空塞ぐ影と山のような石鹸
第五章
※
外に出た途端、街全体に吹き荒れる風が僕たちの衣服をはためかす。
それはすぐに見つかった、というより、視界の上半分にはそれしかいなかった。
「あれは――」
空を覆う黒雲。
そう見えたのは上空に座す影だ。その翼は西から東へ届くほど。その嘴は山をついばむほどの巨影。
生物で言うなら大鷲。しかし、およそ想像の及ぶ大きさではない。
「あれは、もしかして帝鳳。実在していたなんて……」
それは大爛熟期の古い記録にのみ存在する魔物。記述の上でなら、あるいは神とも造物主とも思える存在。
その翼は都市よりも大きく、その鉤爪は渓谷を刻む、その嘴は城塞を砕き、その鳴き声は西から東へと届く。そしてこのような大きさの形容は、その驚異のごく一部でしかないという。
確かに記録を読んだことはあるが、僕もその記述は誇張か、いたずらっ子をしつけるための寓話、作り話だと思っていた。もし記述のままの大きさでそんな生物が実在していたなら、自然界がその営みを保っていけるはずが……。
「ひょええ、でっかいよー、あんなの見たことないよー」
「し、信じられません。あんな巨大な生物が存在するはずが、仮にいたとしても,大災厄以降、人間に目撃された記録はないはず、はるか南方の果てにいたということですか? なぜ今になって北方に……」
ヒラティアが真上を向いて口を開けている。アドニスも茫然自失という意味では似たようなものだろう。
上空にあってその翼の一枚一枚まで見えるほどに大きい、ワイアームの街には台風のような暴風が吹き荒れているが、あれでもまだ帝鳳は数十ダムミーキの上空にいるのだ。もし地上まで降りてきたなら、着地する前に僕らも街も全て吹き飛ばされるだろう。
おおよその目算だが、その翼長は8ダムミーキ(7.9キロ)。
強さの等級で分けるなら神話級、しかしもはや人間に対処可能なシロモノではない。僕は歴史書で学んだことを思い出す。これは大爛熟期の終わり、栄華を極めた魔法使いたちを根絶やしにして、人の世界に数百年の沈黙をもたらしたという大災厄。世界に超常を極める魔物たちが溢れた現象。
それがまた、起きているというのか。
その大鷲の姿をした天災はデパートの方角に尾羽根を向け、猛禽類の瞳でじっと真下を見ていた。その羽ばたきはひどく緩慢に見える。理屈として、大きな鳥ほどその羽ばたきは少なく、かつ遅くなるが、帝鳳ならば数十分に一回の羽ばたきになるのだろうか。
「なんだ? 何かを探している……?」
やがてその巨体に変化が起きた。
その全身が淡い、橙色の光に包まれ、その姿がみるみる小さくなっていく。
やがて天を覆うほどだった巨体が、広大な空の中で点のように小さくなり、嘴を真下に向けて急降下していく。
「ハティ様、小さくなりました!」
「うん……生物の技じゃない、魔法で体の大きさを変えたんだ、つまりあれも魔導師級……ねえヒラティア、あのあたりって学園の敷地内じゃないかな? 見えるかな」
「うん、よく見えるよー、あれは……」
肉体的なことなら何でもできるヒラティアである、当然のように視力も凄い。
「えっとね、学園の北側奥にある赤い建物、あ、屋根を突き破ったよ。確か、あそこって……」
北側奥にある赤い建物? それは確か。
「7つの試練場……その入り口だよ」
※
「ぷしゅー……」
ここは『花と太陽』亭。
ヒラティアが疲れ果てて帰ってきたのは深夜に近い時間だった。マザラおばさんの用意していた豚肉のシチューを温め直してもくもくと食べつつ、器用に鎧を脱いで部屋着に着替えていく。僕はその間、目をそらしておく。実に行儀が悪い。
四人がけの食堂の椅子。僕たちはヒラティアの話を聞くために食堂に降りてきていた。僕の隣にヴィヴィアンが、向かいにヒラティアが、そして斜め向かいにアドニスが座っている。
普段なら食堂は酒場となっている時間だが、街全体に外出を控える旨の通知が出ており、他にお客はいなかった。
「大変だったよー、魔物が何体も出て、風紀騎士団と衛士隊が討伐に回ってたんだよー」
衛士隊は街に属しており、風紀騎士団は学園に属している。風紀騎士団は10年ほど前に新設された部隊であり、性格としては学園のために行動する自主遊撃部隊である。構成人数もほんの二十数人だ。
しかしその個々人の能力は折り紙付きと言われ、街の防衛に関して強い発言権を持っているとか。
それはさておき、僕はヒラティアに問いかける。
「被害はどのぐらい?」
「大したことはなかったよー。亡くなった人とか、大怪我した人もいなかったし、背びれ熊とか這いずる緑とか弱いのばっかりだったし」
「それ十分に強いからね」
目安で言うと、一人前の魔法使いが3・4人でかかれば安全に勝てる、という程度だろうか。
「神話級はいなかったの? それに、あのデパートにいたみたいな魔導師級は」
「いなかったみたい、よかったよー」
……
ヒラティアはようやく仕事を終えての安堵からか、気安くそう言う。
だが、事はそう簡単ではないはずだ。なぜ急に二体も魔導師級が現れて、他は全て(比較的にだが)雑魚だったのか。まるで、街の戦力を分散するかのように。
この騒ぎのせいで、デパートでの強い揺れのことはなんだか有耶無耶になってしまった。
ヒラティアはデパートでの戦闘を報告したと言うが、僕の竜幻装が魔物を呼び寄せたという可能性については伏せたという。その証拠がない、というのが第一の理由だ。
まずもっての疑問は、僕の前に現れる魔物が強すぎる。ということだ。
ヴィヴィアンに詳しく話を聞いたが、やはり彼女の村に現れていたのは、もっとずっと弱い魔物だったようだ。この魔術は北方に持ち込まれたが、北方ならばむしろ魔物のレベルは落ちそうなものだ。
それは環境が変わったためか、あるいはこの学都ワイアームに原因があるのか。
「やっぱり、僕とヴィヴィアンだけで一時的に街を離れようか、それで僕たちの方に魔物が来れば、やはり原因は僕たちの術だと分かるし」
「それはダメだよ!」
ヒラティアがぴしゃりと言う。
「その術で倒せない魔物が来たら死んじゃうよ、守れるのはこの街の中だけだよ。それに、ハティだってもう立派な戦力だし、その術は北方の貴重な財産だよ。それを捨てるようなことはダメ」
そう告げるヒラティアに、僕に対する個人的な思い入れがないとは言わない。
しかし少なくとも、僕の見る限りではヒラティアの判断は冷静なものであり、個人ではなく風紀騎士団長としての判断、北方でも有数の人材であるという自負を背負っての発言に思えた。
「わかったよ」
ともかくも、この街にいて良い、
僕の持つ力が人類の貴重な財産、
そう言ってもらえることが嬉しかったことは否定できない。僕はそのような言葉と、十数年ずっと無縁だったのだから。
気になることはもう一つある。あの巨大と言うにも程がある、完全なる理外の存在、帝鳳のことだ。
「7つの試練場はどうなったの?」
「うん、やっぱり入り口を封印してた建物が壊されて、中に入られたみたい。とりあえず危険だから周りを封鎖してるよー。今は誰も中に入れないの。もし試練場の中で元の大きさに戻ってたら、羽ばたいただけで吹き飛ばされちゃうからねえ」
と、そこで、ヴィヴィアンがはてと首を傾げる。
「ハティ様、その試練場というのは建物の中にあるのですか? しかし、地上であの大きさに戻ったなら、この街が丸ごと吹き飛んでしまうのでは……」
「いや、それは違う……」
この学都ワイアーム、それが築かれる原点となった7つの試練場。それは発見された時、森の中にある直径3メーキほどの穴であった。
「穴、ですか?」
「そう……上に大岩が乗っていて、穴の存在に気づいた魔法使いがその岩を破壊して見つけたんだ。穴の下には洞窟とか井戸じゃなく、砂漠があった。前後左右まったく果てが見えない広大な砂漠。これが第一層だけど、第一層ですら正確な広さは分かっていないんだ」
その穴こそ、人類の支配圏にある最大の未踏魔術であり、人類が魔法を復興させ、再びの栄華を目指さんとする基盤でもある。
この空間を誰が作ったか、どのような目的で作ったのかは一切不明である。現在まで判明していることは、迷宮は七層であること。
ぞれぞれがまったく環境の異なる空間であり、空間の何処かにある、地上と同じような「穴」で行き来できること。
それだけである。
人類はその穴を中心として学都ワイアームを作り、長い年月をかけて迷宮を踏破してきたのだ。
ヒラティアが踏破したのは第五層。第六層から下は、常人ならば一分も生存していられない魔境と言われている。迷宮が全七層だというのも、使い魔による探索、予知、占術などを用いた推測に過ぎない。
ヴィヴィアンが腕を組んで、そのイメージを想像しようとする。
!? う、腕が、胸の下で完全に見えなくなった。
「それは困りました。第五層に、刻名魔印というものの製造機を壊しに行かなければいけませんのに」
う、やはりまだ忘れてなかったか。
「あ、あのねヴィヴィアン。やはりそれは犯罪だし、秘術探索者を志す者は、失われた大爛熟期の魔法を求めて遺跡に潜るんだ。それを目指す僕が、大爛熟期の遺産を破壊するなんて……」
「ですが、その機械があると秘術探索者になれないのでしょう?」
「それは……、でも今は竜幻装もあるし」
「もう、ダメだよハティ!」
話が堂々巡りに陥りかけるところに、ヒラティアが身を乗り出して割り込む。だからなんで僕に言うの!?
「第五層はものすごーく危険なんだからね!! 私だってすっごく苦労したんだから!! 私はまだ見てないけど、そのハティの術がどれだけすごくても、第五層には通用するとは限らないんだから! だから行っちゃダメだからねっ!」
「う、うん、もちろん……」
「ハティ様」
と、横にいたヴィヴィアンが腕にしがみついてくる。全身で思い切り密着して、上目遣いで僕を見る。僕は頭に血が上って意識を失いそうになる。
「私なら覚悟はできております。入り口が封鎖されていて、立ち入りが禁止というのは好都合ではありませんか? こっそり入ってしまえば、中で誰かに見咎められることもありません」
「そ、そう……なのかな? いやそうじゃなくて、ええと、ごめん思い切り胸あたって」
「アドニスも何か言って!」
ヒラティアが、横のアドニスに水を向ける。
そう言われたアドニスは、伏せ気味だった顔をついと上げ、軽くまばたきをしてから僕たちを見渡す。
そういえば彼女はずっと黙っていた。なんだか気配も消えていたような気がする。その赤とオレンジの編み髪、長身の身体と整った顔、千人の中にいてもひと目で見つかるほど存在感がある彼女なのに。
「……。その前に、ヴィヴィアン」
「はい」
「あなた、匂いますよ」
「…………えっ」
一瞬の沈黙の後。
ぼっ、とヴィヴィアンの褐色の頬に赤みがさし、自分の手首や鎖骨のあたりの匂いを嗅ぐ。南方から来たとは言え、やはり女性としての恥じらいもプライドもあるのだろう。自分の匂いを気にする仕草を取っている。
「そ、そう、でしょうか。お風呂は入っているのですが。すいません、今夜は匂い消しの柑橘油を多めにします。それに明日からは、デパートで買った服を」
「服の問題ではありません。自分では分からない部分に垢が残っているのです。どうやら入浴が簡素になっていますね。ヒラティアさん、まだ聞いていませんでしたが、この『花と太陽』亭に浴場はありますか?」
「え? ええと、うん、あるよ。お風呂は裏に別館であるんだよ。大浴場とサウナがあるよー。浴槽は香木仕立てだし、サウナは芬蒸羊式のだよー。石鹸とシャンプーもたくさん種類があるから、好きなの使ってね」
ヒラティアは学生であり、秘術探索者であると同時に宿屋の手伝いでもある。急な質問で一瞬戸惑ったようだが、お風呂の説明はすらすらと出てくる。
そう、この『花と太陽』亭の風呂は、週末は風呂だけで営業しているぐらいの豪華な作りだ。マザラおばさんが一時期浴場に凝っていて、儲けのほとんどを浴場の整備につぎ込んだのだとか。
大浴場は二つであり、サウナは混浴である。
しかし何故だろう、何か嫌な予感がする。
まあ、サウナや風呂で生命の危機に陥ることなんて、あるわけないけど。




