黒骸の王
「くそっ、まさかひ孫がいたとは……おのれ!! さてはその娘の柔肌に毎日濃厚なキスをしてるんだな!! お前はそれしか考えてないのか! 思春期だけが人生か! キス真っ盛りの妖怪め!」
「ああそうだよ!! 色んなとこにキスしたよ!!!」
半ばヤケクソになって僕は怒鳴る。流れる涙が止まらない。
「ええい仕方ない、元から渡すつもりだった術だ。だがしかし……16歳のジェイとか……何だその手のひら大の真珠よりレアな存在は。生まれて以来無かったほど惜しい。何たる無念だちくしょう。そうと知ってればせめて5・600回キスしてから譲渡したものを……残念すぎるだろ、うぐぐぐ……」
ガトラウトが何やら本音丸出しで喚いているが、僕はまったく耳に入っていない。袖で乱暴に口元をこすりつつ滂沱の涙を流す。
くそうこんなオヤジに二度も僕の純潔を。しかも一時の気の迷いに任せた乱雑なキスで奪われるなんて。ともかくこんなオヤジにもう何も聞くことなどない。もしこんなところをヒラティアに見られたらまた要らぬ誤解を……。
「ハティ……」
すぐそばにヒラティアが立っていた。
「うわあああああああっ!? ひ、ヒラティア!?」
僕を探して走り回ったのか、少し服と髪が乱れている。ヒラティアは大量の紙袋をその場に落とし、よろめきながら額に手を当てる。
「や、やっぱり、そうなんだね、その人のことが……」
壮絶なる誤解が確信に変わる音がした。
「い……いやヒラティア! そんなわけないから!! こんなオヤジにそんな妙な感情なんか持つわけ無いだろ!!」
「え、そ……そうなの?」
ヒラティアが縋るような瞳で僕を見て、次いでガトラウトの方を見る。
僕もそちらに視線を向けると、ガトラウトは一瞬きょとんとした表情の後、僕とヒラティアを交互に見て。
なぜか、にやりと不敵に笑う。
「おいおいひどいなハティ、君が言い出したんだろう。あの路地裏での情熱的な口づけが忘れられないんだ。毎日俺のことばかり考えてしまうんだ。ぜひあの熱い一時をもう一度って」
「はあ!?!?!」
こ、こいつなんて事を。
周囲の女性客から黄色い喚声が上がる。何でっ!?
がたり、と音がする。ヒラティアがよろめいてテーブルに当たる音だ。彼女は床に膝と両腕をついてうなだれて、買ったばかりの品物が入った紙袋が下敷きになる。
「や、やっぱり……そうだったのね……ハティってば男の人の方が……」
「いやいやいや!!! 違う!! このオヤジいま腹立ちまぎれに適当な嘘を!」
ヒラティアがキッと顔を上げ、涙を浮かべた目で僕を正面から見つめ、次の瞬間凄い速さで立ち上がりつかつかと僕の方へ歩み寄り。
あ、死。
「ハティのバカーーーーーーッッ!!!」
凄まじい平手が僕を襲う。いや、腕を振りかぶる瞬間も撃ちぬく瞬間もまったく見えなかったから平手というのは推測でしか無い、そのぐらいの人智を超えたスピードだ。僕の視界が90度真横を向いたと思った瞬間、体がきりもみ状に回転しながら吹っ飛び、テーブルやら店内の調度やらをなぎ倒して粉砕しながら数十メーキ吹っ飛ばされる。僕は間仕切りのモルタルの壁に突っ込んで血まみれになりつつ手足をバタバタ痙攣させる。
通路を行き交っていたお客たちが悲鳴を上げながら離れていく。それはそうだろう、血まみれの顔面が窓から飛び出してきたら軽くホラーである。そんな僕の視界にはデパート内の小奇麗な通路、そこをヒラティアが両手で顔を覆いながら走り去っていく。
「うーむ、あれが戦士科筆頭のヒラティア=ロンシエラか……。話には聞いていたが途轍もない技量の冴えだな。しかもあれに練武秘儀がプラスされるわけか。背筋が寒くなるよ」
背筋どころか流血によって脳が寒くなる感覚に襲われながら、僕は生死の境目を漂いつつ、そんな中でも考えるのはヒラティアのことだった。よく分からないが彼女を悲しませたことが悲しかった。そして僕はこの世界にもいろいろ未練があるけど、もうなんか色々と虚しくなって、せめて化けて出ないようにおとなしく死ぬかと思いながら静かに目を閉じて。
「おっと、いかんいかん」
と、その頭に急に意識が戻ってくる。視界の霞もクリアになって血の巡りが戻ってくる感覚がある。心臓が力強く脈打ち始めて、一瞬意識される頭部の傷の痛みも、むず痒いような感覚とともに遠ざかっていく。
僕は壁の穴から頭を抜く。すると、穴は周囲から破片が集まってきてすぐに修復される。これは詩眩城の魔法だ。このデパート全体がある時点での自分の形を覚えており、破壊に対しての復元が行われる魔法である。もちろん異物が挟まったまま治ったりしない。
背後を見る。ガトラウトが僕の頭に植物の枝を当て、それに魔力を込めている。何らかの治癒魔法が発動しているのだろう。細かい傷がみるみる塞がっているし、造血作用や覚醒作用もあるようだ。
「……命の恩人だとか、そんなこと思わないからな! 何もかも全部お前のせいなんだから!」
「大げさな、単に頭を少し切って血が出ただけだ。あとはまあ脳震盪かな、もう治っている」
確かに、軽く頭を触ってみるが、もうどこを怪我したのかもわからない。血の痕跡もないのは、治癒の際に血液も体内に戻っていったのだろう。これは修復ではなく復元、かなり高位の治癒魔法だ。
「……あんた、何なんだよ一体」
「うむ、問われて明かすほどの身分ではないが……」
と言いかけて、ガトラウトは急に体から力を抜き、肩を落として息をつく。
「いいやもう面倒臭いし、そのうち分かるさ」
「おい!!」
「うっさいこの色ガキが。なんだよ16歳のジェイとか反則だろクソ、せいぜいその娘と夜の大魔法でも連発してろバカ」
「なんて大人げないやつだ……お前のせいじゃないか、僕が魔物に襲われるのだって……」
「あーもー」
と、やる気なさげに気を吐くガトラウト。
「君が望んだ力だろうが。それでワイアームに入学したいんだろう?」
「えっ……」
な、何でそのことを。あの路地裏で僕の叫びを聞いていた? いやワイアームのことなんか叫んだかな。
そういえばヒラティアのことも知っていたが、あれも妙だ。
さっきアレッタの店で、ガトラウトは3年ほど南方に居たと言っていた。だがヒラティアの名が知られ始めたのはここ2年ほどのことだ。もちろん北方に帰ってきてから話を聞いたという可能性もあるけど……。
「それに魔物に襲われるのは竜幻装のせいだけとは限らないぞ。ここ10年ほど、人類圏に高位の魔物が出現する事件が増えてきている。特にこの学都ワイアームはその傾向が顕著だ。新聞にもよく出てるんじゃないのか」
「……そうなのか? 勉強で忙しくて、あまり新聞とか読まなかったから……」
「だから風紀騎士団が組織されたんだ。七つの試練場の踏破を急がせることもな。しかし、どうも妙だな、ここ数日で耳にしただけでも、女皇蜘蛛だの、百節地鎧だの、あまりにも高位すぎる気が……」
魔物が……人類圏に攻めてくる?
そんな、それではまるで、大爛熟期の末期に起こった大災厄のような……。
「ん」
と、首を上げるガトラウト。
「……あれは、少し危険だな」
「?」
振り返るとそこは喫茶店の入口、先ほどヒラティアの平手が起こした大被害に店内も騒然となっている。店長はどうも新米らしくて、どうしたものかと狼狽えているばかりだ。だが問題はそちらではなく、その奥、人垣の奥にある黒いフードを被った人物だ。
光と色彩に満ちたデパートの中において、その黒いフード姿はあまりにも奇妙だった、そのフードの奥には闇が広がるばかりである。
いや、よく目を凝らせば、その奥には鉛色の肌が見える。
巨大な眼窩には眼球がはまっておらず、鼻や耳の部分に肉がついておらず、皮膚の一片すらその顔には付着していない。まるで鉛の彫刻のような。一言で形容するなら。
黒い骸骨――。
それが僕たちを見ていた。光のない眼窩を向けて。
「あ……あれは、まさか。贅鋼骸……」
「逃げるぞ。おい店長、代金と迷惑料だ! ここに置くからな!」
言って、ガトラウトは小さな宝石をひとつ置く。そして再び登場する木彫りの鳥。心なしか、先ほど使用した時より全体が乾燥してヒビが入っているし、羽根やクチバシなど細かな部分が欠けて、だいぶ古びた印象がある。
視界の混濁。浮遊感と皮膚の違和感。
そして僕の目に光が染み入る。
視界の上半分を青が占めている。視界の下側に広がるのは円形を描く石造りの床。遠景には雑然と密集したワイアームの町並みである。
「ここは……屋上?」
確かに屋上だ、ゼオールデパートは巨大な円筒形の建物なので屋上も当然のごとくほぼ円形。西側の端に四角い金属の蓋がついている、屋上から館内へ降りられるマンホールだろう。僕たちはガトラウトの瞬間移動でここまで飛んだわけだ。
「……逃げちゃったら、あの場所にいた人が」
「なに大丈夫だ。もしお前以外を狙っている魔物なら、デパート内はすでに大騒ぎになっていたはずだ」
「……とにかく迎撃しないと、ここで迎え撃とう」
「いや無理だな、贅鋼骸の強さはピンキリだが、悪くすると神話級、しかもあれは何となくヤバイ気が」
その首を、黒い腕が掴む。
「!?」
屋上に吹く強めの風が、その黒いフードを下ろして中身を露出させている。それは艶めくような漆黒であり光の中に佇む影。
突如としてガトラウトの背後に瞬間移動した贅鋼骸が、その首を掴んで釣り上げていた。
「がっ……! かはぁっ……!」
その太った体が完全に地面から離れ、ガトラウトか顔を紫色に染めて苦悶している。足をばたつかせるが、黒いスケルトンの骨だけの体はまったく揺らがない。
その骨の腕が振られる。瞬時に強烈な加速を付与されたガトラウトが、まるでボールでも放るかのように凄まじい速さで宙を舞い、屋上の外周に敷設された縁石を超え、この九階建てのゼオールデパートから宙へと踊り出る。
「うっ……うおおおおお!!」
その悲鳴が床に吸い込まれるかのように下方に遠ざかっていく。ディグスケルトンの近くにいる僕はそちらの無事を確認しに動くこともできない。せめて落下までに何らかの魔法を発動できたことを祈るしか無い。
その暗い眼窩が、じろりと僕の方に向けられる。
「うっ……」
それはまさに鋼鉄の彫像のような骨だった。日の中にあってもまったくむらのない、光沢すらもない墨のような闇色、欠けもヒビもまったくない完全無垢な骨が、まるで何かの象徴のように僕の前に歩み寄り、その右手を高々と掲げ。
「うわっ!?」
僕が後方に飛び退く一瞬、その腕が石造りの天井を一撃する。
そこを中心に世界全体が振動するかのような感覚。
内蔵にまで響く轟音、耳を聾する衝撃。
厚さ数百リズルミーキはある天井の石版が薄氷のように砕け、ガラスのように天井全体に亀裂が突っ走り、石片が舞い、天井全体が擂り鉢状に傾く。
なんという一撃。あれを受けていたら怪我では済まない、僕の体など生卵のように破裂していただろう。
だが天井の一部が崩落したことで、黒いスケルトンが下半身のあたりまで天井に埋まっている。僕は連鎖的に崩壊していく天井を飛びつつ後退し、マンホールを開けて中に滑り込む。鍵がかかってなかったのは幸運だった。
2メーキほどの高さをどすんと落下する、足が痛いが泣き言は言ってられない。階下は木箱に封入された物資や、脚立に台車などが乱雑に置かれた廊下だった。
振動によって天井がひび割れ、棚が倒壊してひどい有り様だった。おそらく階下のフロアもそうだろう。ただ一撃の拳でここまでの混沌を生むとは。
どこかから人の叫ぶような声が聞こえる。おそらく地震か何かだと思った人々がパニックに陥っているのだ。
あの贅鋼骸の瞬間移動が思い返される。だが瞬間移動系の魔法の特性として、物が密集している場所に転移してくることは難しいはず。……しかし、大爛熟期の魔法にはそんな制約すら無かったかも知れない。あのような高位の魔物に当てはまるかどうか……。
ともかく僕は走る。床面全体がわずかに傾斜している。まさかデパート全体が崩壊することはないだろうが、ふいに天井から石片が降ることはありうる、注意しなければ。
道は一本だった。おそらく廊下の突き当たりに天井へのマンホールがある、という構造だ。僕は廊下の突き当たりの扉を開ける。
「!?」
そこには、信じがたい光景が。
これはけして嘘でも誇張でも、幻覚でも冗談でもなく。
裸の女性が、100人ほどいた。




