彼女と彼女と彼女の選択 上
僕らは地面に降りる。液状化しているように見えたが、そこは砂地のようになっていた。あらゆるものが砂礫レベルに砕かれているのだ。
ヴィヴィアンの肩を抱くような体勢だったが、彼女の体が熱を持っているのに気づき、声をかける。
「大丈夫?」
「いえ、術の余波です。ハティ様の術が……だんだん、その、力強くなっているので」
確かに、使用を重ねるごとに術のイメージが鮮明になっていく。キスすべき場所は針の先ほどのピンポイントで察知でき、ヴィヴィアンの変化も迅速になっていく。何度も使っている竜の爪なども威力が上がっている気がする。これは術を我が物にするという事だろうか。
「ハティーーーっ!!」
と、僕の背後から抱きつく影。
「心配したんだよっ! この4日ずーーっと探してて、三層の石ちゃんも、万が一ハティたちを巻き込んだらどうしようって、すごーく慎重に」
石ちゃん、とはあの建物に足が生えたような石巨人のことだろうか、彼女らしいネーミングである。
「って、ヒラティア、服着てないじゃないか」
「そーだよー、あの技って服を脱いでやるって言ったよー、着てたらボロボロになっちゃうし」
「ちょっと待ってて」
と、僕は周囲を見回す。ヒラティアから離れ、近くの倉庫らしき建物へ、壁に飾ってあったタペストリを持って戻ってくる。
「ほら、とりあえずこれを巻いて。裸で人に抱きついちゃダメだろ」
「――え、うん」
ヒラティアはその赤いタペストリを巻き付け、しばらくぽつねんと僕を見た後。
急に、タペストリに鼻まで埋めて顔を背ける。
「そのあたりに服を着た彫像もあったはずだ、一緒に着れるものを探そう」
「い、いや、いいよ、私、自分で探してくるからっ」
と、すごい速さで駆けていき、建物の一つに飛び込む。
「……? どうかしたのかな?」
アドニスにそう問いかけると、彼女は一度真横に視線を投げた後、あきれたように言う。
「昔の悪馴染みだと思って声をかけたら、立派な商売人になってて慇懃な挨拶を返された、みたいな話ですね。男子三日会わざれば刮目して見よ、と言いますが、そんなに急に幼馴染の関係を捨てられるのも気の毒というものです」
「? え、なに、何の話?」
「別に何も、それより、これからどうします。予定通り刻名魔印の機械を破壊しますか? おそらく先ほどの攻撃で被害を受けてると思いますが」
僕は首を振る、事態はもはやそんな次元ではない。
「エンキを追って第六層に行く。彼を放置してはおけない」
「そうですね、私も行きましょう」
一瞬だけ。
アドニスはちらりと、ほんの一瞬だけ横に視線を投げる。
それは大地の底、竜の足跡によって遥か地の底に封印された彼女の兄を想う視線だろう。
誇り高い彼女はなかなか自らの心情を表さないが、彼女がこの旅に同行した最大の動機、それが彼女の兄であったことは間違いない。
全てを失って失踪し、その果てに人間としての形象も、魂の尊厳すら失ってエンキに隷属してしまった人物。
それは僕が踏み込むにはあまりに重く、計り知れない領域の話だろう。僕はただ彼女の静かな決意、炎のように激しい情動を、氷のような己の殻に封じ込める。僕はただ敬服するだけ。そんな圧縮された時間を感じる一瞬であった。
「ヴィヴィアンさん、術の連続で少し疲れたでしょう? 回復の印を描いてあげましょう」
「はい、ありがとうございます」
アドニスは彼女の後ろに回り、腰のポーチから小箱を取りだし、その中に詰めていた顔料を小指の先に塗る。
「じっとしていて下さいね、体力回復の聖癒痕です」
「ん……ちょ、ちょっとくすぐったいです、うっ、ふ」
ヴィヴィアンは口元を手で押さえる。アドニスはさらさらと描き進める。
「……? おかしいですね、すぐに効果が出るはず」
「あ、うっ、で、でも体がぽかぽかしてきました、こ、これが術の効果です、かっ?」
「いえ、それは単にくすぐったさで体が熱くなっただけ……印が冷光を放つはずですが……描き間違えてないはず……」
「も、もう済みましたか?」
ヴィヴィアンは答えを待たず、アドニスから逃れるように前に歩く。肩を激しく上下させて息をついている。
「も、もう大丈夫です、疲れてませんので。さあハティ様、次の階層に向かいましょう」
「え、うん、それはいいけどヴィヴィアン、今のは……」
「ダメだよ」
僕らは振り返る。そこには前と同じような白い服の上に、雪花鋼の鎧を身に付けたヒラティアがいる。剣を背中に背負い、どことなく慎重な様子で話す。
「第六層は私も何があるのか知らないの。危険すぎるよ、私と一緒に地上まで帰ろうよ」
「ヒラティア、そうはいかないんだ、実は……」
僕はエンキについて手短に話す。
彼が大爛熟期から存在する魔法使いであること、ワイアームに現れていた魔物は彼の支配下にあり、彼が魔法使いたちの遺跡や遺物を調査しているらしいこと。
「この七つの試練場は人類の財産だ、彼に奪われるわけにはいかない」
「……そう、だとしても、大爛熟期の魔法使いじゃ私たちの手には負えないよ。私たちの目的は第五層までの破壊、それはもう終わったし……」
ヒラティアの言葉は、彼女にはありえないほどに歯切れが悪い。僕たちを説得しようと、さらに言葉を重ねる。
「それに……この遺跡の大事なものがその人に奪われても、それはそれでいいじゃない。それでたぶん、モンスターも出なくなるよ。あげちゃえばいいんだよ」
「ヒラティアさん、あなたの言葉とも思えません。あなたは南方に、未知なるものに憧れていたと聞いてます。この試練場の下層こそがまさに未知であり神秘ではないですか、それを」
僕は腕を横に出し、アドニスの言葉を遮る。
ここは、僕が言うべきなのだろう。
思えば僕はいつも言葉が足りない。口下手がトラブルを引き寄せているし、沈黙のために誰の助けにもなれない。
何か大事なことに気付いたならば、発言すべきなのに、他者の人生に関わっていくべきなのに。
僕にはもう、おおよそのことが分かっている。その悲しい言葉を、ヒラティアに言わせてはいけないことも、分かるんだ。
「分かってるよ、ヒラティア」
僕の言葉に、ヒラティアはぎくりと身を竦めるかに見える。
「ギルドは、知ってるんだね、エンキの存在を」
「!」
アドニスが、はっと瞠目する気配がする。
そうだ、それならば説明できる。
ヒラティアがなぜ試練場の破壊に同意したのか、僕たちを帰らせようとするのか。なぜエンキに興味を示さないのか。
「……。そ、存在はずっと噂されてて、か、確実にいると分かったのは、ほんの二年前なの」
重々しく、ヒラティアは語る。
「まだギルドでも一部しか知らないの。南方の奥地、大陸全体では真ん中にも届いてないけど、そこにごく近年、誰かに荒らされた遺跡があったの。私たちが知らない、とっても高位な魔法が使われた形跡も……」
エンキの口ぶりからすると、彼が大陸北端まで来ることはほとんど無かったようだ。彼の活動圏が大陸の中央から南よりだとすれば、北方人類が南に探索の手を伸ばすにつれ、エンキの痕跡を見つける機会が生まれた、ということか。
「私は、秘術探索者として分かるの。あれは特別。人間なんてまったく意に介してない、とてつもない怪物なの。絶対に誰も勝てない、あれはもう、神様と言い切ってもいい存在なの」
「…………」
確かに。
魔導師級を従える、あるいは新たに生み出す。これだけで人類の全てを滅ぼせるほどの力だ。そして彼自身の操る魔法は、そのような超絶のモンスターをも遥かに凌駕する、そんな可能性は十分にある。
「でも、あれは私たちを滅ぼそうとはしていないの、だから私たちが何もしなければ、このまま帰るはず」
ヒラティアはそれでいいの?
それは何という残酷な質問か、僕はその問いかけを胸のうちに押さえ、違う言葉を放つ。
「エンキはそこまで超然とした存在ではないと思う」
断定的に言う。わずかな会話からの印象であるが、僕にはそんな直感がある。
「今後、人類が南方に進出していけば、彼の利害関係と衝突することもあるだろう。それは百年後かも知れないし、明日のことかも知れない。彼にとって自分以外の人間とか、生命の尊厳というものは極めて軽い。彼にはおよそ人の世界の倫理観というものが無い。事実、彼は大爛熟期の魔法使いたちを滅ぼした。神というよりエゴイズムの権化、この世の全てを支配する魔王だ、放置はできない」
「そ、そのために、私たちは術を集めてるの。南方に遠征して、遺跡に潜って、いつか彼に対抗できる力を持つために」
僕は、僕に術を授けた男を思い出す。
そう、名は確かガトラウト、彼もまた南方より術を持ち帰っていた。そしてモンスターの増加を憂いていた。
あるいは彼も、何かしらの危機感を覚え、それに対抗する手段として術を集めていたのだろうか。
だが、それでいずれ人類がエンキに対抗できるまで成長するだろうか。400年以上を生き、いまだに大陸中を闊歩しているエンキよりも早く成長できるとでも……。
僕は頭を振る。
「やはりダメだ、僕たちはエンキと戦うべきだ。今なら彼は僕たちの陣地の真っ只中にいると言える。彼を討つ最大のチャンスと言えるはずだ。それにいくら太古の魔法使いでも、この世に不死身はありえない。僕たちの火力なら彼を倒せる可能性はあるはず」
「だ、ダメだよ、ハティ」
ヒラティアは、僕の言葉に動揺を隠さない。あるいは僕がそんなことを言い出すとは想像もしていなかった、そんな風にも見える。
「ハティはそんな危ないことしなくていいの。そ、それは私たちの仕事だよ。風紀騎士団の団長として、ここは退くべきだと判断するよ。そう、この場は私の指示に従ってもらうよ、それが当然の……」
「ヒラティア様」
ずい、と前に出る人物がある。
褐色の肌に薄紫の髪、ヴィヴィアンである。ゆらりと前に出て、ヒラティアから隠すように僕の前に立つ。
「ハティ様は戦おうとしているのです。男子の戦いの決意を、他人が妨げることは非礼だと考えます」
「た、他人じゃないよ。私とハティはずっと一緒にいたし、互いに何でも知ってるし、これからだってずっと一緒にいるよ」
「いいえ、あなたとハティ様はもはや違う道を歩いている。あなたに役割があるように、ハティ様にも自らの役割がある。竜幻装の力を受け継ぎ、広い知識を学んだハティ様だからこその判断があるのです。ハティ様がここで戦うべきと判断したなら、そうさせるべきです」
「そ、そんなことないよ、私だって南方で、その魔法使いの爪痕はたくさん見たよ。それにハティのことは誰より知ってるもの、戦いなんて向かない、優しい人だって……」
「ヒラティア様」
再び名を呼ぶ。しかし、二度目のそれはかなり力を込めた声音だった。北方最強であるヴィヴィアンが、びくりと身を竦ませる。
「あなたがハティ様を大事だと言うなら、あのとき、なぜ側にいてあげなかったのです?」
「あの時……?」
「ハティ様が、練兵学園の受験に落ちた、あの日です」
あの日。
それは確か、路地裏で竜幻装を受け継ぎ、ヴィヴィアンと出会った日。
「あの時、ハティ様は街の外れにいました。外壁に拳を打ち付け、心の底からの叫びをあげていた。その時にヒラティア様はどこにいましたか?」
「そ、その日は確か、ギルドの依頼で、モンスターの討伐があって……」
「だから、ハティ様よりそちらを優先したのですね? ハティ様が悲しがっていたのに。この世に絶望しかけていたのに」
ぎゅっと、ヴィヴィアンが僕を抱き締める。
「進む道が違うのです、かつては互いに互いを大事に思い、固く手を結んだ絆があったかも知れない」
熱く、己の全てを僕に委ねるように、しっかりと抱擁してくる。僕はあえてそれに逆らわない。この抱擁もまた、ヴィヴィアンの決意だと分かるから。
「ですが、ハティ様の手は、無限には無いのです……」
なぜ、いつまでも子供のままでいられないのか。
何にでもなれそうで、どこへでも行けそうだった子供の時代は、なぜ永遠には続かないのか。
誰もがいずれ大人になり、進むべき道を選択する。
僕も、彼女たちも。
そして、集合体としての人類も、いつかは……




