愛の船と乙女らは言い
第六章
※
いつの頃からだろうか、魔法使いが世界の中心となったのは。
彼らは火を操り、風を操り、強大な魔物を討ち滅ぼす。かの大爛熟期の大魔導師たちには及ばずとも、魔法を使えぬ物たちから見れば雲上の存在、まばゆき至高の座に思える。
なぜ僕に魔法が使えないのか、そう考えたことは夜の数より多い。
運命のいたずらか、神の気まぐれか、あるいは誰かがおためごかしに言うように、僕に魔法が使えぬことにも、何かしらの意味があると言うのだろうか。
僕は思う、この悩みは弱者の悩みなのだ。
僕が自分なりの役割を見いだし、人の世に根付いたならば思い悩むこともなくなるだろう。この悩みはひとえに、僕が秘術探索者にしがみついているための苦悩。愚か者の懊悩に過ぎないのだ。
僕は社会の底で、穴蔵のような勉強部屋でふと思う。
では、彼らはそれを悩まないのだろうか?
魔法が使えることを、魔法がこの世にあることを、魔法使いが世界の中心であることを。
そして魔法がこの世にあることに、何かの意味があるのだろうか、ということを……。
※
船は波間を進む。
第二層、砂漠の下は海だった。
いや正確には湖だろうか、それとも水槽だろうか。喫水線の下を埋めるものはすべて淡水である。
風もなく波もなく、鏡面のような海。魔法力により進む船の航跡だけが遥か遠くまで広がってゆく。
僕は寝床を起き出して食堂スペースに向かう。もう航海も三日目である。夜中はアドニスの使い魔が周囲を見張るため、睡眠が交代制でないのが救いだ。とはいえ何度かは叩き起こされて、モンスターを排除しているが。
この船はおよそ10人乗り、富豪が小旅行にでも繰り出しそうな流麗な船である。内装も豪華で、厨房は『花と太陽』亭のそれより設備が整っている。
アドニスが厨房にて朝食を作っていた。上下とも下着姿だ。
「おっ……、起きましたか」
その雪のような白い肌を覆うレースの下着。おそろしく編み目が細かく、特殊な素材が使われているのか真珠様の輝きがある。金具は金である。そのスレンダーながらもすらりと伸びた姿態によく調和しており、完全性という言葉を感じさせる。
「も、もうすぐ朝食です、座っていなさい」
アドニスは頬を赤くして、言葉を詰まらせながら言う。こころもち腰が引けており、内股になった足が所在なげに擦り合わされる。
「わ、わかったよ」
「ハティ様、おはようございます!」
背中から抱きつかれる。
「おわうえおごわなっ!?」
言葉にできない感触により形容しがたい声が出る。反射的に逃れようと前に向かうのを後ろにぐいと引かれ、背後のヴィヴィアンと密着する形になる。
「うわあ、いい匂いですね。上等なソーセージですね」
それは朝食へと向けられた発言だった。アドニスは顔を赤くしたまま何かを言いかけるも、ついと唇を尖らせてそっぽを向く。
「さ、さあ食事ですよ」
背後のヴィヴィアンからは肌の質感しか感じない。体温が丸のまま伝わって頭が沸き立ちそうになる。彼女は例の、修正線のような細い下着だけなのだろう。
僕はさすがに下着一枚というのは無理があるというか物理的に不可能というか身動きできないとかそんな感じなので茶のズボンという姿だが、上半身は裸であった。
なぜこんなことになったのか、話は二日ほどさかのぼる。
※
第二層に降り立つと、アドニスは石造りの門を呼び出す。しかし。
「ダメですね、第二層の跳躍門は呼び出せましたが、汎用の呪文では励起しません。関係者だけが知らされている合言葉が必要なのでしょう」
そう言って、木造の浮き島の表面を踏み鳴らす。巨大なイカダのような構造物だが、この水域には波も海流もないため、安定性は高いようだ。
入り口である穴の真下に造られた浮き島、そこにいくつかの船が係留されていた。第二層を探索する者のための用意だろう。
「跳べないとなると、どうしようか?」
「ここにある船を拝借しましょう。聞き及ぶ話によれば、第三層の入り口までは数日かかるとか。飛んでいくのは無理でしょう」
「でも、後から追っ手が来たら……」
「この跳躍門も破壊しておきます」
「……」
アドニスの言葉に、僕は少し後ろめたい気分になる。
門を破壊するのは薄々分かっていたことだ。これではまるで彼女に言わせるための質問ではないか。アドニスだけが勝手にどんどん決断しているような構図になってしまう。僕たち三人は同罪なのに。
「僕がやるよ」
周辺には船の他にもいろいろな施設やら道具やらが散在している。僕は何に使うものなのか分からないが、火かき棒の親玉のようなものを持ってきて、ふらつきながらもそれで門を一撃したのだった。
※
「竜の爪、幻装!」
ヴィヴィアンの左手に竜の爪がそびえ、五条の光刃が怪鳥を斬り裂く。
「だいぶ魔物が増えてきましたね」
甲板の上、ヴィヴィアンがふうと息をつく。周囲は海……海と呼称するのが適切かどうか分からないが、ともかく広大無辺の水域が広がっている。
船脚は軽く、水切りの音は軽快である。
魔法力による操船というのを初めて見たけど、見た目はおそろしく簡単だ。竜骨に添って魔法式が埋め込まれており、魔力を込めると船尾の回転翼が回り、二時間ほど前進し続ける。船体は平べったく、船底は金属板で補強されている頑丈な船だが、実に滑らかな疾走である。
「動力が魔法ですからね、本来は巨大なマストが必要になる重い船ですが、魔法での操船に合わせて最適化されてるようです」
とはアドニスの言葉だ。舵は人力の舵輪であるが、特に横風もないので手を置いておく必要もない。
「4ダムミーキ(3.99キロ)先に次の目標が見えました、少し面舵を切ってください」
「うん」
がらがらと舵輪を回す。
第三層の入り口をどうやって探すのか、それはアドニスがアイデアを持っていた。
「ご存じですか、鳥の羽は非常に軽い。一枚の羽の中央を通る肢軸を切断すると、その断面は蜂の巣のような多孔構造になっています」
浮き島にて、そのように言う。
「それはまあ、知識としては知ってるけど」
「あれを見てください」
アドニスが示す先、かなり遠いが、水面に揺れる影のようなものが見える。
よく見ればそれは鳥の羽だ、しかしスケール感がおかしい、かなり遠くにあるはずなのに、視界の中では普通の羽に見えて遠近感が狂ってくる。
「あれは、もしかして帝鳳の羽」
「そうです、あれほどの大きさ、自然に抜ける羽でもかなり目立つ痕跡になると思っていました」
「なるほど……帝鳳が魔法力を関知してここに来たとすれば、下層への入り口も探せる理屈だね、僕らはその痕跡を追えばいいと」
僕たちは羽を追って船を進める。なんだかロマンチックな表現だか、その羽の巨体さを見ると、幻想的というより、誰かのホラ話に迷い混んだような感覚がある。何しろ帆船のマストより大きい、百年を生きた杉の木ぐらいあるだろうか。大きすぎて形容が難しい。
羽根は数十ダムミーキの間隔を空けて、ほぼ直線的に落ちていた。それ以外にも粉々に粉砕された鳥類系モンスターの死体などもある。帝鳳に襲いかかって返り討ちにあったのだろうか。翼長8ダムミーキに至る帝鳳が、果たしてそのモンスターを意識したのか謎だけど。
僕たちもまた大変だった。甲板に躍り上がってくる巨大なイカ、馬上槍のような角を持つ水棲哺乳類、数十本の触腕を伸ばしてくるヤドカリのような怪物、そして猛禽たち。
素朴な疑問だが、陸地がまったく無いのに鳥系モンスターはどこで休んでいるのだろう? それともこの空間では魔物は無から生まれるのだろうか。
それはさておき、僕たちは二時間と置かずに魔物の襲撃を受け続けた。アドニスになるべく操船に専念してもらうため、僕とヴィヴィアンで迎え撃つ。竜の爪で船体を破壊しないように慎重に、かつ一撃必殺で。
「遅いですね」
しかし、そんな僕たちの戦いに対して、アドニスの評価は辛辣だった。二日目の夕方のことである。
「操船しながら何度か甲板に上がりましたが、平均して敵の襲来から術の行使までが遅すぎる。何をしているか知りませんが、ヴィヴィアンの左手に術を付与して攻撃、これだけの動作になぜ毎回十秒近くもかかるのです」
「う、ひ、左手だけじゃないよ、翼を生やして上空から水面を攻撃するパターンも」
「その場合はさらに遅い」
「ううっ」
楕円形のテーブルにて、肩身を狭くする僕に、さっとヴィヴィアンが寄り添う。
「ご容赦ください。ハティ様は女性にまったく免疫がないのです。私の肌に触れるだけで真っ赤になって、術を付与するために全身全霊で決意を固める必要があるのです」
「毎回ためらうあたりが学習のない変態です」
「そ、そう言われても……」
アドニスはふうと息をつき、組んだ両手をテーブルの上にどんと置く。
「他者を媒体とする術は他にもあります。男女ペアの秘術探索者も多い。彼らにあるのは信頼感です。互いに相手を信頼し、彼術者は術に身を委ねる。詰まるところ、あなたとヴィヴィアンはまだ他人行儀なのです」
「そ、そうかもしれない」
「当然分かっているとは思いますが、これは命がけの旅です。恥ずかしがっている場合ですか?」
「うう……」
「というか貴方、受験に三度落ちてるならけっこういい年でしょう、都会なら結婚してる人だって珍しくありませんよ。肌を見たぐらいで真っ赤になって動きが遅れるとかどういう了見ですか、気だけは若い変態ですか」
「あうう」
正論の槍がぐさぐさと突き刺さる。実のところ、竜幻装に他にどんな術があるかも探さねばならないのに、まったく進んでいない、時間はあるというのに。
しかし新しい術を探すというのは、つまりそれはいろんなところにキスをするということでああああ。
「ハティ様、私の村にこのような教えがあります」
ふいにヴィヴィアンが言う。
「百人と夜を過ごす者は体しか知らず、一人と百の夜を過ごす者は体と心を知る、という教えです」
アドニスが頷く。
「言わんとすることは分かります。夫婦の間柄にも言えることですね」
「ハティ様、これから互いのことを話しましょう、互いに深く知り合うことで照れが無くなっていくはずです」
「そ、そうだね、ヴィヴィアンの村のこととか、過去の術者とかも知りたかったし」
「そして、私はなるべく肌を見せて過ごすことにします。それが日常となれば、心を乱されることも無くなるはずです」
「そうかなあ……」
思わず突っ込みが出てしまった。これは僕だからそう思うというわけでなく、ヴィヴィアンの体にまったく動じない人間なんて存在すると思えない。いや本当に。
「頑張りましょう、せっかくアドニスさんも協力を申し出てくれているのですから」
「勿論です、第三層までに少しはマシになってもらわねば……」
アドニスはそこまで言って、数秒だけ固まる。
「……ん?」
「さっそく脱いできますね! さあ、アドニスさんも!」
アドニスはヴィヴィアンを見て目を白黒させる。
そのアドニスの背後には、さっき漏らした「勿論です」という言葉が腕を組んで仁王立ちしていた。
※
「この水の下には何があるんでしょうか?」
舷側から真下を覗きこんでヴィヴィアンが呟く。
「分からないなあ、透明度は高いけど、底が見通せない、そもそも底なんか無いのかも知れないし」
大爛熟期の魔法使いたちの思考を推測するのは愚行と言われる。彼らの思考は決して読めず、理解し得ない。なまじ理解したつもりになることは非常に危険なことである。それは半ば、太古の魔法使いを神聖視する思想でもあるけど。
「建物が見えます、水面に作られた浮き島のようです」
アドニスが言う。彼女は船首に立って遠眼鏡を覗いていた。
「あれが第三層への入り口でしょう」
高貴なるアドニスならでは、というべきか、丸一日ほどで下着姿にも慣れてきたようだ。僕はまだ少しかかりそうなのに。
「というかこれって慣れていいのかなと言うか、反応しなくなるってそれ大丈夫なのかなと言うか。冷静に考えたら僕は脱ぐ必要ないんじゃないかなと言うか」
「何をブツブツ言ってるのですか?」
あまり考えすぎても仕方ない、僕は思考を切り替えてアドニスに質問する。
「第三層か、どんなところか知ってる?」
「私は入学したばかりですからね、試練場に入ったこともありません。ただ、アウレリア家の事業の関係で聞いた噂では、歩き続ける世界だとか」
「歩き続ける世界?」
「それより、重要なことがあります。なぜか理由が分かりませんが……」
アドニスは手で右耳を覆うような仕草をする。目を閉じて深く集中し、己の心臓の音に耳を傾けるような仕草だ。
「浮き島の上に跳躍門が出現しています。入り口側を破壊していますから、機能は停止しているはずですが」
「どういうこと?」
「跳躍門とは一往復を担保する魔法です。行って帰るまでが一通りの術式、つまり誰かが跳躍門を通り抜けて、まだ門を収納していないということです」
「つまり、誰かが三層以下に入っている、ということでは……」




