彼女と彼女と彼女の選択 下
「で、でもダメだよ、危険だし、ハティにそんなことさせられない……」
ヒラティアは胸に手を当てて顎を引き、頑なな心の殻に閉じ籠ろうとするかに見える。
「……なるべく客観的に言わせていただくなら」
アドニスが、そう前置いてから発言する。
「我々の選択が正しいとは限らない。攻撃を仕掛けることによって北方人類はエンキと敵対し、彼が指を弾く一瞬で全ての都市国家が蒸発する。そんな可能性だって無いとは言えない」
しかし、と彼女の細かな編み髪が掻き上げられる。
「エンキの力が肥大していくならば、北方の安寧がいつまでも続くとはとても思えない。そしてエンキを討つ可能性として、大爛熟期の魔法使いが遺した遺産が大きな意味を持つはず。この七つの試練場は南方でも滅多に見られないほどの未踏遺跡。その最奥にあるものを奪われるわけにはいかない」
「それは、そうかも知れないけど、でも何もないかも……」
「いいえ、エンキとその下僕は北方での魔力の高まりに呼応してやって来た。それはこの試練場の深層が開放されたことと呼応している。必ず、彼らにとっても意味のある遺産があるはず。それはエンキにとって興味なのか、あるいは驚異なのか……」
「でも……」
ヒラティアの殻に籠った様子に、アドニスがこめかみをぴくりと動かす。それはアドニス自身の気性の激しさゆえか、わずかに嗜虐的な声音になって言う。
「すでに人的被害も出ている」
何かに押されるように、ヒラティアが半歩、身を引く。
「私の兄だけではない、エンキはおそらく秘術探索者ギルドの人間を贅鋼骸に変えて操っていた。それ以外にも帝鳳を始めとして北方に現れた魔物は彼の眷属。物的被害もかなりのものになるはず、風紀騎士団はこれに見て見ぬふりをするつもりですか」
「そ、それは、でも……」
アドニスは不可思議なものを見るような目をして、口の中だけで呟く。
「それはエンキを恐れるためですか? あなたが南方で何を見たとしても、そこまで怖気づくとはとても思えませんが……」
そしてアドニスが踵を返す気配。
「行きましょう。エンキならば第六層など造作なく突破するかもしれない。時間がない」
エンキは贅鋼骸に第六層への入り口を探させていたようだ。魔力感知ができるとは言え、大雑把な位置しかわからないのかも知れない。第六層で多少は手間取るだろうが、追いかけるなら早いほうがいい。
「わかった、僕たちも……」
「ダメだよ!!」
ぎん、という音がする。
それは彼女の大剣が地面に突き立てられる音だ。彼女の赤い髪が空気を受けて膨らみ、紅潮した顔に歯がゆいような表情が浮かんでいる。
「行っちゃダメ! 私と一緒に帰って! 乱暴なことなんかしたくないの! お願い!!」
「……」
僕は一歩だけ歩み出て、彼女を刺激せぬように、静かに口を引き結ぶ。
声を柔らかくするように意識して、猫にそうするように静かに手を差し出す。
「ヒラティア、僕は君にも来てほしいんだ」
握手を求めるように、何かを手渡すように自然に手を開く。
「君だけじゃない、四層にいる騎士団メンバーたちもみんな協力してほしい。僕たちと一緒に来てくれ、エンキを討つんだ」
「……ハティ」
ヒラティアはその美しい、少女時代の面影を色濃く残す瞳で僕らを見る。僕を、ヴィヴィアンを、アドニスを。
そして。
「……、だ、だめだよ、行けないよ……」
――なぜ。
なぜなんだ、ヒラティア。
本来ならば逆のはずなんだ。
君が僕たちを引っ張って戦いに赴いているはずなんだ。
君は誰よりも強く、畏れを知らず、常に先陣に立ち、弱き人々を導くべき存在なのに。
そのヒラティアの手が、そっと伸ばされる。
「ハティ、こっちに来て……」
それはおよそ生涯でも聞いたことがなく、この一瞬の他には二度とは聞かぬであろう。それほどにか弱い声だった。雨に打たれる猫のような目、風に吹かれる綿毛のような震え。
「一緒に帰ろうよ……、秘術探索者になりたいなら、私がそうしてあげる。私と一緒に南方に行けば、それだけで立派な秘術探索者だよ。学園に入れなくても、私が南方に連れていくから、私と一緒に旅をしようよ。私を手伝って、私もハティを守るから、ハティのその術を私に使ってもいいから。どんなことでも、受け入れるから……」
……
「ヒラティア……」
僕は腰のベルトに挿していた愛雷鞭をさっと取り出す。
瞬間、僕が抵抗の意思を見せるかと思ったのか、ヒラティアが身をこわばらせるが、僕は鞭をその辺の地面に放り投げる。こんなものは必要ない。
ヒラティアがほっと安堵し、僕は数歩、彼女の方へ近づく。
眼の前に来ると、僕のほうが僅かに背が高い。彼女のほうが高かった気がするが、それは足場のちょっとした段差のためか、僕が威勢を張るように背筋を伸ばしていたためか。
「ごめん、ヒラティア、君に悲しい思いをさせて」
僕はそっと彼女を抱きしめる。ヒラティアは眼に涙をたたえて抱擁を返す。
僕は彼女の腰を首元を抱き、その耳にそっと囁く。
「本当にごめん」
ヒラティアは目を見開いている。自分に何が起こったのか一瞬で察し、それが到底理解できないという目。
「ハティ、どうして」
彼女のうなじの部分。そこに顔料によって文様が刻まれている。
愛雷鞭に描かれていたのと同じ文様。僕はそれを文字と同様に読むことができる、もちろん手の平に書くことも可能だ。魔力枯渇体質である僕には文様は意味を持たないが、ヒラティアは違う。
ヒラティアの全身が石のようにこわばり、背骨に鉄芯を通されたように剛直する。
「あっ……!」
彼術者の魔力によって効果が増大する聖癒痕の術式、風紀騎士団の一般メンバーならば悶絶して身動きがとれないほど。これがヒラティアならどれほどになるか。
しかしヒラティアの反応が僕たちの前に晒されることはなかった。アドニスが素早く駆け寄り、ヒラティアの頭を抱える。
「ア、アドニス、やめっ……」
「錬武秘儀を使っている時のあなたはまさに完全無欠、私の術など意識するまでもなく跳ね返すでしょう。しかし愛雷鞭の術式は彼術者の魔力をかき乱す。あなたでもマトモに魔法は行使できないはず。大丈夫、眠るだけです。深い眠りを――」
その顔をお両手で抑え、術をかける。それでもヒラティアは顔を歪めて数秒の抵抗を見せたが、やがてそのまぶたが落ち、全身から力が抜けていく。
崩れ落ちる一瞬、それは彼女の肉体的な抵抗のためか、閉じた目から涙の筋がつたう。それが僕の心にずきりと痛みをもたらす。
アドニスは彼女を横たえると、その体にさらにいくつかの術式をかける。ヒラティアの姿は半透明になり、やがて地面の中に溶けるように消えた。
「隠形の魔法です。この階層にまだモンスターがいる可能性もありますからね。昏睡の魔法は強めにかけていますが、ヒラティアさんならもって一日でしょう」
アドニスは誰にともなくそう言って、ズボンの裾をはたきながら立ち上がる。
「行きましょうか」
「ああ」
アドニスは言いつつ、僕の手の平をちらりと見る。
特に訪ねはしなかったが、僕が手の平の文様をいつ用意したか、それに疑問をいだいたのだろう。顔見知りとは言え、ヒラティアに不意打ちをなし得たことに驚いたのかも知れない。
僕がいつこの文様を描いたのか。
それはこの階層に来てからかも知れないし、三層でヒラティアを見つけたときかも知れない。
あるいはもっとずっと前からかも知れない。もう思い出したくもない。
僕はその場を歩き去るとき、一度だけ背後を振り返ったが、
そこにはやはり、誰の姿も見えなかった。
※
人類にとって未踏の地、第六層
そこは氷原の世界だった。どこまでも大地が白く染まっている。
「ここへきて氷原ですか。気温もせいぜい氷点下5度程度。環境としてそこまで過酷とは思えませんが……」
アドニスは言い、身体を手で覆うと毛皮の上着が出現する。黒いテンのような獣の毛皮のコート。どことなく上品なデザインなのは彼女らしい部分だ。
「すごいですね、そういうものは魔法で生み出せるのですか?」
「ただの収納魔法です。あらかじめ仕込んでおいたものを出してるだけですよ」
僕の巨大なザックは三層の石巨人の中で無くしてしまったが、アドニスは僕たちの方に手を向けて魔法をかける。
「保温の魔法です。防寒着の予備がありませんので」
「うわあ、身体が温まってきました」
そうは言ったものの、ヴィヴィアンは内股になって足をすり合わせている。魔法といっても無いよりはマシという程度だ、この環境で長時間は活動できないかも知れない。
「魔法で火を出すこともできますが……」
「うん……この後すぐに戦いになる可能性がある、少しだけここで休もう」
あるいは、エンキが戻ってきたところをここで待ち構えることにしてもいい。
ヴィヴィアンはそうと口にはしないが、竜幻装の余波が残っているはずだ。第三層、四層と戦ってきて休息する暇がなかった。一刻の猶予もない状況ではあるが、不完全な状態でエンキに挑むわけにはいかない。
アドニスは氷を魔法で切り出し、ドーム状の空間を作る。
「わあ、氷の家ですね、こんなの初めて見ました」
僕も本でしか見たことがない。北方でもさらに辺境の方、冬に大雪が積もる地方で見られる家だ。
しかし直方体に切り出された氷は大人の体重ほどもある。それを精妙な念動力で積み上げていくのはさすがはアドニスというべきか。
内部にて焚き火をすると、熱の逃げ場が少ないためにすぐに暖かくなってくる。
アドニスはさらにいくつかのものを出す。牛肉をドロドロになるまで煮詰めたスープを瓶詰めしたもの、薬草を加えた緑色のクッキーなどだ。
「残り少ない保存食ですが……道中、食用になる魔物もたくさんいましたし、帰り道のことは心配いらないでしょう」
「ありがとう、いただくよ」
「私も少し休息が必要です。魔法力を回復させねば」
膝を寝かせる座り方で、アドニスはふうと息をつく。
「アドニス、付き合ってくれてありがとう」
「構いません。エンキは兄の敵でもありますし、彼の討伐はアイレウス家の、あるいはワイアームの魔術課筆頭としての責務でもあります」
戻ればお尋ね者かも知れない僕たちだが、アドニスはやや自嘲気味にそう言う。
「気を使わずとも、これはあくまで私の意思であり、私だけの旅です。あなたは関係ありません」
「え、そうなのですか?」
ヴィヴィアンがぽつんと言う。アドニスは少し言葉尻が良くなかったかと、すぐさま訂正する。
「ああ、失礼、言葉がよくありませんでした。もちろんあなたたちは大事な仲間と思っています。そうではなくて、この旅には私なりに参加する理由があるということで……」
「いえ、そうではなくて」
ヴィヴィアンはきょとんとして言う。
「アドニス様は、ハティ様のことが好きだから同行しているのだと思っていました」
…………
……
「…………は?」
僕とアドニスは、口をあんぐりと開けた表情で固まる。
「いやいやいやいや」
そして僕はぶんぶんと手を振る。
「ないない、それはない」
「ええ!? そんなことありませんよ。みんなハティ様が好きだから応援しているんですよ」
「いやそんなわけないから。彼女はアイレウス家のお嬢様だし、僕よりずっと優秀だし魔術課筆頭だし」
「ハティ様だってすごく優秀な方です」
「だいたいアドニスが僕を好きになるわけないから。彼女はもっと何というか、たくましくて男前で、財力とかもある人が似合ってて」
「男性の魅力は様々です。ハティ様にはハティ様の魅力があります。アドニス様ほどの方ならちゃんとそれを分かっているはずです」
「あ、あのねヴィヴィアン、君はどう思ってるかわからないけど、僕は別にそんな大した男じゃ……」
と、アドニスの反応がないのに気づき、僕はおずおずとそちらを振り向く。きっと呆れ果てた氷のような目をしているだろう。
彼女を見れば、それは何と言えばいいのか、自分で自分の表情が決めかねるような困惑の顔だった、僕をぽつねんと見つめている。
言葉を思い出すような沈黙。
そして彼女の顔が次第に平静に戻ると、ある瞬間、ふいに口の端だけで笑う。
「そうですね、そうかも知れません」
「は!?」
「思えばどこかの予備校で、模試の時に出会ったのが最初でしたね。最初はただのガリ勉かと思っていましたが、何度も何度も模試で負けるうち、敗北感と同時に、あなたを尊敬する気持ちが育っていったのかも知れません。それに、いつぞやのキスの約定を果たしてもらう時、嫌いな相手にされる、というのも悲しいものですからね。賭けの相手を好きになるに越したことはないでしょう」
アドニスはいったい何が面白いのか、頬を歪ませて大きな笑顔を見せる。
「あなたは自分で思うより素敵な方ですよ。自己評価は高く持つべきです」
「そうでしょう、もっと自信を持たれて下さい、ハティ様」
「何が何だかぜんぜん分かんないんだけど!?」
そしてわずかの休息を、僕はあまり休まらずに過ごしたのだった。
小説家になろう内企画、「夏のホラー2019」に参加予定です、投稿しましたらそちらもよろしくお願いします




