斑髪の君、学都歴程を想う
な、なんて危険な術なんだ。しかもヴィヴィアンはずっとヒラティアを見ている。自分の意志で女体から目をそらせないことの恐ろしさが分かるだろうか。あああやめて泡を流さないでえええええ。
「話を聞きなさい。いいですか、これは北方において重要な課題なのです。ここ10年ほど頻発している魔物の来襲、竜幻装に魔物が引き付けられるという事象と原理は同じのような気がするのです」
「な、なるほど、そうだね」
僕はなんとか二重映しになる視界の中でアドニスを見る。そ、そうだ、アドニスの側に焦点を合わせればいいんだ。彼女の話に集中しよう。
「ヴィヴィアンの話によれば、彼女の村に現れていた魔物はもっとずっと弱かったそうですね」
「う、うん、そう聞いてる」
「これは主観ですが……おそらく現れる魔物の強さは、その場所にある魔力の総和が影響するのではないでしょうか。この地において人類は「七つの試練場」を踏破し、階層を深めるごとに希少な、そして強力な古代の遺物を手に入れてきました。そしてワイアームが成長するごとに、各地から優秀な人材が集まっている。それに比例して、年々魔物の強さが上がっているのではないか、と思えるのです」
確かに、竜幻装の術者が魔物を引き寄せるとはヴィヴィアンも言っていたことだ。その性質はこの術だけではなく、あらゆる魔法に共通して存在するもの、そういう仮定か。
「でも、なんで魔物の「強さ」が上がるんだろう? 魔物が魔力に引き寄せられるなら、魔物の「数」が増えるんじゃないかな」
「そうですね、生物界の強さというのは錐体構造です。肉食動物の個体数は、草食動物よりずっと少ない。魔物が北方に来るまでに、互いに潰し合いをするので強い個体が残る……という仮設はどうでしょうか」
「なるほど、それはありそうな……」
二重写しになった視界の中で、ヒラティアの唇が動く。
――ヴィヴィ、髪洗ってあげるね。
え?
――じっとしててねー、ほらこれ、スミレの香りがするシャンプーだよー、ヴィヴィの髪の色に合ってるよー。
ヴィヴィアンの視界が横にスライドする。椅子の上で身体を回したのだ。ヒラティアはヴィヴィアンの正面に立ち、シャンプーの容器から薄紫色の液体を出してヴィヴィアンにぐっと近づき前かがみになって。
「!? やばい!」
「? そうです。このまま七つの試練場が掘り下げられれば、この地が所有する……表面化する、とでも表現すべきでしょうか、そのような魔法的存在の総量がさらに増えることに」
ずどおん。
そんな擬音が聞こえてきそうな見事な果実。眼の前で火薬が弾けるような視覚的衝撃。ヴィヴィアンほどではないにしろ、ヒラティアのそれも平均値を大きく上回っている。間近で迫ってくると迫力がすごい。というかヴィヴィアンはなんで目を閉じないのっ!?
ヒラティアが前かがみになって頭が高い位置にあるために、ヴィヴィアンの視線からは顎から股下までの地形図を一望できる構えになる。そしてわしゃわしゃ、とおそらくは髪を洗っている気配がして目の前でそれが揺れまくってあああああああ。
し、集中だ、アドニスの話に集中するんだ。
「あ、あの、そ、それで、僕は受験であまり世の中のニュースは知らなかったんだけど、こ、この街にモンスターが出ることが増えてるとかっ」
「秘術探索者ギルドには秘密主義的な部分があります。魔物の体素材を売買している組織ですからね。市場を操作するために、本来は公表されるべき魔物の討伐情報が秘匿されてる可能性があります。ヒラティアさんの風紀騎士団にはそのような性格はないようですが」
ばるんばるんと縦揺れが
「じ、実際にはどのぐらい現れてるんだろう」
「ワイアームも広い街ですから、周辺まで含めるととても把握できません。ギルドに所属してる秘術探索者だけで千人を越えていますし、討伐情報を統括して管理しているのはギルドだけで……」
ゆっさゆさりと横揺れが
うだあああああああ集中できるわけあるかあああというか目を閉じろよおおおおおっっ!!
「!」
う
あ、ダメだ、いけない、意思ではどうにもならないことが。
「どうしました? まさかもうのぼせた訳ではないでしょう? まだ室温は温いぐらいですよ」
言ってアドニスは目の前の芬蒸羊に水を飲ませる。羊はうまそうにがぶがぶと飲み干すと、モコモコの体毛から露出してる顔が真っ赤に染まり、そして全身から蒸気を吹き上げる。室温が上昇し、僕が流すのは冷や汗か脂汗か普通の汗なのかもう分からない。
! この羊を見てると、もう一つの映像が見えない!
そうか、絵に白い光を当てると見えなくなる理屈だ。白いものを直視していれば、もう一つの視界をごまかせるんだ。
し、しかしこの羊に近づくことはできない。石焼き式サウナでいう熱源と同じだ。毛皮の周辺の温度は100度に迫っている。しかし離れてると羊で隠しきれない。なんか中央だけが白くなってその周囲からいろいろはみ出してる感じが逆にきわどくてああああああ!!
「ほんとにどうしたのですか? 何か腰のタオルも乱れて……」
! そうだ!
「アドニス! ごめんっ!!」
僕はやおら平台の上に乗り、膝立ちの姿勢になって、アドニスの腹に顔面を埋めるように抱きつく。
「うわっ!? ちょっ、何をしてるのですか! 抱きつき魔な変態ですか!!」
「ご、ごめん!! 何も聞かずに!! 少しだけこのままにさせて!!」
僕は目を見開き、アドニスの身体に巻かれた白いタオルを凝視する。よしこれならヴィヴィアンの視界は見えない。アドニスに殴られる可能性もあるが、今の僕の状態を知られたらどのみち同じことだ、もちろん半分ヤケクソの行為である。白いものが命より大事な瞬間があるとは。
「……な、何なのですか一体? ん、あなた……」
抱きついたはずみで腰に巻いていたタオルが落ちる。しかし今さら離れられない。僕は必死にアドニスにしがみつく。
むしろ殴られることを期待してもいた。意識を失えばこの場を逃れられる。
だが何故か、何も起きない。
顔全体にサウナで熱されたアドニスの体温が伝わる。呼吸によって上下する横隔膜が感じられる。しばらくの沈黙。
そのアドニスの白い、繊細そうな手が、僕の後頭部にそっと添えられる。
「……恥ずかしがらなくてもよいのです。無理からぬ事です。無理にサウナに誘った私が悪いのですから気にされないでください。そんな下手なごまかし方をしなくてもよろしいのに、浅ましい変態です」
「? い、いや、とにかく少しだけこのままに……」
「私に抱きつきたいならそう言えばいいのです。そのままで宜しいですから、話を聞きなさい」
話……そういえばアドニスは結局、何の話をしようとしてるんだろう。北方にモンスターが現れるとかどうとか言ってたけど。
「私は、あなたとヴィヴィアンが、刻名魔印の機械を壊しても良いと考えています」
「えっ……」
がばり、と顔を上げる。下から見上げると驚くほど鼻梁が高い。一部の隙もないほど完成された顔立ちに、わずかな愁いが見える。
「むしろ、第五層から下を封印すべきとも考えています。モンスターが増加している理由について、時間をかけて調査するべきなのです。しかし七つの試練場は、今は巨大な利権の塊、黄金で満たされた竜の巣穴なのです。管理権限を握っている秘術探索者ギルドが賛成しないでしょう。あそこに忍び込み、階層同士の境目を封印する。それができるのは優れた個人だけです。私と貴方ならば、第五層の入り口まで行けるかも知れません」
「でも、第五層には、貴重な魔法の品もたくさんあるはず……人類の財産が」
「私達は、この大陸について何も知らない」
ふいに、そんな事を言う。
「なぜモンスターが生まれるのか、大爛熟期の終わりに何が起きたのか、そもそも魔法とは何なのか。何も知らないのです。それなのに古代の魔法は次々と発掘されている。自分たちの力が御しきれていない。これは大災厄が起きた頃と同じです。私達は、力というものを一度見直すべきなのです」
「で、でも、なんで急にそんな事。反対してたはずなのに」
「……」
アドニスは、一度きつく唇を噛む。直後に分かったことだが、それは、重要なことを言わずにやり過ごすことはできない、という覚悟の仕草だった。その流麗な唇を開き、ゆっくりと言う。
「ゼオールデパートに現れた、贅鋼骸を覚えていますね?」
「うん」
「あれは、私の兄です」
「なっ……!」
絶句する。
あれがアドニスの兄? まさか、贅鋼骸は大爛熟期に生み出された魔法生物のはず。
「直感としか言いようがありませんし、何かの勘違いという可能性は十分にあります。しかし私にはあれが兄に見えた。その背格好、仕草、顔立ち……笑わないで下さい、本当なのです。あの時、あの骨だけの手で私の首を絞めた時に、あの顔が兄上に見えたのです」
アドニスはそこから、自分と兄の間に起こったことを話し始める。己の家を守るために、兄を罠にかけて放逐したこと。兄は失意のあまり、南方へ疾走してしまったこと。デパートの試着室の中で聞いた内容だが、僕に向けての話だったため、経済や司法について少し詳しく語っていた。僕は黙ってそれを聞く。
そして、アドニスの兄は失意のために南方へ失踪した、というくだりで終わる。
南方へ……。
「何か、嫌な予感がするのです」
アドニスは言う。
「この大陸において、何か決定的な転機が訪れようとしている。だから私はその変化に楔を打つべきと考える。そこへ、あのヴィヴィアンが現れたのです」
「彼女が……」
「そうです。いいですか、例えば、植物を操る術者ならば、きっと森に住むでしょう」
「……?」
「水を生み出す術者ならば、砂漠を探検したり、あるいは砂漠を森に変えようとするでしょう。術には意志があるのです。その術が世界に生まれたことには意味があり、その術の使い手となったことにより、世界において何らかの役割を得るのです」
アドニスの語りは熱を帯びている。何かしら重要なことの核心に踏み込むような、世界のこれからについて託宣を述べる者のような気迫がある。
「こう考えるのです。魔法には意思がある、どこへ行き、何をなすべきか、魔法にまかせるのです。あなたの術はこの北方にもたらされた「新しいもの」です。それが世界にどのような意味を与えるかを見極めるのです。見通すのです」
魔法には、意思がある。
――こうして世界は竜の贈り物で満たされたが、最後に残った竜はふと疑問を抱いた。
――こんなに多くのものを贈っては、人はだめになってしまうのではないかと。
――そして最後の竜は、最後に「自分自身」を人に与えた。
――これが竜の終焉であった。
ドラゴニア神話。
なぜだろう、その神話のことを思い出す。あれはヴィヴィアンの村に伝わっていた、何の変哲もない昔話のはず。仮にあの神話に意味があるとして、いったいどんな意味が――。
見上げる視界にはアドニスしか見えない。
いつの間にか、竜の視座の効果は切れていた。
「七つの試練場へ行きましょう」
アドニスの言葉に僕は身を起こし、アドニスの目を見る。
「分かったよ、でも今は街が混乱して」
そう言いかけて、はたと思い至る。
「いや、早いほうが良い。今なら試練場には誰もいない、夜明け前に出よう」
「そうです。入り口は風紀騎士団が見張っているはずですが、私が何とかします」
そのアドニスの決意に、何かしら危ういものを感じなかったわけじゃない。考えてみれば、モンスターの増加について憂うなどということを彼女が言ったことはない。取ってつけたような理由、という印象もある。
でも今は、彼女の提案を受け入れるべきだと思った。
魔法には意思がある。
それはアドニスにとっても言葉の綾と言うべきか、何かしらの比喩に過ぎなかったはずだが、僕にはそれがリアルな言葉として感じられた。
魔法には、術には意志が眠っている。遥か以前に滅びた、竜の遺志が――




