蜘蛛の皇女と竜の爪
「――」
僕は頭が真っ白になる。
顔と手足を硬直させることだけに全部の筋肉が使われ、言葉どころか息も吐けない。
ヒラティアは討伐ミッションの帰りだったのだろう。わずかに泥で汚れた鎧を着て、水で清めた形跡のある大剣を背負っている。白地に赤い炎の文様が描かれた白雪鋼の鎧は、庭付きの屋敷とほぼ同じ価値があるという。
「そ、その、覗くつもりはなかったの。ごめんね、ハティが細い路地の方に駆け込んでくのが見えたから、それでちょっとね、後をつけたわけじゃないの。その、ええと、ごめんなさい、せっかく恋人、と、会ってたのにね」
壮絶な誤解が生まれようとしている。
「ち、ちが……これは、その……」
だが僕は混乱の中ですぐに言葉が出てこず、それ以前に脳の言語野がボロボロで、取り繕うような言葉が口の中で浮かんでは消えていくだけだった。それはあろうことか、何かをごまかすような焦りの姿に見えたかも知れない。
「そ、その……ハティが受験勉強終わったから、これで一緒に食堂手伝えるね、とか、ゆっくり旅行でも行けるね、とか、そ、そんなこと思ってたのに、ば、バカみたいだね私。ハティのこと何にも知らなかったんだね、き、キスまでする仲の人なんだね。やだ私、何てこと言ってるんだろうね、あははは、ははは、さ、さよならっ!」
ヒラティアは踵を返し、路地の細い通路にあちこちに体をぶつけて、そのぶつかった部分を轟音とともにえぐり取りながら走り去る。
…………。
……。
もう涙も出ない。
心はカサカサに乾いてワラのようだ。
よし、旅に出よう。
きれいさっぱり消えてしまおう。
隊商の一員になって街から街へと旅をしようか。
数多くの未踏秘術が眠るという南方へ行くのもいい。
いっそのこと、貨物船に密航して別の大陸まで行ってみようか。
もうどーーーでもいいやチクショウ。
なんだよみんなしてバカにしやがって。
どうせ僕はワイアーム練兵学園にも受からないチビでガリでおまけにホモ扱いだよコノヤロウ。
消えてやる消え失せてやる。
どこだっていい、どうせ、どこに行ったって、今日よりも不幸な日などぜった
しゃああああああ
そんな威嚇のような声が背後に上がる。
「今度は何だよっ!!」
怒りを込めて振り返ると、そこは路地の突き当たり、左右に窓もない建物の壁がそそり立ち、その奥側にはワイアームを包む環状の外壁、そしてはるか頭上に夕映えの空が見えていて、
そこに、女性の半身を持つ蜘蛛がいた。
上半身は女性の裸体、下半身は巨大な蜘蛛。
それは空中に立っていた。いや、その黒い脚の一つ一つが騎士の槍のように固く鋭く、それを土壁に突き立てて体を支えているのだ。
半裸の女性はよく見ればかなり異形に近い姿をしていた。目はオレンジに近いものが8つ。瞳孔も何もない琥珀が嵌めこまれたような目だが、そのすべてが僕を見据えていることが直感で分かる。
豊満な胸とくびれた胴を持ち、下腹部から下が墨を塗ったように真っ黒になり、蜘蛛の黒脚を放射状に生やしている。
女皇蜘蛛。深山幽谷に住まうモンスター。その八本の黒脚を自在に操って樹から樹へと跳躍し、槍のように鋭い黒脚で獲物を仕留める森の狩人。
そんな知識が漠然と浮かぶ。本来は森から出てくることのない種族であり、ましてや街の外壁を乗り越えて入ってくるなど、聞いたこともない。
だが現実に、このモンスターは目の前にいる。
そしてこのモンスターは、仮に討伐隊を組むなら完全武装の騎士が百人は必要と言われる。
僕は顔中からどっと汗をかき、そろりと後ろに下がろうとする。
僕が一歩下がった時、蜘蛛の姫君はがしゃがしゃと脚を動かして壁から降りてきた。
「う、うわあああああああっ!!」
その異様な動きに、人外の異形に、僕の最後の理性すら消し飛んでしまった。僕は大声を出し、背中を向け、真っ直ぐに逃げる、という猛獣に対してやってはいけない三ヶ条をすべて破りつつ逃げる。
ひゅおっ
空を切り、僕の耳の脇を黒い筋がかすめる。
それは僕の耳をわずかに切り裂き、乾いた土壁に1メーキ(0.99メートル)近くもめり込む。まるで紙に針を突き立てるかのように僅かな音しかしない。それはまさに悪魔の槍。おそらく僕の肉や骨にも、何の抵抗もなくスッと突き立つほどの鋭さがある。
僕は狂気に落ちる寸前で走る。蜘蛛は八本の足を駆使し、細い路地にもまったく停滞せず迫っている。それが殺意のこもった気配となって背後に感じる。
僕は何かを叫んだかもしれないが、荒い息に紛れて自分でも聞き取れない。無音の殺意がその濃さを増す。
涙で歪む視界の先に、人影が見えた。黒いマントで鐘のように上半身を包んでいる。
「に――逃げて!!」
僕が叫ぶ、だがその人物は黒いマントから両腕を出し、それを広げて僕の前に立ちふさがった。
僕は勢い余ってその人物にぶつかる。ウェーブのかかった薄紫の髪が顔にかかり、柔らかな感触が体に伝わる。
「なっ」
「選ばれし御方――。さあ、その力をお示しください。我が左手に口付けを。幻想を現実に、神秘を真実に、伝承を未来に――」
僕は何が起こっているのか分からず、とにかく前に行こうとするが、その僕の前に褐色の左手が差し出される。細く長く、真珠色の爪を備えた美しい指。それが僕の唇の前に出される。
その手に口付けを、という艶めいた声が耳に届き、その美しい髪と、ほのかな女性の香りに包まれ、僕はほんの一瞬だけ現実を忘れた。そうだ、どうせ死ぬのなら、この手に口付けを残して逝きたい――。
明確にそう考えるほどの時間があったわけではない、だが僕は反射的にその爪に口づけをしていた。わずかに湿るかのような木目細かな肌。鼻の先をかすめる南洋の香り。
その瞬間、僕の頭の中に閃光がひらめく。
それはまさに電光のような衝撃。
頭の内側から光が膨れ上がって世界中に拡散していくような。
空一面の雨雲を一気に吹き飛ばすかのような鮮烈な感覚。
それが言葉のイメージとなって脳の中に焦点を結び、すべての思考を押しのけて、舌の奥からただ一つの言葉がほとばしる。
「――竜の爪 幻装!!」
褐色の肌と薄紫の髪を持つ女性、その女性の左手が虹色の輝きに包まれ、一瞬の後、そこには鋼のような銀色の爪が生まれる。湾曲した剣のような巨大な爪、よく見れば手首から先が緑色の小手のようなもので覆われており、それは蜥蜴のような爬虫類の皮膚にも見えた。その先端には銀色の爪とも武器ともつかぬ鋭利な刃が五本、女性はそれを大きく振りかぶり、迫り来る女皇蜘蛛へと振り下ろす。
瞬間、爪の先端に爆発的な衝撃波が発生、それは一瞬で十メーキ(9.99メートル)近い光の直刃となり、五筋の光の波が平行に疾って女皇蜘蛛の体を煙のように切り裂き、瓦礫をまき散らして路地の土壁や石畳を爆散させながら一瞬で街の外壁まで到達、その煉瓦の壁を五ヶ所同時に切り裂いてそこで力が散乱する。体が吹き飛びそうになる爆圧、おそらく壁の外側にはその数倍の衝撃が炸裂し、散乱し、瓦礫を広範囲にばら撒いただろう。
僕の髪と服を礫片の混ざった風がはためかせる。光が網膜を焼く。
あとに残るのは道幅が三倍になった路地と、五つの直線で大きくえぐられた地面、中身がむき出しになっている倉庫や粉挽き小屋、そして櫛のように切り裂かれた街の外壁のみだった。幸運にも左右の建物は人の住んでいる住居ではなかったようだ。女皇蜘蛛の死骸は、原型も残らないほどコナゴナに吹き飛ばされたらしい。
「――こ、これって……」
尻餅をつきながら、僕は呆然として呟く。
「竜幻装です。選ばれし御方」