魔境に至る者、かの技は神域なりや
そして、破壊され、吹き散らされ、燃やし尽くされたその場が完全に色彩を取り戻した瞬間。
ヒラティアの姿が消える。
ここからの動きは誰も目で追えなかった、だから推測に過ぎない。
ヒラティアは一瞬で姿勢を上下反転させて天井に着地、天井を砕いて七階へ突き抜けるほどの威力が生まれているが、強烈な詩眩城の魔法によって天板が瞬時に復元。それがバネのような反発力となってヒラティアを真下に弾く。
そして全周が音で埋め尽くされる。
恐ろしく反発力の高い物体が飛び交っているような気配。爆発するような音が散乱し、視界の端に影が飛び、砲弾の雨が降り注ぐような轟音の重奏。ヒラティアとおぼしき影が上下への跳躍、前後への疾走を連続的に行っている。目にも止まらぬ速度で。
そして黒い骨の表面で火花が散る。輝線が頭骨を走り、脊椎の隙間に刃が叩き込まれてぎしりと鳴り、大腿骨の下で床が崩れてそれは瞬時に復元し、石の床が波打つように見える。
およそ生物としての常識をはるかに超える動き、まさに縦横無尽というべきか。目で負える影は一瞬、しかも10人以上いるように思える。骨の全体を剣撃の蛇が走る。
「こ、これがヒラティアさんの本気」
ヴィヴィアンがわななく。
もちろん僕たちにはかすりもしないが、肩がかすめただけでも岩を砕くほどの速度である。僕たちは微動だにできず身を寄せ合うのみ。
だが、まだだ。
まだヒラティアは相手の姿勢を崩しているだけ、剣を振り下ろす際に床を連続的に崩して体勢を整えさせないようにしながら、どういう動作なのか上下左右から剣を打ち付けている。
贅鋼骸はこらえきれずによろめき、時折繰り出される骨の拳が空を切る。
彼女の跳躍、疾走、剣撃は速度を増している。音速を超えるという鞭の先端のように、あるいは雲間から挿す光条のように一瞬の輝き。これほどに躍動しながらも彼女は力を溜めている。
――聴いたことがある。
彼女の技量はもはや既存のあらゆる剣術に収まらず、彼女は自分で自分の技に名をつけた。彼女の無限とも思える力を、一瞬に爆発させるような技。
祇技
そう呼ばれる神域の技を。
黒い骨が大きくよろめく。さしも最上位の魔物ですら彼女を見失っただろう。そして極小の時間を切り取ったなら、その背後に迫る黒白の剣士が、瞬時に大股に構え、最大限の加速を手元に乗せる姿が、振り抜かれる剣が――。
「――祇技の陸」
声が僕たちに届くより速く、技は完了する。
「塵塵!!」
瞬間。無数の金属音が折り重なって聞こえる。
それは持続する斬撃。彼女の剣圧が骨を通り抜け、その表層を削り、芯を砕き、細片を薙ぎ散らして大きく三日月型の空間を埋め尽くす。あらゆるものを無数に斬り刻み、粉砕し、衝撃波が外壁にまで届いて石壁を霧のように吹き飛ばす。
光が。
僕たちの顔に光が射す。それは外界の光、学都ワイアームの空。
「なっ――」
僕もまた驚愕する。
それはおそらくは千を超える、超圧縮された連撃。やや上向きに広がる衝撃波がゼオールデパートの六階から七階の西半分を消し飛ばしたのだ。
このワイアーム最大のデパートは斧を受けた立木のように、ものの見事に横っ腹が削ぎ落とされて見えただろう。
そして八階から上、消失した部分にかぶさっていた上階がようやく重力を思い出したように、破滅的な音を立てて倒れ込むように見える。
しかしその前に緑色の網が外壁に張り巡らされ、壁となり柱となり、すんでのところで崩壊を食い止める。ヒラティアが莫大な魔力を供給していなければ、デパート全体の倒壊は避けられなかっただろう。
そしてヒラティアは。
「う――」
剣を右上に振り抜いた体勢で、一瞬だけ固まる。
その前には骨。
微細な欠落、無数の亀裂、そして複数の骨が砕けている。人体としての形象を失いかけている。
その全体を、緑色の光が覆う。
虫眼鏡で見たならば網のように見えるその光が、欠けた破片を呼び寄せ、割れた部分を塞いでいく。それはほんの一秒ほどの出来事、驚愕に取りつかれる僕の視界の中で全てが緩慢に見える。
全力を出し尽くし、さしもヒラティアも体幹に乱れが生じる。おそらくヒラティア自身に十分な手応えがあったことが反応の遅れを生んだ。完全に削り尽くしたと思われた骨が、次の瞬間に修復することなど予期できるはずもなく、十数の小骨により構成される拳がヒラティアの胴体に打ちこまれる。
刹那、耳を聾する衝撃音。
それは山すらも動かす一撃。ヒラティアの身体がほぼ水平に打ち出され、一瞬の後にデパートの中央。芯柱である大理石の柱にぶち当たる。
足元にまで響く轟音。ヒラティアの白雪鋼の鎧が玉子のように砕け、円柱をものの見事に突き抜けて勢いが殺され、ヒラティアは背中から地面に倒れて喀血する。
「かっ……」
「ヒラティア!!」
おそらくは、ヒラティアでなければ爆散していた一撃。
円柱はすでに復元している。衝撃を瞬時に復元する状態であれを撃ち抜くには、先ほどのヒラティアの跳躍の何十倍もの威力が必要なはず。およそ人類に生み出せる最大級の衝撃の、その何倍もの力が。
アドニスが防壁を張りつつも、戦慄に唇を震わせる。
「な、なんという……」
「は、ハティ様……」
それはヴィヴィアンも同じのようだ。僕の腕に両腕でしがみついて震えている。
だが、今の流れ。
あの黒い骨が、ヒラティアに粉砕された一瞬後に復元して見せた今の光景。それが僕の頭で意味を付与され、一つの考えが浮かぶ。僕は唇を噛みしめ、ヒラティアに駆け寄りたい心を押さえる。
「アドニス、これを使うんだ」
僕がアドニスに渡すもの、それは木彫りの鳥。先ほど屋上で拾っておいたものだ。
少し前まではニスを塗られたばかりのように艶めいていたが、今は何十年も経ているように色あせ、部分的に欠けている。マジックアイテムは使用するごとに劣化するが、特に高位の魔法を行使するものは、莫大な魔力を流すために劣化が早い。あと一回の使用が限界だろう。
「それは――?」
「瞬間移動の魔法だ。いいから早く、僕の推測通りなら――!」
「は、ハティ様。いかがしますか、戦えと言うなら、私は……」
ヴィヴィアンの目は恐怖に揺れている。それでも戦うと言ってくれる、術の媒体になってくれると。今の光景を見てそれを言える彼女の強さに驚きながらも、僕は彼女の頭に手を置き、急ぎながらもはっきりと言う。
「ありがとう、でもまだ駄目だ。僕は、僕たちは竜幻装のすべてを知らない。まだ君に無茶はさせられない。この場は策で対処する。そしてゆっくり解き明かそう、君の村に伝わるあの術を、伝承の真の姿を」
「ハティ様……?」
そう話す間に、黒い骨が一歩ずつ僕らに近づいている。けして焦らず、急ぎもしない、そんな必要は微塵もないと言いたげに歩く。彼我の距離はほんの30歩ほど。
「アドニス、使えそうかな?」
「やっています……こ、これどなたの持ち物なのですか? ひどく複雑で、おそらく術者に合わせて特注されたものです。かなり魔力を食う上に、繊細な調整が要求される……」
ざり、と、贅鋼骸が10歩まで迫る。僕たちは数歩だけ後退し、壁に尻をつける。
「くっ……こう、ですね、呪文は基本に準じて……弦は転じる、界脈は歪む、時の移ろいは瞑目すべし、四つの場は共鳴す、律は揺らいで定まることなく……」
骨の腕が伸ばされ、アドニスの首を掴む。
「アドニスさん!」
ヴィヴィアンが駆け寄ろうとするが、それは僕が押さえる。やはりそうだ、術を行使しようとするアドニスを先に狙った。こいつらは魔力に反応して襲ってくる。
「い、穏然たる秘跡もて、無量の彼方に……」
そして骨が、その手に力を込める瞬間。アドニスの目が見開かれ、黒い頭骨を見つめて一瞬だけ固まるように見え、次の瞬間、その口から力ある言葉がほとばしる。
「――跳躍せよ!!」
アドニスの手の中で鳥の模型が砕ける。砕けながらもその破片の一つ一つが光を放ち、生み出す光に溶けるように形象を失い、そして光条となって瞬時に伸びて手元から消える。
「かはっ……」
アドニスは咳き込みながらその場にへたり込み。
そして黒い骨は、跡形もなく消えていた。
※
「うう、やっぱり欠けちゃってるよ、打ち直してもらわないと、この剣ものすごーく高いのに……」
そう言いながらうなだれるのはヒラティアである。彼女の剣はノコギリのように刃がボロボロになっており、鎧は胴部に大穴が空いている。
ちなみに、であるが、もしヒラティアの持つ黒練鋼の剣を台座に固定し、鉄のハンマーを刃に降り下ろし続けたなら、今のこの状態になるまでに数百万回は必要だろう。彼女の剣はそれほどに頑健無比だ。
「あんなに体が丈夫なヒト始めてだよ……」
「なんか語弊がある気がするけど……」
思わず突っ込んでしまう。
というより丈夫さならヒラティアも特別製である。もちろん魔法で傷を癒しているのだろうが、もう立って動けるとは。
「あの骨の気配は感じませんね、やはりあの器物を追って瞬間移動したのでしょう」
アドニスは何らかの魔法で周囲を探っていたようだ。その作業を終えて、少し安心したように言う。
そう、あの贅鋼骸、何かおかしいとずっと思っていた。
決定的なのはアドニスの雷火劫を受けた時だ。
不意打ちに近い形でまともに食らったのに、まったくダメージがなかった。どんな物質だろうとあの熱量に耐えられるはずはなく、防御魔法ならその光跡が見えるはず。
では何が起きたのか。
おそらくは「相殺」だ。
アドニスの術に対して、同じ術式を瞬時に編んで相殺したのだ。それでも余波はかなりのものだったはずだが、あの骨が耐えられたのは元々の頑丈さに加えて、魔法で自らを強化していたためだろう。
どんな魔法で? 決まっている、錬武秘儀だ。
「つまり……あの贅鋼骸は自発的に魔法を使えるわけではない、周囲で使われた魔法を自動的に「模倣」していただけ、ということですか」
アドニスが考え込むような構えで呟く。
「そしてその模倣は自動的なもの、なるほど……不都合な術まで自動で真似てしまうという欠点はありますが、自動の方が反応はずっと早くなる、だから不意打ちにも反応できる……ということですね」
「そう、だと思う」
贅鋼骸は大爛熟期の魔法使いが産み出したという特別な使い魔だ。今の時代には主を失って野生化しているが、その基本設計はやはり使い魔、尖兵としてのものだ。魔法戦に特化して設計されているのだろう。
「どこまで飛ばせたかな?」
「時間がなくて、あまり細かな調整は……おそらく南方に数百ダムミーキは」
「そうか……できればこれで僕たちのことを見失うか、諦めてくれるといいけど」
もし再来するとすれば同じ手は使えない。瞬間移動の魔法具はかなりレアな存在なのだ。
なんとか、撃退する手段を考えておかないと。この竜幻装にどんな術があるかも検討を……。
ふと、僕の目がそれに止まる。
「アドニス……?」
その整った貴族然とした顔、そこに深く深く、じっと考えに沈むような気配があった。どことなく深刻というか、何かを憂慮するような表情が。
名を呼ばれたアドニスははっと顔を上げ、つんと首をそらす。
「何でもありません。それより、一般客は避難したはずですが、どこかに戦いの余波を受けた人がいるかもしれません。周囲を捜索しましょう」
……?
なんだろう、何か妙な違和感があったけど……。
ともかくアドニスの言うことももっともだ。僕たちは周辺の捜索を始める。
そろそろワイアームの風紀騎士団や、町の衛士も駆けつける頃だろう。僕には、もはやこの術を秘密にしておくこともできないだろう、という予感があった。
何しろ、修復されたとはいえデパートが半壊する戦いだ。この術が呼び寄せる魔物は危険すぎる、もう僕一人で抱えるわけにもいかない。ヒラティアにも同席してもらって、町の偉い人と一度ちゃんと話し合いを……。
だが、衛士も風紀騎士団もなかなか来なかった。
五分待ち、十分待っても来ないので、僕たちは負傷者がいないか探しつつ、一度下まで降りて外に出てみた。
そこで僕たちは知った。
この町は、学都ワイアームは。
もうそれどころではなくなっていたのだと……。




