人なるもの、知ることの恐ろしさを知る
アドニスの言葉は続く。
「これから街に何が起きるかわかりません。今のうちに身を清めておきましょう。私はサウナだけいただきますから、ヒラティアさんはヴィヴィアンをお風呂に入れてあげて下さい」
「えっ、私?」
「当然でしょう。ヴィヴィアンは北方のお風呂に不慣れでしょうし、彼女はこの宿の下宿人です。それが不潔なままでは他のお客に失礼というものです。そもそも。あなたがヴィヴィアンの匂いに気づいていれば今日のデパート行きもなかったのです。責任をとって全身丁寧に洗ってあげて下さい」
「う、うん、わかったよー……」
その戸惑うような声は別に面倒とかではなく、アドニスの畳み掛けるような言葉に面食らってのことだろう。ずっと黙っていたアドニスは、急に立て板に水で喋りだしている。
「その民族衣装も一度水洗いしておきましょう。魔法を使えばすぐに乾かせます。ほつれたり破けた部分の復元も簡単なことです。それと貧相男、あなたも入浴しなさい」
「えっ僕も? 僕さっき入浴したよ、簡単にだけど」
「あなたを一人にしておいたら入浴中に何をされるか分かりません。どうせデパートの時のように我々の下着の中で這いずり回るつもりでしょう。のたうちまわる変態です」
「えっハティそれどういう」
「あああああ、わ、わかったよ、僕も入浴する!! ちょうどお風呂に入りたいと思ってたんだあああああ!!」
「よろしい。ではヴィヴィアン、ちゃんと身ぎれいにしてきて下さい」
「は、はい。あのハティ様、私、匂いますか?」
と、ヴィヴィアンは帯状の民族衣装を思い切り前に引っ張り、ボールでも受け止めるかのように胸元を浮かせて問いかける。
「い、いや、よくわからないけど」
けして助平心ではなく、無意識に流れに釣られてのことだが、僕はヴィヴィアンの胸元を覗き込むような動きを。
しようとした瞬間。アドニスの杖が飛んできた。
※
「んーでも、外出禁止の指示が出ててよかったかも。貸し切りだよー」
時刻はすでに12時を回っている。
宿泊客もいないためマザラおばさんは自宅へと帰っている。マザラおばさんの夫は大工であり、おばさんの自宅はワイアーム郊外にあるのだ。
裏の別館にはひっそりと灯がともり、やがて窓の端から、屋根の隅からゆらゆらと湯気がのぼり始める。
「うわ、もうお湯になってるよー、釜にマキも入れてないのに」
「私が温めてきました。かなり広い浴槽でしたが、アウレリア家の術者ならば造作もないことです」
「でも釜に火を入れてないよ? 冷めてこないかな?」
「浴槽の隅に石を沈めています。術で熱していますから、1時間程度は浴槽の熱を保ってくれるでしょう。ポコポコと泡が出ているのがそれです、間違っても触れないように」
「わかったよー、ありがとー」
男女の脱衣場は隣り合っており、廊下越しにそんな会話が聞こえてくる。
「うわっ!? ヴィヴィすっごいよー、なんで垂れてないの??」
「な、何という脂肪……。か、肩が凝らないのですか?」
「いえ、長く歩いたりするとけっこう辛くて……」
う、き、聞いてはいけない、女子の会話だ。
早く浴場へ行こう、僕はズボンをもそもそと脱いで……。
ん?
僕は違和感に気づいて、男子浴場への引き戸を開ける。
お湯が沸いてない、というか浴槽が空っぽである。石畳のような床には椅子も桶も出てない。
「あ、あのー、アドニス、男子の方も沸かしてほしいんだけど」
廊下越しに、僕なりの大声で呼ばわる。返事はエコーがかかった声で届いた。
「何を言ってるのですか? あなたはさっき入浴したと言ったでしょう。私と一緒にサウナに入りなさい」
えっ。
いや確かにサウナは男女混浴が当たり前だけど、えっ。
「ヒラティアさん、サウナは廊下の向こうですね?」
「う、うん、そうだよー」
「先に行っています、貧相男もすぐに来なさい」
……?
な、何だろう、よく分からないけど嫌な予感がする。
ともかく逆らってはいけない雰囲気だ。僕は服を脱ぎ終え、タオルを腰から下に巻いて脱衣場を出て。
どもおん。
そんな音を立てて褐色の物体とぶつかる。
「うわっ!?」
「あ、ハティ様」
ヴィヴィアンが廊下に出てきている。例の帯のような、プレゼントの箱を縛るリボンのような、下着と呼べるかどうか疑わしすぎる黒い紐を巻いただけの姿で。
「ヴィヴィ、先に行ってるよー」
引き戸を閉じる音がして、ヒラティアの声がその向こうに消える。
「ヴィヴィアン! ふ、服っ、いや早くお風呂にっ」
「ハティ様、私に術をかけてください」
「え?」
ヴィヴィアンはその何というか凄まじい下着の、「下着というよりは裸体の絵を線で修正してるような姿で」というとんでもない比喩が浮かんだけど、ともかくそんな姿でさらに僕に体を寄せる。
手を頬のそばに寄せて耳打ち、彼女のスタイルの関係で、一番尖っている部分が先に僕の体に到達するが、僕は全力でそれを意識から排除する。
「じ、術って、いったいどうしたの」
「私が竜幻装について受け継いだ知識は様々ありますが、その中に、術者と巫女を深く結びつける術があるのです」
「結びつける?」
「そうです、この術をかけておけば、遠く離れた場所にあっても術者様に巫女の様子が分かると聞いています。私の村では術者と巫女は常に側にいましたので、使う機会はなかったそうですが」
「そんな術が……でもお風呂に入るだけだし、アドニスも一緒だし」
と、そこで僕は気付く。ウェーブのかかった美しい薄紫の髪、その前髪の隙間からのぞく目は真剣そのものである。自分の提案が絶対に必要なものという切迫した気配、そこには強い意思と、僕と片時でも離れることは不安だという悲壮な印象がある。
あの「深き書の海」で僕と離れたこと、そのことにまだ責任を感じているのだろう。
僕はヴィヴィアンの菫色の目を見て言う。
「わかったよ、どうすればいい?」
「私の左目に、目蓋の上からキスを」
行って、目を閉じて顎をつんと突きだす。なんだか色っぽい構えにどぎまぎするが、僕はその左の目蓋に口付けする。
そして喉からせり上がる言葉、僕はなんとか口の中で言葉を抑える。
――竜の視座、幻装!
「うっ――」
ヴィヴィアンがかっと眼を見開く。
彼女の菫色の瞳が真っ赤に変わり、その中央に縦長の筋が生まれる。いわゆる蛇眼、爬虫類の目だ。キスしたのは左の目蓋だけだが、変化は両目に起こるようだ。
が、しかし、それは数秒のことで、すぐに元の菫色の瞳に、ごく普通のヒトの目に戻る。
「……? それ、どんな効果があるの?」
「……ええと、すいません、私にも分かりません」
確かに術は発動したし、一瞬だがヴィヴィアンの肉体も変化した。しかし今の変化にどんな意味が?
「ヴィヴィ、どうしたのー?」
浴槽の方からヒラティアの声がする。
「とにかく行って、僕は大丈夫だから」
「はい、分かりました」
とてとて、と彼女は去っていく。見送ってから僕もサウナへ向かった。
しかし何故だろう、嫌な予感がどんどん高まっているのは。
※
『花と太陽』亭のサウナは最大で12人まで入れる。宿屋の施設としては立派な方だ。
入るとまず右側にはベンチのような細長い椅子があり、左側にはキングサイズのベッドのような平台が設置してある、そこに寝そべったまま温浴することもできる仕様だ。そして部屋の奥には水の入った桶と、体を叩いて垢を落とすための白樺の枝、これは青々と葉が繁っている。
さらに壺に入った塩、暇潰し用の木製の知恵の輪、木板で作られた耐水性の本まである。
アドニスは左側、平台の上に座っている。混浴といってももちろん白いタオルを巻いた姿だ。
そして部屋の中央に、でんと構える羊がいる。
アドニスは柄杓で桶の水をすくい、羊に飲ませる。すると羊の全身からもうもうと湯気が上がり、部屋が一気に蒸してくる。
「早く戸を閉めなさい」
「う、うん」
芬蒸羊。
大爛熟期に魔法によって産み出されたと言われているが、野生種という説もある。生態や繁殖法の研究は進んでおり、家畜の一種として北方に広く普及している種だ。
この羊は水を飲むと、表皮付近の体温を90度近くにまで高め、水分を蒸気として放出することができる。これはイカが墨を吐くような逃避行動か、あるいは縄張りの主張ではないかと言われていたが、家畜化によってその本来の用途は忘れられ、ただ水を飲んだら蒸気を噴くという反射だけが残った。家畜にはよくあることだ。乳牛は家畜化によって、子育てには過剰すぎる量の乳を生産している。
「ここに座りなさい」
ばん、と自分の隣を叩くアドニス。
「い、いや、そんな近くには」
そういえば忘れていた、アドニスは僕のキスを求めていたのだ。賭けの約定がどうのと……ということはまさかこの状況は、アドニスが僕を拘束するために。
僕が入り口に立ったまま動けないでいると、アドニスはふいに口を尖らせてアゴをそらし、つんと澄ました顔になる。
「心配せずともキスなど要求しません。今のワイアームがそんな状況でないことは分かっています」
そ、そうなの?
ともかく突っ立ってもいられない、僕はアドニスの様子をうかがいつつ、慎重に隣に座る。
それにしても、アドニスの肌は雪のように白い。まずそのことが強く印象に残る。
座ってても分かるほどに背が高く、脚も長い。その横顔は彫像のように整っていて、切れ長の目と真っ直ぐな鼻梁、顔のパーツは一つ一つが完成されている。魔術で名を成したアウレリア家の名代であるから筋金入りの魔術師のはずだが、その手足には力強さも感じられる。乗馬ズボンを履いてたことだし、馬術で鍛えられているのだろう。彼女の印象は草原を駆ける白馬である。知的で力強く、そして美しい。
なんだか高貴すぎて近づきがたいほどだ。僕は少し、いやかなり気後れしてしまう。
「……ヴィヴィアンのことですが」
「っ!」
アドニスの一言で、僕は急に冷静さを取り戻し、アドニスの横顔を見る。
「彼女は悪人には見えません、アウレリア家の名代として、人を見る目はあるつもりです。しかし彼女の行動原理が分からない。あの古代装置、刻名魔印の重要性は分かるはずです、なぜ壊すなどと……」
「うん……彼女は北方に出てきたばかりだし、都市での社会のこととかも、まだあまり」
と、何か視界がぼやけている。前がよく見えない。
まさかもうのぼせたかな? 僕は頭を振って目を何度かしばたたいて。
目の前にヒラティアの裸体があった。
「!?」
間違えようもない赤い髪。朗らかに笑っている彼女。その首から下には何も身につけてなくて体のラインとか凹凸がはっきりくっきりと。
「うわあああああ!?」
「わ」
と、アドニスが極力短く驚きを漏らす。
「ど、どうしたのですか、いきなり叫ぶ変態ですか」
「い、いいいやべべ別に」
そのヒラティアは小さな椅子に腰かけ、石鹸を思いきり泡立てたタオルで体を洗い始める。
そして視界の端に褐色の腕が見える。
こ、これはまさか、視界の共有。
そうか、あの竜の視座は術者と巫女を結びつける術。つまり巫女がどこにいて、何をしているのかを知るための術なのだ。
つまりこれはヴィヴィアンの視界。彼女も体を洗っているようで、時々激しく視界がぶれる。
ヒラティアの口が動いている。
――そうだよー、あそこのバタークッキー美味しいんだよー
――えーちょっとぐらい平気だよー、太らないよー、ヴィヴィはスタイルいいもの、腰もきれーにくびれてるし
音は聞こえないが、その口の動きで言ってることが分かる。秘術探索者には必要かと思って読唇術を学んでいたが、ヒラティアは口を大きく動かすのでとても分かりやすい。
どうやらヴィヴィアンは普通に会話をしている。ということは、ヴィヴィアンは術の効果が分かっていない……?
し、しかしなんと危険な光景だろうか。いつも快活に笑っているだけに少年のような印象もあるヒラティアだが、その豊かな胸は見事に紡錘型にせりだし、特に腰つきや腿にかけてのラインが持て余すほどに発達している。何もかも無防備にさらけ出していて罪悪感がすごい。
小さい椅子に座っているので腿が折り畳まれるように見えて余計に肉付きの良さが強調されて。
「貧相男、聞いているのですか」
「は、はははい」
あまりにもあまりな視界に思考が停止していた。僕は焦りながらそう答える。
今の状態をアドニスに知られたらコロサレル。
それだけを強く意識する。
「近年、北方において強力なモンスターは増加しています。ある指摘では、それは数百人の魔法使いが投入され、七つの試練場にて第四層が踏破された時期を境に顕著に……」
そ、そうだ、目を閉じればいいんだ。
「他の都市国家と比較しても、とりわけワイアームでの魔物の目撃が多い。これは魔物が魔力を求めるためと言われていますが、ではなぜ古代の魔器物と、無数の遺跡が眠る南方を出て、北方にまでやって来るのか……」
しかし、今の状態は僕の視界と、ヴィヴィアンの視界が二重映しになっている。この状況で僕だけが目を閉じたら。
「あああああ眼を閉じるとモロに見えるううううう」
「意味不明な変態ですか!!」




