紋板にて悶絶す
「ハティ様、お待たせしました」
僕らがサウナを出て十数分。ゆっくり温まってから出てきたのか、ヴィヴィアンは全身からほかほかと湯気を上げ、ウェーブのかかった髪がさらに湿気でボリューミーになっている。寝間着はデパートで買ってきたばかりの薄桃色のものだ。胸元のボタンが大変なことになってるけど、言うとアドニスに殴られそうだ。
「ところで……結局あの術は何だったんでしょう? 何も感じなかったのですが」
ヴィヴィアンが小首をかしげてそう言い。僕は汗を搾り取られたのと、気苦労で多少げっそりした顔で言う。
「ああ、うん、あの術ね……もう使わないようにしよう……」
「? はい、ハティ様がそう言われるなら」
「えへへ、いいお湯だったよー」
ヒラティアも現れる。そうして四人が食堂に集まって来たところで、場をまとめるようにアドニスが発言する。
「さて、ではハティさん、今日はヴィヴィアンと一緒に休んで下さい」
「え?」
アドニスの言葉に、ヒラティアがはてと首をかしげる。
「でも順番だと私だよー、おとといの夜はヴィヴィで、昨日はアドニスだったし」
「無理をしないで下さい、あなたは先ほどまで街に現れた魔物を討伐していたのでしょう? もし真夜中に襲われたら、反応が遅れる可能性があります」
「平気だよー、南方への遠征だと一週間ぐらい眠れないことだって」
「いや、ゆっくり休んでてくれ、僕なら大丈夫だから」
僕がさっと手を上げ、ヴィヴィアンの腕を引く。
「じゃあ申し訳ないけどヴィヴィアン、一緒にいてくれ」
「はい、分かりました」
ヴィヴィアンの方は特に何も疑問に思うでもなく、腕を引かれるままに僕に従う。
「じゃあヒラティア、おやすみ」
「う、うん、おやすみ」
僕は後ろめたい気持ちを必死で抑え、ヒラティアの方を振り返らぬように部屋に入った。
そして扉の向こうの気配を確認して、傍らのヴィヴィアンを振り向く。そして顔を近づけて言う。
「ヴィヴィアン、聞いてくれ、明日の早朝……」
※
ヒラティアは殺気や異変には敏感だが、それ以外のことでは誰が何をしようと起きない。僕たちは静かに荷造りをし、ひそかに宿屋を出て、ひっそりと未明の街を歩き、朝ぼらけの中で学園の門をくぐった。
「あれが「七つの試練場」の入り口です」
そこは、もともとは赤煉瓦で作られた箱型の建物だったのだろう。屋根が突き破られたために完全に倒壊している。内部から爆発したかのように広範囲に煉瓦が散らばっていて、片付けるのが実に面倒臭そうだ。
その正面に見張りと思しき風紀騎士団のメンバーが居る。手足が細くて子供のように背が低い、栗色のショートヘアの少女。街中でアイスでも食べてそうな風貌で、とても騎士団メンバーには見えない、地面に突き立ててるのが4メーキ(3.99メートル)に迫る巨大な斧槍でなければ。
風紀騎士団のメンバーは学生であり、かつギルドに所属する秘術探索者から選ばれる。その装備に規定はなく、めいめいが探索に向かう時の装備そのままを身に着けている。
ただ一点、右腕を赤いリボンで飾るのが決まり事だ。
「姿を見られたくはないですね」
アドニスが言う。いつもの乗馬ズボンに、この時はあまり厚みのない背負い袋を担いでいた。七つの試練場の内部は広大であり、中で何日も過ごすことを考慮しての装備だろう。
「それはそうと、あなたはその大荷物で行く気ですか?」
アドニスが少し半眼になって言う。僕の背負った樽のような背負い袋を指して言ってるのだろう。
「だ、ダンジョンに潜る準備ってどんなものか分からなくて……。とりあえず食料と、水と、あとロープとか蝋燭とか毛布とか」
「魔法使いは魔法で安全な空間を作れます。毛布など不要です。いえ、量はともかく、それではすばやく動けないでしょう」
「わ、わかったよ。第一層に入ったら適当な場所に置いとくから」
「何か武器は持ってきたのですか?」
「ええと……」
僕は背負い袋を下ろし、中をごそごそと漁る。考えてみたらこんな感じに取り出してたらとっさの時に間に合わないな。ベルトの通し穴を使って腰に挿しておこうかな。
「これなんだけど……」
デパートで買った(まだ料金払ってないけど)品である。先端に四角い板状の部分がある鞭、いわゆる乗馬用ムチだ。先端には模様を描いて顔料が埋め込まれている。
「鞭ですか」
「聖癒痕の模様が顔料で埋め込まれてるんだよ、補助としてなら使えるかなって」
「聖癒痕の……それは武器ではないのでは? 確か……」
アドニスはそう言いかけて。
ふいに頬を赤く染めて腕を振るう。すぱあんという軽い衝撃。彼女の鞭で盛大にしばかれた。
「ほぶっ」
「あ、あなた何を考えてるのですか!! 驚天動地の変態です!!」
「おやめください、ハティ様がかわいそうです」
と、ヴィヴィアンがとっさに間に入ってくれる。ちなみに彼女の旅装はいつもの赤い帯のような民族衣装にマントを羽織った姿。旅の装備などはマントに縫い付けられた袋に入っており、とっさの場面ではマントを脱いで身軽になれるようだ。
アドニスはというと自分の乗馬鞭を握ってわなわな震えている。その顔は芯から真っ赤であり、火でも吹きそうに見える。
「状況がわかっているのですか! これから魔物の巣へ入らなければいけないのですよ!!」
「いやでも、僕に本格的な武器はとても……。これなら回復魔法の代わりになるし」
「だ、だからそれは武器ではなくて……」
「そこ、誰かいるんですか?」
と、僕らのいる物陰に少女がやってくる。30メーキ(29.9メートル)は離れていたはずなのに、さすがは騎士団のメンバーだ。
「うっ……見つかった」
「落ち着きなさい。建物をぐるりと回り込んで、相手の注意を引いてください、術で眠らせます」
アドニスが素早く言う。僕らがいるのは「七つの試練場」に付随する倉庫のような建物であり、走れば10秒で一周できる。僕は足音が近づくのと逆方向に回り込み、アドニスとヴィヴィアンが残る。
「おやっ、魔術科のアドニス=アウレリアさんですねえ、おはよーございます」
「おはようございます、ディー教授の指示で伺いました。昨日、ここに落ちた魔物の件で」
「あー、すいませーん、ギルドからお達しが来てるんですよお、なんにも答えちゃいけないって、私もなーんにも知りませんしい」
建物を回り込みつつ、どうやって気を引こうかと考える。話しかけるだけじゃアドニスから意識をそらせるか微妙だし、羽交い締めしても秒で振りほどかれそうだし。
しょうがない、この鞭で叩いて敵だと思ってもらおう。攻撃されそうだけどアドニスが治してくれるだろう。
そして建物を回り込んで角へ。その子はハーフパンツを履き、膝から下を脚甲で覆うという姿だったので、そのいわゆる絶対領域に、慎重に振りかぶって。
ぺちっ
「あいたっ。えっ何ですか?」
なんという情けない音。ハエが殺せるかも微妙だ。
騎士団の子が気付かなかったのは、僕にあまりにも殺気とか気迫というものが出てなかったからだろう。
腿の裏側を叩かれた少女はあまりの微少な攻撃に、それが攻撃だったのかも分からずキョトンとしている。
そして変化は一瞬で起こる。
「あうっ!?」
打たれた右の腿を押さえ、一度思い切り内股になって両足が痙攣し、そして足の骨が無くなったかのようにその場に崩れる。
「んんっ、んあああっ、な、何こ、これ痺れ、あぅ、んーーーっ!!」
背泳ぎするように仰向けで地面をのたうち、歯をくいしばって悶絶している。彼女の巨大な斧槍がどしんと大木のように倒れる。短く早い呼吸、言葉にならない声が漏れる。
「ああふっ、あうっ、あはっく……あっあっ、ひっ、ううーーっ」
「……な、何この反応」
「その鞭で叩くとは……本当に知らなかったのですね、その鞭の先端をよく見なさい」
「えっ?」
地面で小魚のように痙攣している子は、腿に複雑な模様が残されている、この鞭に埋め込まれた顔料によるものだが、なぜこんな反応に。
「あれ、これ聖癒痕だけど、紋様がアレンジされてる。血行促進、血管蠕動?」
腿に刻まれたのは迷路のような模様、勉強したので文字と同じように読める。鞭に描いてる図形は左右反転してたので気づかなかった。
「足を折り畳んで座っていると、足が痺れることがあるでしょう? あれは滞っていた血行が回復する際に、無数の血管や神経が刺激されて痺れるのです。その鞭は一時的に血管を蠕動させ、周辺の神経を過敏にさせて痺れを生み出せるのです」
聖癒痕とは紋様を体に描くことで、自然回復を促進させたり、痛みを解消したりできる術だ。術の作用には彼術者の魔力が使われるため、魔力枯渇体質でも模様を描くだけなら可能だ。
それをアレンジした効果のようだが、何だか物凄いことになっている。確かに足がしびれると身動き取れないけど……。
「ああっ、くっ、うう、た、助け、あひっ」
その子は足に触れることもできず、両手で地面をかきむしり、腰を浮かせて横倒しのまま踊るように動く。唾液と鼻水が流れててひどい顔だ、普通にかわいそうになってきた。
「暴れないように両腕も打ってください、すぐ眠らせますから」
「う、うん」
「あっあっ、や、やめ、あひ、あううっ」
ぱしん ぱしん
「あ゛う゛ーーーっ!!」
その子は一際大きく声をあげ、しかし運動機能が働かなくなってるために身動きできず、声も出せずに顎をこわばらせて剛直する。
そこにアドニスがさっとかぶさり、顔に手を置いて数秒。
手を離すと。そこにはもう穏やかな寝顔だけが残っていた。口元が唾液でびしょびしょだし、まだ手足はピクピク動いていたけど。
「ものすごい効果だけど……これ武器じゃないの? ちょっとした毒より効きそう」
「この方が風紀騎士団のメンバーだからです。聖癒痕の効果は魔力に依存します。高位の術者ほど大きな効果になるのです。しかし聖癒痕はモンスターには使えませんよ、魔力は人間しか持っていないのですから」
「なるほど……」
アドニスは煉瓦の建物の方へ歩く、僕とヴィヴィアンも後を追った。
「あのう、ハティ様」
「ん、何?」
「その鞭、叩かれた部分が強烈に痺れるのは分かりましたが、それはそもそも何に使うものなのですか?」
「…………」
さすがに、あの効果を見れば僕にも何となく分かる。世の中には鞭でしばかれたり、蝋燭のロウを垂らされることに快感を覚える人種がいるらしいから、そのたぐいの品だろう。
それをヴィヴィアンに説明するのは無理だったけど。
※
穴は本当に地面にぽっかりと空いている。ほぼ真円に近く、現在では外周部を縁石で囲われている。プールサイドのような鉄製のハシゴが下がっており、それを降りること十数段。
全身に感じる熱気、真夏の日差し。
「うわあ……」
ヴィヴィアンが感嘆の声をあげる。
そこは砂漠。
全周すべて砂の海、粒子の細かい砂が海となり砂丘となり広がっている。真上に空いた穴からは、崩れた建物の壁と空が見えている。穴の内側と外側で空の色が違うのは、何だか不思議な感覚だ。
「ハティ様、ここは地下ではないのですか?」
「いや、一種の異空間だよ。魔術で作られた人工的な空間だ」
現代においても人工的な空間を創造する魔法はある。しかし高レベルの魔法使いでも、ちょっと歩き回れるほどの倉庫を創造するぐらいが関の山だ。この砂漠はいまだに正確な広さも分かっていない。現代の魔法使いとは術の規模が桁違いである。
「一説には、大爛熟期の魔法使いたちは、自らが創造した新しい世界に去ったのではないか、と言われています。時間や天体すら操ったと言われる最上位の魔法使いたち、彼らはもはや人間を隔絶しており、いかに強大なモンスターといえど殺されるはずがない、と主張する方もいますね」
アドニスは独り言のようにそう言って、地面に向かって呪文を唱える。すると、地面からアーチ型の門が飛び出してくる。
「わっすごい、地面から門が生えてきました」
「第二層への入り口はここから800ダムミーキ(799.9キロ)先です。この跳躍門で行きます」
これは元からこの空間にあったものではなく、階層を走破してきた秘術探索者たちの手によるものだ。
僕たちは門をくぐる。
目の前には池のような、やはり真円を描いた空間がある。下には水が見えている。第二層から下はギルドによって情報が規制されているが、ヒラティアがちらほらと言っていた話からすると、水に関係する場所のはずだ。
そこで、背後でびしりとひび割れる音。
「え?」
見れば、石の門は全体にヒビが入り、がらがらと崩れるところだ。
「部分的に熱をかけて割りました。これで向こうからは追ってこれません」
「で、でもそれじゃ、帰れない」
「帰りは魔法で飛んでいきますから大丈夫です。今は先に進むことを考えてください」
「う、うん」
何だろう、アドニスが協力的なのは望ましいことなのだろうが、危うい印象はずっと続いている。
それは彼女の兄のため? あるいはモンスターの増加を憂いて? どうもそれだけでは説明できない気がする。
そう、それはアドニスが言っていたことだ。
誰かが何かのために行動するには、動機がいる。
成そうとすることが大きく、障害となることが大きいほど、それを乗り越えるための、強烈な動機が……。




