その災いの名は月
「何という……あの黒錬鋼の剣で斬れない、などということが」
アドニスが唇を震わせて言う。両手は前に突き出されており、そこを起点として半球形の防壁が僕とヴィヴィアンのいる範囲までをカバーしている。この魔法障壁がなければ衝撃波の流れ弾で即死しかねない。
僕は傍らのヴィヴィアンに問いかける。
「竜幻装を使おう、竜の爪であいつを倒せるかな」
「いえ、おそらく威力が足りません。しかし、私どもの村で伝えられている中で最も攻撃的な術が「爪」なのです。それ以上に攻撃的な術は、あるのかも知れませんが伝わっていません」
そうなのか、しかし今から探している余裕などあるわけもないし……。
……
ん?
何だろう、何か違和感がある。
確かに竜の爪はかなりの威力だったけど、あれだけで南方の怪物たちを追い払えるものだろうか。何かしらもっと強力な術がなくては……。
その違和感はしかし、検討している余裕はなかった。僕はアドニスに問いかける。
「アドニス、あいつを倒せる術は打てる?」
「……あの贅鋼骸の身体が何に置き換わっているのかわかりませんが、おそらくは大爛熟期に錬成された魔導金属でしょう。やるとすれば、最大火力を叩き込むしかありません」
――贅鋼骸
それは、概念として言うなら「化石」である。
化石とは古代において生物の骨や歯が土に埋もれ、周囲の堆積物である石、あるいはオパールやカルシウム、ある種の金属などに置き換わる現象であり、特に希少な鉱物に置き換わったものは置換化石などとも呼ばれる。
大爛熟期の魔法使いたちはこれを意図的に起こせたらしく、鉄や黄金、あるいは宝石などに置換させ、それをゴーレムとして操ったという。これらは通常のスケルトンと呼ばれるモンスターよりも遥かに強靭であったと伝えられる。
だが、あの個体の頑健さは尋常ではない。ヒラティアの数十合もの斬撃を受けて、目に見えた傷がないとは。
アドニスは覚悟を決めるように言う。
「魔導師級なら何かしら行動を起こさせることすら危険です。一気に決めたいところですが、最大火力となれば数秒の溜めを要します」
「わ、分かった」
僕は前方のヒラティアに向かって声を張る。
「ヒラティア! アドニスが最大火力の魔法を打ち込む! なんとか隙を作ってくれ!!」
「うん! わかったよー!」
軽快に聞こえるが、その声には切迫感が込められている。
その奥、瓦礫の山となった店舗からがらがらと物が崩れる音がして、黒い影がのっそりと歩み出てくる。ヒラティアが黒剣を背中まで振りかぶる。
「えーーーいっ!」
それを前方に投擲。瞬間、目の前にレンズ状の白煙が出現する。鼓膜を押すような爆圧とともに投擲される剣が。高速で回転しながら骨に迫る。
常人なら1リズルミーキの動作も許さぬ速さだが、その空隙の眼窩が剣を捉えている。わずかに体を斜めにしてかわす。
だが甘い、なぜ買い物の荷物しか持っていなかったはずのヒラティアが、短い時間で完全武装して現れたのか。
ヒラティアが動く。投擲の残心を残して前方にあった腕を、ぐっと握りしめて手元に引き戻す。
「来て!」
ごっ
スケルトンの背中、第四脊柱にものの見事に剣が突きたつ。
さしもの怪物も体幹を崩され、回転するように動いて前方によろめく。
ヒラティアの武具は彼女と強く結びついており、その所在は針の先ほどの狂いもなく把握できるという。そして魔術的な念動力によって、いつでも彼女の手元に引き寄せることができる。
すでにヒラティアは踏み込んでいる。黒い骨に肉薄する間合い。そして白閃く光る拳が叩き込まれる。
乱打。その音は千条の落雷の如く。
肋骨に、肩甲骨に、脊柱に、そして頭蓋に乱打が浴びせられる。一撃ごとに破滅的な威力がある。
そしてアドニスは防壁を解いて動く。足を肩幅に、両手で目の前の空間を丸く切り取るような構え。そして全ての魔力を集中させ、舌を弾いて呪文を紡ぐ。
「――暴王の儀典
花園を薙ぐ火の扇
突き通す赤銅の槍
迅く絡めし猫の舌
常世は灼帝の供物
呪音の響きにて鎖を溶かせ!
我が封環の内にて顕現せよ!
掌封にてあまねく滅却せよ!!」
ぶおん、と
構えた両手の間に光熱が生まれる。紅い光を放つ太陽の模型のような球体。じりじりと爆ぜる音、じくじくと何かが泡立つ音がする。
それは幻聴ではない。アドニスの服の一部が熱で爆ぜて、肉の一部が泡立っている。強烈な鎮痛の術式、回復の魔法を並列的にかけることで自己へのダメージを抑えている。そして光球の表面では紫の火花が走る。
あれは、あれもおそらくは雷火劫。火と雷撃を同時に操る魔法だが、現れてる事象がかなり火に偏っている。おそらくは電気と磁気を球形に回転させ、とてつもない熱量を一点に封じているのだ。厳重に封じていてなお、その余波で術者を焼き滅ぼさんとするほどの熱を。
そして阿吽の呼吸か。ヒラティアが骨から離れる。どれほどダメージが有るのか知れないが、無数の乱打によって蹌踉めくように見える骨が、つとその光球を見る。
そして術式が放たれる。
「厄月せ!」
高速で打ち出される球体。その瞬間。アドニスは瞬時に術式を切り替えて透明な壁を、魔術的な防壁を築く。ヒラティアが一息で後退して防壁の範囲に入り、そして前方に炎が吹き荒れる。
「うわっ!?」
僕は声を上げる。眼の前が一瞬で火の海と化したのだ。
おそらくあの光球が宿していた熱量は数千、あるいは数万度。僕の眼前で床が溶け、天井が溶け、溶け崩れようとするる直前で緑色の網のようなものが見えてそれを支える。詩眩城の術式がむき出しになるほど、厚さで数十リズルミーキほども石材を融解させている。
光球が骨に食らいつく。その肋骨と頭骨の広範囲を覆う形で食い込み、周囲が風景ごと赤熱する。
それは燃焼しか存在しない世界。
商店のあらゆる物資が、建材が、空気までも燃えて朱に染まる。熱による上昇気流が溶け崩れかける天井から真上に逃げ、周囲から空気が引き込まれ、酸素を貪欲に食らい付くして更に燃える。もっと俯瞰で見たならばそれは火焔の竜巻に近い。やがて障壁の向こうが赤以外に何も見えなくなる。まさに灼熱の地獄。生物はおろか、鉱物ですら一片も残さず蒸発しかねないほどの。
「す、すごいですね、これが魔法……」
ヴィヴィアンが呆けたような声で言う。
「術の熱量を限界まで狭い範囲に凝縮しました。その温度は最大で三万度。たとえ大爛熟期の魔法鉱物だとしても耐えられるはずがありません」
「すごいよー! これだけの魔力をあんなに小さくまとめるなんて、一流の秘術探索者でも無理だよー。アドニスちゃん、すごーい才能が」
赤熱する空間から、骨の腕が突き出される。
「――え」
ヒラティアですら反応が遅れた。
骨だけの腕が白雪鋼の鎧の肩当てに置かれ、それをおそらくは、ぐいと下に押し下げるように力を込めた。
瞬間、ヒラティアが音速を超えて前倒しになり、鉄球を落とされたベッドのように床がボウル状に湾曲し、石版がめくれ上がって真上に噴き上がるように見え、ヒラティアの頭が叩きつけられると思う間もなく床に大穴が生まれてその体が消える。それが瞬きの間に起きた出来事。
爆風のような衝撃。僕らは後方に吹き飛ばされる。僕は木の葉のように地面を転がって、露出していた石版にしたたかに背中を打ち付ける。
「ぐはっ……」
だが僕の痛みなどより、今の一瞬、ヒラティアが眼前から消えたことが心を占めていた。
あのヒラティアが、武術科筆頭、時代を代表するほどの英雄が、一撃で。
「ぐっ……馬鹿な」
がば、と瞬時に立ち上がるのはアドニス。息が乱れている。どこかにダメージを負ったのか、あるいは先程の大魔法による疲弊か。
「ま、まさか……あの熱量に耐えられるわけが」
――違う。
遠目では分かりにくいが、贅鋼骸の身体は熱を帯びていないように見える。その黒く、濡れたように光る身体にはぱらぱらと石片や布地が舞い降りて、そのような塵芥は熱風によってどこかへ吹き散らされる。
なぜ、付着したものが燃えない……?
どんなに熱伝導率の低い物質であっても、あの灼熱の中に十数秒もいたのだ。表面温度が変化しないわけがない。
それにヒラティアの斬撃に耐え、一撃で床面を崩壊させて彼女を階下に叩き落とした。いかに魔導師級とはいえ、あまりにも常識を外れている。
何かしらカラクリがある。今までの戦いで、ヒントとなることは……。
僕は頭の半分で考えつつ、アドニスに言う。
「ここは一旦退却しよう、デパートにかけられた魔法ももう限界が近いはずだ」
「……そうですね、下層に逃げていけば、また少しは時間稼ぎが」
ぎゅりっ
そんな音がする。
音につられて横を見れば、石の床が円形に消失している。
「え……?」
そして穴を埋めるように緑の光、術式の網が見える。詩眩城の魔法による復元が、落下した床を引き上げている。そして何かの舞台装置のように、ヒラティアが石の床に乗って現れる。
「ふーっ! ふーっ!」
ヒラティアの眼が血走っている。
その口の端から荒い息をつき、頭頂からどろりとした血液が流れて顔半分を赤く染めている。ヒラティアの赤い、燃えるような髪がさらに赤黒く染まっている。
そのそばで天井が崩落し、がらがらと石材が降り注いでくる。
「ヒラティア! 無理しないで!! もう詩眩城の術式が限界だ! これ以上戦ったらデパート全体が崩壊してしまう!!」
僕がそう呼びかける。ヒラティアは首を動かさないままに足元をちらりと見て、片膝を持ち上げてから勢いよく打ち付ける。
ずん、と鈍い音、その金属で補強された靴が床にめり込んでいる。半ば崩壊しかけているとは言え、石の床に。
「んんーーーーっ!!」
ぎしり、と空間全体がきしむような音がする。
僕の視野が奇妙なものを捉える。それは床に散乱する石片が、重力に逆らって上に向かう光景。細かなひび割れが瞬時に埋まり、割れたガラス窓が復元し、剥がれたタイルがパズルのように組み上がっていく。
「これは……!? まさか、詩眩城が拡大している」
アドニスが呟き、黒い骨を前にしながらも周囲を見回す、警戒の感情に反して意識が引き付けられる、それほどに不可思議な光景である。
詩眩城とはこのデパート全体に、建設当時から組み込まれている術式である。いわばこの建造物自体が一つのマジックアイテムであり、破壊や損傷に対して、内部にいる人間から少しづつ魔力を分けてもらって復元する仕組みだ。もちろん通常は負担になるほどではなく、ほとんど意識されないほどにわずかな魔力しか求めない。
今、ヒラティアは足の先から建物全体に魔力を流している。魔力を水に例えるなら、普段が人間の発汗程度の魔力を集めているのに対して、今はおそらく大瀑布のごとき流量。本来の術式の範囲を超え、術そのものをより高位に引き上げるような出鱈目な量だ。それは分子レベルでの修復どころではない。
周囲の光景がどんどんと色彩を取り戻していく。炭化した看板が、融解したガラスが、燃え尽きたはずの壁紙が復元している。
燃焼という化学変化すら逆回しに復元しているのだ。
「こ、こんなことが……」
詩眩城はここまでの復元を目的としていない。莫大な魔力のために、術式そのものすら変えている。
しかし、今こんなことをして、何の意味が……。
黒い骨が一歩、進む。
ヒラティアが足を組み替え、やや前傾に構える。黒い大剣を背中に構える。
僕はハッと気づく。
「アドニス! 最大級の防御魔法を! フロアの隅に避難を! ヴィヴィアンも!」
「! わ、分かりました、貧相男は私の前に立って逃げなさい!」
「ハティ様、いったい何が……」
「ヒラティアは本気だ! 本気で暴れる気なんだ!」
長い付き合いのなかで何度か、彼女の本気を見たことがある。
それらはいずれも、圧倒的な破壊という結末で終わった。
それは昼が夜になるほどの破壊。
あるいは、大地が海になるほどの――。




