最果ての魔導師、享楽を欲す
※
とある草原にて、
その存在は、薄れ行く意識で思考する。
その思考は原始的であり、脈絡はなく、そして断続的であった。
人の世の言葉に当てはめるなら、このようになる。
――何が起きた
それは頑健なる体としなやかな四肢を備え、城ひとつ分ほどの重量を持つ魔獣。
邪眼は翡翠にして蛮爪は紅玉、金剛石の牙と紫水晶の舌を持ち、その体躯は黒曜石。
無数の宝玉と堅岩にて造られし獣、かの大爛熟期の偉業であり異形、彼の縄張りにおいては無敵を誇った獣。
――何が起きた
自分は、草原を駆けていた。
それは覚えている。あの喉を鳴らす薫り、心が昂る気配、それに誘われて草原を駆けていた。
縄張りを出たのは初めてのことだったが、彼を脅かす者は皆無だった。風の速さで地を駆けながら、岩を喰らい、獣を喰らい、翔び上がっては鳥すらも喰らう。
彼にとって餌ならざるものは無く、敵となりうるものもない。
――何が
意識が薄らいでいる、彼はいまだ理解に至っていない。
なぜ動けないのか、なぜ意識が弱まっているのか。
彼は滅ぶとか死ぬという概念を知らず、それを理解するにはすべては唐突すぎた。
最後の記憶は、何かを喰らおうとしたこと。
――そう、あいつ、を
大地を駆けながらの一瞬。
たまたま目の前にいた、あの黒い影を、彼は喰らおうとした。
記憶はそこで途切れている。
何かを推測するには、彼にはあまりにも時間がなかった。
――黒い、骨だけのあいつ、を
首だけになった彼には、何も分からない。
やがてその翡翠の瞳が、ぴしりと縦にひび割れた。
※
※
魔法具店ということは、いわゆるマジックアイテムを扱う店なのだろう。
振るうだけで炎を生む剣とか、身に付けると姿を消せるマントとか、そういう不思議な道具である。
だが、僕はそういう夢の溢れる道具には期待していなかった。
魔道具やマジックアイテム、マギウスファクトなどと言われる道具は、「未完成な魔法」であると言われる。
魔法の道具とはすなわち、魔法の生成過程を途中までで止めておき、工程をはるかに省略した形で魔法を振るえるようにした道具と定義される。
そして、全ての魔法具において、その発動の条件は「魔力の供給」である。先端から火の弾を出す杖があるなら、それはそのような魔法の構造式を杖の中に織り込み、魔力の供給によって自動的に術式を完成させる道具となるわけだ。
早い話が、僕のような魔力枯渇体質は魔法の道具にすら縁がないということだ。
では人間の魔力そのものを、水筒のように封じ込めておけないか、しかしそれは大爛熟期の魔法使いたちですら不可能だった。
魔力、この誰もが普遍的に持っていて、消耗や回復を実感できる力は、しかし純粋なエネルギーとして外部に取り出すことはついにできなかった。というより魔力の正体については、大爛熟期の魔法使いたちですら何も分からないのが実態であったという。
僕は店内を見渡す、暗さに目が慣れてくると、店内がモノであふれていることがわかってくる。入った瞬間妙に狭く感じたのは、壁にも床にも物があふれているからだろう。
専門の魔法具店に入ったのは初めてだったけど、どこもこんな感じなんだろうか。
例えば壁面には鞭の類がかけられている。先端にトゲのついた革鞭、植物の蔓を編んだしなやかな鞭、あるいは細い鎖のような鞭。確かに力の弱い魔法使いが大きなダメージを与えるには最適の武器だ。
それに革製の軽量な鎧もある、胸の膨らみや腰のくびれを意識したフォルムだから女性用だろうか。軽量な革鎧も魔法使いの装備としては優秀だろう。胸部の先端や肩などに金属のトゲが埋め込まれているが、格闘戦での攻撃の意図すら持たせてるのだろうか、実に実戦的で洗練されたデザインだ。
他には獣脂のロウソク、小さくまとめられた麻縄、これなどは魔法陣の敷設や儀式魔法に使用するものだろう、野外でのキャンプにも使える。
僕はなんだか面白くなってあちこち見回す、トカゲが沈められた薬品のようなものや、何かのお香などもある。これは儀式に使う薬品か、あるいは占術師などがトランス状態に入るための麻薬の一種だろうか、実に興味深い。
店主はというと、カウンターの奥を何やらゴソゴソとかき分けていた。水樽のように大きなおしりがフルフルと揺れていて目の毒だ。僕はなるべくそちらを見ないようにする。
「そうねえ、初心者ならこういうのはどうかしらあ」
と、店主が出してくれるのは青い乗馬ムチである。先端が平たく、材質はゴムのような何かの樹脂だ。実に弾性が高く、これでスナップを効かせて一撃したら、大人でも悶絶するほどの痛打を与えられるだろう。
……しかし、モンスターを相手にするにはいささか心もとない気がするけど。魔法具店だから、何かの魔法が織り込まれているのだろうか。
「あの、実は僕、魔力枯渇体質なんです。だから魔法具は使えなくて」
「あらあ、それなら丁度よかったわあ。その鞭、あなたに向いてるわよお」
「え?」
僕は鞭を見下ろす。よく見れば、青い鞭の先端部に複雑な文様が描かれている。いや、それは描いているわけではなく、何か別の材質をその形状に埋め込んでいるのだ。手で触れると、そこに黒い跡が残る。
これは……何か特殊な顔料をニカワで固めたものか。
「これって、もしかして聖癒痕の術式」
「あらあ、物知りなのねえ。その通りよお」
なるほど、そういうことか。
確かに、この武器ならエンプティスである僕でも戦えるかもしれない。
その時、入り口の暗幕が大きく開かれ、誰かが店内に入ってくる。
「おーい、久しぶりだなアレッタ、ガトラウトさまが帰ってきたぞー」
と、その男は店内のものをかき分けて豪快に歩いてくる。太くて毛だらけの腕をカウンターにどかんと載せて、その髭面でにやりと笑みを浮かべる。
「あらあ、お久しぶりねえ、三年ぶりぐらいかしらあ」
「ああ、珍しい南方の魔法をいろいろ見つけて」
「あーーーーっ!」
「えっ、なんだ? あっお前!!」
忘れもしない、その食い過ぎた豚みたいな肥満体。鬱蒼と生い茂るかのような濃い髭面。それに妙に土臭い独特の体臭。
そのオヤジこそ思い出すもおぞましい、数日前僕に竜幻装を譲渡した、あの人物だ。
「あの時のオヤジ! なんでこんなところに!」
「まっお前ちょっ、待て、お前がいるってことはあのバアさんが!」
と、ガトラウトなるオヤジは急に慌てた様子で、僕の肩をがっしりと掴み、開いている手で鳥の置物のようなものを取り出し、口の中で詠唱を行い魔力を込める。
――この魔法は。
景色が歪む。肉体が一瞬だけ地上を離れ、魂が外気にさらされるような感覚。
気がつくと僕たちはデパート内のどこか別の地点、やや開けた場所にいた。
これは……短距離の瞬間移動?
ゼオールデパートの中なのは間違いないが、周囲に並んでいるのは小物を売る屋台や喫茶店などだ、ここはおそらく八階の飲食と催事場のフロアか。瞬間移動は高度な魔法のはずだが、あの一瞬で術式を編んで3次元的に移動するとは…。何らかの魔法具の力だろうか。
ガトラウトはポケットが大量についた灰色のコートに黒い強化ブーツという姿で、コートの内側には左右からたすきがけにベルトを巻いて、そこに魔術師らしく巻物を丸めたものや、触媒用の銀のナイフ、薬品を封入した試験官などを大量に挿している。ガトラウトは魔法薬や巻物という触媒を駆使するタイプの魔法使いなのだろうか、と何となく思う。
「よし、これで一安心だ」
と、なぜか安堵の息をつくガトラウト。僕は勢い込んで口を開く。
「いや待ってよ! さっきの店で買ったものの料金払ってないし!」
「ああ別に心配するな、アレッタと俺はいい仲だから、俺が連れ出したのはアイツも見てたから大丈夫だ。あとで払っておけばいい」
「……それに、色々聞きたいことが!」
「まあまあ少年。とりあえず冷たいものでもどうだ、ん?」
ガトラウトは手近な喫茶店を指し示し、やや軽薄にそう言った。
※
ゼオールデパートは地上九階建ててあり、九階とは従業員のオフィスや事務関係のフロア。八階が食道街となっている。
僕たちが入ったのは、並びの中でも割とお洒落な店だった。
「軽いアルコールを、この坊っちゃんにはオレンジジュースで」
「かしこまりましたぁ」
ウェイトレスの女性は快活に言うと、サソリの尾のように片足を持ち上げたまま床を滑っていく。やがて壁に至ると、ぴょんと飛び上がって壁に片足で立ち、そのまま真上に滑って行く。
厨房スペースは天井にあった。逆さに張り付いた料理人がケーキやら飲み物やらをこさえ、ウェイトレスが料理を銀の盆に乗せて、空中でふわりと反転。膝丈の多層スカートをふわりと広げ、ゆるやかに落下する。
「おい思いきりパンツ見えたぞ」
オヤジ……ガトラウトの最悪な発言が飛び出す。
「アンダースコートでしょ……見せてもいいやつだよ。でもあんまりガン見するなよ恥ずかしいな」
「パンツなのに見せてもいいのか、すごいな最近の文化は。こんな店も数年前まで無かったぞ、あの制服もすごいな胸を強調してて、しかもこの店に女性客の方が多いってのもすごいぞ」
「魔法の方に驚けよ!」
おそらくは店舗全体にさまざまな魔法がかけてある。重力制御にベクトル制御、省スペースという理由もあるのだろうが、演出としても巧みに利用している。見事なものだ。
しかし、今はそれどころではない。
「僕に渡した魔法は何なんだ、こんなの聞いたこともない……」
「便利だろう? 俺が南方で見つけてきた魔法だ。汎用性があるし、威力も凄まじい」
「リスクが大きすぎるだろ! 魔物に襲われてるんだぞ!」
「ああ、それにあの婆さんにもな……」
ガトラウトは頭を抱えるような体勢になり、何かしらの苦い記憶に苦悩する声になる。
「お前も経験してるだろうが、恐ろしい婆さんだった……裸で寝所に入ってくるわ、愛の言葉を耳元で囁いて復唱させるわ、風呂に入ってると必ず……ううっ」
寒さに凍えるようにぶるぶると震える。かなり大柄なオヤジなのだが、そうしていると丸まった猫のように小さく見える。
僕は小首をかしげて口を開く。
「僕はそのお婆さん見てないからなあ」
「なに?」
がば、と上体を起こすガトラウト。
「どういうことだ、術の媒体がいないと魔物を追い払えないだろう」
「えーっと、確か、そのお婆さんはワイアームに入る前にリウマチが出たとかで帰ったんだよ。今はそのひ孫が僕のそばにいるけど」
「ひ孫……だと!?」
ガトラウトの目が、カエルでもここまで見開けないというほどに開く。
「と、年はいくつだ? 美人か?」
「たしか16だって聞いてるけど、容姿はまあ……かなり美人と言えるのでは」
「じゅ、じゅうろく……胸のサイズは?」
「なんでそんなこと……」
「いいから教えてくれ! だいたいでいい! エシュメ表記だといくつだ!」
エシュメ表記とは古い神話に由来するもので、女性の胸の大きさを表す指標である。
ある神話において、女神に仕える26人の巫女がいた。
その巫女はいずれも容姿端麗で、「胸の大きさがすべて異なっていた」という一文がはっきり神話に残っている。
おそらくは個性豊か、ということを示す形容詞に過ぎないのだろうが、なぜかそれが女性のバストサイズの指標となっているのだ。
小さい順にエイオーン、ビイニイ、シールカと続くが、必要に応じた幅で段階を刻んだせいか、後半の半分以上はほとんど存在しない大きさになっている。なのになかなか死語にならない、不思議なものだ。
「えーっと、たしかヒラティアがエフメネスで……だからヴィヴィアンはアイトワ、いやジェイルータぐらいあるんじゃないかと……」
「じぇっ……ジェイだと!?!?」
がしっ
やおら身を乗り出したガトラウトが、僕の頭を両手で抱える。そして顔面が迫って、あ、何を。
むっちゅううううううううううううう
頭が弾け飛ぶ。
背骨を悪寒が駆け下りて全身に鳥肌が立つ。
汗腺が開いて嫌な汗が噴き出す。
思考が混濁して涙だけが流れる。
なぜか周囲で黄色い声が上がる。
「っぷはあ! くそっ!」
ガトラウトは十秒後に離れ、どかんとテーブルを打ち付ける。
「こんなことをしてもムダなんだ! 一度手放した術は二度と帰ってこないんだ!」
「だったらやるんじゃねええええええええええええっ!」
僕は泣きながら絶叫した。




