面に魔法陣のような黒い文様が生まれ、一瞬でそれが壁に成長して迷宮となる。規模にしておよそワイアームとほぼ同等。複雑怪奇な迷宮が一瞬で構築される。波紋が広がるように、壁そのものが外側に拡大しながら広がっていく。
「あれは――まさか黒錬鋼」
瞠目する。まさか、ペティナイフを一本錬成するだけで数週間を要する特殊金属。それをあれだけの量で瞬時に錬成するとは。
「祇技の陸! 塵塵!!」
ヒラティアは壁を飛び越えもしない。足も止めずに壁めがけて走り、そして黒剣の像が完全にかき消える。瞬間。ヒラティアの眼前で装甲板がなぎ散らされる。煙で作った壁のように、その重量を感じさせずに細切れに、そして砂塵レベルまで粉砕されてかき消える。
剣と同じ素材でできた壁を切り裂く。もはや技術や筋力などで説明できる事象ではない。
ヒラティアが数十枚単位で壁を突破しながらエンキへと疾走る。
「擬似基重点伴矮星!」
エンキの頭上に球体が生まれる。それは白一色の巨石。直径は約50メーキというところだが、異様な存在感がある。
それが生まれた瞬間、空中にいる僕らに不思議な違和感が生まれる。まるで下方に引っ張られるような。
「彼方へ飛べ!」
白い球体を飛ばす。その魔力的な投擲がどれほどの力を宿すのか、黒錬鋼の壁を突き破って飛ぶ。
「えーいっ!」
ヒラティアが大きく飛び跳ね、大上段に振りかぶった剣を球体の底面に降り下ろす。
ぎゃりっ
その剣が球体の表面で火花を散らす。まるで火薬が弾けるような猛烈な火花だが、球体を切断するに至らない。
「うそっ!? 斬れないよー」
「貴様ら北方人類の理解など及ぶものか! それは平均密度で水の25万倍。水銀の2万倍という高密度物質、密着した時の重力は陸上平均の10倍だ! この意味が分かるか!」
それは身体感覚となって現れた。世界が傾斜している。
後方に遠ざかるその球体と、この地面の重力が影響しあって大地が斜めに傾くような感覚。そしてヒラティアの剣が磁力を帯びたように球体に張り付き、またヒラティア自身もその球体に引き付けられ、身体を反転させて球体に「着地」する。
「こんなのっ」
「遅い!」
エンキが両手を打ち鳴らす。その周囲に形成されていた黒い壁がかき消え、無数の塔が。半球形の物体がせり出してくる。
それは砲塔。
長大な砲門を持つ無数の城壁が、大砲が、臼砲が、砲をずらりと並べた城壁が、多連装の砲を構える要塞群が出現し、数百の砲門がヒラティアへと向けられる。それは大砲の街、要塞の渓谷。
「光釉亜線砲塔峡!!」
全ての砲塔が光を放つ。
網膜を焼く光。とっさに腕で目を覆わねば視力を失ったかもしれない。かすかに盗み見れば、その光の中で大地が溶け、空気が燃え尽き、砲門それ自体も融解していく。その背後から新たな砲門が次から次へとせり上がってきて光条を放つ。
何らかの光術系魔法を放つ大砲。しかしその威力は尋常ではない。鋼鉄製の砲を瞬時に融解させる熱量だというのか。
眼下はまさに熱と光の海。太陽の表面か、あるいはそれ以上の高温か。この緑の繭によって熱は遮断できているが、そうでなければ三人とも炭化していても不思議ではないと思える。
光の奔流は地平線の果てまで伸び、遠方にあったこの世界の主、砂丘のような水の山を蒸散させている。
大気がぱりぱりとひび割れるような音がする。あの攻撃の余波が空中放電として届いているのか、世界そのものがバランスを崩し、崩壊しかねないとすら思える攻撃。
「ぼっ……防眩処理を」
アドニスが口の中で詠唱を行う。緑の繭が変質し、周囲が急に暗くなる。緑の繭が不要な光をカットしているのだ、暗く感じるのは明順応によるものだろう。
下方には一面の溶岩が広がっていた。
どろどろに溶けて赤熱する大地。エンキの近くでは光条によって地面が大きく消し飛び、そこに広範囲から溶岩が流れ込んできている。
そして直線的に伸びる砲の壁。砲門は背後から次々と出現しており、一度の射撃で完全に溶け崩れ、煮崩れた芋のように形を失う。それを背後に新たに生まれた砲門が撃ち抜く。光の筋は常におよそ百、無数の砲から連続的に射ち出されている。その光の届く先でどれほどの熱量が吹き荒れているのか、もはや想像も及ばない。
「こ、これほどの攻撃……一個の人間にやることなのか、本当に」
これではたとえ山脈だろうと、帝鳳の数倍の大きさがある怪物だろうと跡形も残らない。
ヒラティアは――
エンキ「やったか!?」




