最初の賢人、最後の魔法使い
第八章
たとえば、呪文を唱える。
陣形を描く、指で印を組む、生け贄を捧げる、魔法薬を混合する、魔法書を開く、薬品を飲んで眠る、神の像に向かって祈る、獣の体の一部を火にくべる――。
そして魔法は発現する。火や雷が生まれ、天候が変化し、この世ならぬ魔物が呼び出される。
そのような超常を目の当たりにしてなお、一部の賢人たちは疑問をいだいていた。
なぜ、このようなことが起こるのか。
魔力、神、悪魔、精霊、妖精、呪い。
そのような言葉で説明が繰り返される。
その説明のとおりに奇跡が起きる。
しかし根本的なところで、自分たちは何も分かっていないのではないか、そのような疑念が去ってくれない。
魔法とは何か。
魔法とは誰が見出したのか。
なぜ人間だけに魔法が使えるのか。そこに意味はあるのか。
それに対して、何かしらの完全なる答えを見出した人間。
そのような人物こそ、あるいは真なる賢人。
だとすれば、それを知らずに魔法を駆使する者たちは、目が見えていないも同然では――。
※
第七層に入ると急に暗くなる。次に上下の感覚の喪失。広さの感覚が失われる。この場に上や下は希薄であり、狭い広いもあまり意味を持たない。
そこは星空の世界。
全天のすべて、そして見渡す全てが星空であり、そこに二階建ての屋敷が浮かんでいた。いや、浮かぶとか落ちるという表現はあまり適切ではない。この場所には重力がない。
「ハティ様、攻撃を仕掛けましょうか」
竜の翼を生やしたヴィヴィアンがそう言う。彼女の肩に手を置き、僕は首を振る。アドニスは第六層にとどまっている。第七層が戦うに適しているなら彼女を呼ぶことも考えていたが、どうも無理そうだ。このような足場のないだだっ広い世界では、火力と早打ちで勝るであろうエンキの隙を突くことができない。
「ここで仕留めたいわけじゃない。攻撃するにしても位置を確認してからだ。中に入ろう」
力場によって飛行する翼には重力は関係ないようだ。ヴィヴィアンは音もなく夜空を飛び、屋敷の正門と思しき場所から中に入る。鍵はかかっていなかった。
先ほど不意打ちで殺されかけたというのに、僕は妙に冷静だった。竜幻装と深く通じ合うに連れ、不思議な自信が湧いてくる気がする。僕はとっさの防御のための術をヴィヴィアンにかけ、屋敷を歩く。
10部屋もないような小さな屋敷である、ほどなく見つかった。
「おや、私を追ってきたのか?」
エンキは、それは彼なりに気を使ったのか、と思わせる程の小さな驚きを見せる。読んでいたノートから視線を上げ、僕の顔をまじまじと見る。
「「骨」を退けたのか。人類も進歩したものだな」
「あなたも人間だろう」
僕の指摘に、エンキははにかむように笑う。
「確かに。しかしもはや人類と同一種とは言えないな。人の通るべきいくつかの階梯、生老病死のいくつかと無縁になった頃から、己の種というものも意識しなくなった」
「ここには何があったんだ?」
その部屋の脇には簡単な本棚。そして長テーブルの上には実験器具のようなものが山と積まれていた。ひどく雑然としていて、コップ一つ置く場所も作れないほどである。
「よくある実験室だ。ここでは蝶の羽について研究されていた」
「蝶の羽?」
「そうだ、あれはあれで奥が深い。分子レベルで組織が整列した構造によって、青の色素など持っていないのに羽が青く見える種もいる。蛇の目のような文様を持つ種、木の葉に擬態する種、よく似た別の蝶に擬態する種、このノートには実によくまとまっている。標本も見事な出来だ」
エンキがノートを閉じる。瞬間。その部屋の書き物机も書棚も、煙のように消える。
「つまりはゴミだ」
「……」
エンキは閉じたノートを床に放り投げ、僕たちに向き直る。
「この館の主は、蝶の羽のような微細構造を魔導機械で再現する研究をしていた。お前たちも五層で見ただろう。あの邸宅一軒分ほどもある機械。あれは一種の印刷機だ。織機もあるし、印章を製造する機械もあったな。魔力を注入することで動き、歯車や梃子では絶対にたどり着けない領域での極小の工作を可能にする」
「この七つの試練場は、生き残った人類に与えられた遺産のはずだ」
エンキは深くうなずく。
「それも正しい。人間の進化とは、より細かい工作を行うことだという価値観がここの主にはあった。であるから己の研究成果を封印し、いつの日か受け継ぐものが現れた時に託そうと思っていたようだな。砂漠に海、そして無数の石巨人に、森に住む魔物の群れ、あれらを退けるほどに人間が進化した頃には、自分の研究を理解できるだろうと踏んでいたのだよ」
それは。明らかに北方人類の想像とはずれた話だった。
この地は人類を育て、鍛える場所という目的で作られたわけではない。創造主は、ただ己の研究を伝えたかっただけ。
この地に人類が集まり、北方で最大の練兵学園が作られたことは一種の偶然。この試練場の主が意図したことが、少しネジ曲がった形で作用しただけ、ということか。
――だが。だからといって僕たちが感謝しないという道理があろうか。北方人類は、この土地て途方もない恩恵を受けてきたのに。
僕は頭を振る。
思えばこの会話は儀式めいていた。互いに、最後には衝突に至ることが薄々分かっている。そのために互いに剣の間合いまで歩み寄るような会話。漠然と存在する戦いの理由に、明瞭な形ときっかけを与えるための会話であった。
僕は言う。
「……だとしても、人類にとって有益なものに違いない。あなたには渡せない」
「ふむ」
エンキは考え込む仕草をしたものの、そこにあまり感情の振れ幅は見えなかった。
例えるなら子供と会話するような、植物に話しかけるような揺れのない声である。
「私は少し疑問に感じているのだ。この七層の擬似空間はそれなりによくできているが、私はもっと莫大な遺産があるものと思っていた。想像できるか、大陸における似たような研究施設には、火山が破局噴火を起こし続けている世界や、鉄元素の接合原理を書き換えて生命の核となし、独自の生態系を生み出している世界もあった。この場所はそれには及ばない」
ここよりも大規模で奇妙な世界。それはもはや僕の想像を超えていたが、エンキは僕の反応など気にせずに言う。
「歪曲率の感知がこの遺跡のことでなかったとすれば、お前たち北方人類のことを指していたのか? 北方の人間たちもそろそろ魔法が堂に入ってきたということか」
「……魔法、だって? 北方人類が魔法を復興してきたのは数十年も前だぞ」
「ふむ、お前たちは魔法とは何か分かっているのか?」
エンキは片手を開き、僕たちの前に突き出す。
すると人差し指から炎が、中指から電気の火花が、薬指から冷気の輝きが、小指からは燐光のような淡い光が生まれる。
「燃焼、電気、電磁波に電波、あるいは冷却。これらはすべて根は同じ力に過ぎぬ。これを指して魔法とは粒子の挙動を制御する力だと解いた男もいた。だがその考えを進め、人間の夢や精神に干渉したり、肉体を変化させたり、幻獣を世界に呼び込む力もまた根は一つではないか、と唱えた者もいた」
手を閉じる。
「ではつまるところ魔法とは何なのか。森羅万象のすべてを左右するこの力を、何かしらの一言で言い表せる言葉はないのか。そう考えた賢人がいたのだよ」
「……」
「そして辿り着いた、それはつまるところ「現実の上位概念」だ」
「現実の……」
「そうだ」
エンキの話す言葉は僕を通り抜け、背後に抜けていくようだった。実際のところエンキは僕など見ておらず、ただ何かのはずみで、彼自身がその概念を思い返すための一場面だったのではないか、そんな気がする。
「この世界は物質ではなく、微粒子でも電磁波でもなく、知性という形のない概念が支配しているのではないか、そう考えた者がいた。知性は乱雑であった粒子のふるまいに規則性を持たせ、粒子の塊をいくつかの種類に定義し、それらの接合する規則性を生み出した。そして知性の乗り物として無数の生物を経由した後、最後に人間という媒体に帰結した。人間など遺伝子の乗り物に過ぎぬ、とはよく言われる話だな。食欲も性欲も、人間の意思ではなく遺伝子の生み出す命令に過ぎぬと。ではそれをさらに俯瞰して考えた場合、遺伝子の挙動、進化と分化、泥から始原の生命が生まれたことすら統括する上位概念があるのではないか。そういう考え方だよ」
「それは神の概念か」
僕の言葉に、エンキは率直に驚いたようだった。こころもち視線を下げて僕を見る。いま、僕の存在に気づいたかのように。
「神か、その言葉を用いてしまうと全てが説明できてしまう。私のいう知性という概念は、人が神の分身であるという話と大差がないかも知れぬ。忌々しいことだ。いや、実にしたたかな「発明」であるというべきか」
エンキはその銀髪をかるく掻き上げ、皺の寄った顔に酷薄な笑みを貼り付ける。
「いずれにしても、潮時だな、北方人類もそろそろ数を減らしておくべきだろう」
「そんなことを許す訳にはいかない」
「許す?」
エンキはやや脱力し、腰に手を当てる。
「拒むということか? 困ったものだな。また大災厄を引き起こしたいのか?」
「それはお前が起こしたことだろう!」
大爛熟期から唯一生き残っているという魔法使い、こいつが太古の魔法使いを全て滅ぼした――。
「違うな、あれは必然。あの頃の人間はもはや個人の意志を超えて肥大していた。所詮、知性の乗り物である人間に魔法は制御しきれぬのだ。当たり前だな、知性が思うままに世界を書き換えるために人間があるのだから。つまりは世界そのものの設計ミスなのだよ。私のような例外を除いて、人は力という麻薬に抗うことができないのだ。だから私がすべてを滅ぼすのが道理ではないか。どうせ私がやらずとも。末期の研究者どもは共食いでもして滅びていただろう」
「ヴィヴィアン、構えて!」
エンキが指を鳴らす。
瞬間。その足元から波のようなものが四方八方に散り、壁面から天井から一瞬にして金属製の角が生えてくる。それらはねじれながら瞬時に成長し、ヴィヴィアンの手前で菱形の障壁にぶつかる。
竜の楯鱗。前に出したときよりも大きい、やはり術が成長している。
「ふん、手妻を弄するか」
僕はヴィヴィアンの背中にキスする。瞬時に成長する竜の翼。僕を背中で持ち上げる塩梅で部屋を飛び出す。
そのまま窓の一枚を突き破って外へ。
すると屋敷の全ての窓が割れ、そこから銀色のツバメのようなものが湧き出てくる。その翼はカミソリのように銀光を反射し、一瞬で矢のように加速する魔法生物だ。数百、いや数千はいる、銀色の雨が僕らに迫る。
「竜の瘴気、幻装!!」
ヴィヴィアンの頭を抱きとめ、顎の下へのキス。ヴィヴィアンの中にくろぐろとした気配が生まれ、僕を乗せて後退しながら喉の下をカエルのように膨らませ、次の瞬間、膨大な量の黒煙を吐き出す。
刃で構成された銀の燕がその中に突っ込む、一瞬、その全体が茶色く、あるいは白く腐食し、時間を早回しするようにその全体が崩れていく。酸か腐食液か、どちらにしても常識を超えた速度で腐食していく燕たち。やがて煙の勢いに負けて吹き散らされていく。
「ヴィヴィアン! 第六層へ!」
「はい」
ヴィヴィアンが反転して速度を上げる。僕が振り返って眼下を見れば、夜空に浮かぶ屋敷の上、屋根に立って腕を組むエンキの姿があった。
それはしかし、戦いに臨む気配ではない。
遠目にも分かるほど露骨に気だるそうな、面倒そうな気配がある。
およそ僕らを敵とも見なしていない、その老人とも壮年ともつかない男は、どうやって僕らを処理したものか考えるのも面倒だ、と言いたげである。
そうやって、この400年を生きてきたのか、エンキ。
その余裕がいつまで持つか、見極めてやる――。




