無限に朽ちぬ栄豪の塔に
「あれ、ねえヴィヴィ、帯が汚れてるよ」
ヒラティアの声にはっと意識が引き戻される。ヒラティアはヴィヴィアンの白いエプロンをぺろんとめくり、帯に締め付けられた足が露出する。
「あ、すいません、先日、湖でついた泥汚れがまだ落ちなくて」
「うわ、けっこう上の方までドロついてるよー、だめだよー乾いて土汚れになってるよー」
ヒラティアは一度まとめて確認しようと思ったのか、白い短めのエプロンを最大までまくり上げる。
「あ、ヒラティアさん、ちょっと」
そのとき、僕の目の前に現出した光景。
濡れたような褐色のヴィヴィアンの肌。その胸部に陣取るのは椰子の実のような果実。その下に連続するのは信じがたいことに柳腰のくびれだ。
どことなく前衛的なカーブを描く腰つきは暗がりの中に揺らめいて見えて、さらにその下にはどっしりと安定感のある腰部。民族衣装の帯は臍の部分を避けて走行している。帯はぎしりと腿を引き絞り、その締め付けの圧力が肉を盛り上がらせ肉付きの重厚さを示している。瑞々しい太腿部が柱のようにそびえ、あの細い下着が今にも引きちぎれそうなほど張り詰めている。
エプロンが首より上に上げられているため顔が隠れている。ボディラインから人格というものが剥ぎ取られ、およそ思い描く理想すら越えている暴力的な肢体が肉感となって脳になだれ込む。そして足元に置かれたカンテラの光がその体を斜め下方から照らしあげて、その腿と腰のくびれた部分、足から腰にかけての肉のひしめき、胸部の立体の巧妙さなどが濃い陰影となって一瞬で理解されてしまうような。
どがあん。
アドニスの杖が宙を舞い、黄金の獅子が僕の眉間にヒットした。
「目をそらしなさい、この変態眼球」
「す、すいませんデス」
し、しかしなんてとんでもない体なんだ。う、い、いけない。冷静にならねば。
ヒラティアはそんな僕のことは気に留めず、ヴィヴィアンに言う。
「ねえヴィヴィ、着替えたほうがいいよ?」
「これしか持ってませんので」
…………
……
「ヒラティアさん!」
と、なぜか怒りの声を上げるのはアドニスである。
「同じ宿で寝泊まりしている方でしょう! 毎日同じものを着ていることを注意しなかったのですか!」
「あ、あの、ごめんなさい。まさかこの民族衣装がいつも同じものだったなんて」
「いえ、大丈夫です。村に伝わる臭い消しの柑橘油を塗っていますし、夜は干して叩いています。あと何日か繰り返せばドロも全部落ちるかと」
「そういう問題ではありません!!」
なぜか厳しい様子でアドニスが言う。
なるほど、だからヴィヴィアンは夜に裸で寝る習慣があったのか。
「仕方ありません。今日は貴女の着替えを買いに行きましょう。私がお連れします」
「あの、申し訳ないのですが、北方のお金はあまり持ち合わせが」
「そのぐらい出して差し上げます! さあ、外出の支度をしますよ!」
何やら急に慌ただしい気配になった。アドニスは剥ぎ取るように強引にヴィヴィアンのエプロンを脱がし、腕を引いて地上へと連れて行く。
「……。ねえハティ、私も新しい服とか小物とか見に行きたいな」
「え?」
「一緒に商街区に行こうよ。えへへ」
……。
何だか妙な感じだ。
急にばたばたと今日の行動が決まっている。
特に恣意的という感じではないが、どこか、ヴィヴィアンを連れ出すいい口実が見つかった、とでもいうような。
考えすぎだろうか?
ヒラティアはいつもと同じく、花のように笑っていた。
※
※
北方において人類が特に密集した地域を都市国家と呼ぶ。
それはある程度の司法権と行政機能を備え、民主議会制度を以って政治を行う。各都市国家の周囲には広大な緩衝地帯が存在し、現在のところ都市国家間での戦争や摩擦とは無縁である。というよりも南方からの魔物の対処に忙しいため、人類同士で争っている場合ではないのだろう。
ワイアームの行政体制はやや特殊で、ワイアーム練兵学園の学長が元首を兼任している。
学園が設立されて数十年、周辺諸国からの人口流入はゆるやかに続き、今や人口15万人を超える大都市に成長した。もはやワイアームは受験生と学生の街というだけでなく、秘術探索者ギルドと強く結びついた冒険者の街という側面も持っている。
そんな中で市場の拡大と商店の大資本化は進み、ワイアームの南西部に地上九階、地下一階の巨大商店が建造された。
それがここ、ゼオールデパートである。
建造には数千人の人夫と百人以上の魔法使いが動員されたと言われ、大理石で飾られた円筒形の巨大建造物はかなりの遠距離からでも見つけられるランドマークとなっている。
内部には服飾店、食料店、書店、時計店、楽器店、鍛冶屋その他もろもろ。一日の来客数は一万三千人と言われている。北方でもここまでの巨大商業施設は他に類を見ない。
天井の高さがゆったりと確保されているためか。人でごった返しているのにかなり広く感じる。
北方でも珍しい魔法式昇降機を使って6階へ。
僕がデパートに行くのは地下一階の書店に参考書を見に行くぐらいだったが、6階より上は女性向けの服飾フロアが中心であり、客層が一変している。誰も背中を曲げて本を読みながら歩いていないし、メガネ率も低いし、詠唱をブツブツつぶやいてる人もいない。このフロアの客層はワイアームに住む市井の人々であり、受験や学問とは無縁なのだろう。
明るい色のきらびやかな服を着た女性の一団とすれ違う。僕は反射的に肩をすぼめてしまう。
どうも落ち着かない。フロアに男性が極端に少ないか、いても女性連れのカップルのためだろうか。いや僕だってそうなんだけど、なんだかとても不似合いな場所に居る気がして緊張してしまう。
僕はいつものような茶色のマントに、黒いズボンと薄水色のシャツ。我ながら服装のバリエーションというものが全く無いのが悲しくなる。
ヒラティアはというと、赤いボタンで装飾された白いワンピースという姿だった。首からは青い宝石のはまったネックレスを下げ、手は銀のブレスレットで飾っている。ここしばらく宿屋の看板娘だとか、戦士としてのヒラティアばかり見ていたので、そんな姿は何だか新鮮に見えた。
「あっ、あれかわいい」
店内を悠然と歩くお洒落な少女たち。
ヒラティアがその女性の一人をつかまえ、僕の方へと連れてくる。
「ねえねえ、この髪飾り、かわいいでしょ?」
「う、うん、まあね」
栗色の髪で目が大きく、僕よりもずっと背が低い可愛らしい女性だった。赤いサンゴ製の髪飾りを身に着けていたが、ヒラティアはその子の髪飾りに手を触れ、
「これ一つお願い」
と言う。すると、少女の髪の毛の一部がぼやけ、するりと髪飾りが抜け落ちてヒラティアの手の中に落ちる。
「ありがとうございます。お値段は――」
と、その少女が一礼をして、ヒラティアからお金を受け取った。すると、その姿が霧のように消え、ひとかたまりの雲になってフロアのどこかへ流れていく。霧の中に、彼女が身に着けていた装飾やら服やら下着やらがひと塊になって一緒に流れていく。
操幽霧の魔法だ。
栗色の髪の彼女は使い魔であり、言わばモデルだ。商品を身につけたままデパート内を自由に歩き回っている。店頭での品揃えの他に、このような使い魔を放っている店がいくつかある。
簡単な思考を持ち、会話もこなせる高度な使い魔だが、一度役割を果たすと霧に戻ってしまい、専用の魔法陣の中に戻らねば復元できない。なので、あの霧はまたデパートの何処かにある魔法陣へと戻り、また少女の姿に復元され、散らばった下着やら小物をすべて身につけなおさねばならないわけだ。面倒なことだが仕方がないのだろう。すぐれた使い魔にも欠点はあるものだ。
見分ける方法は使い魔に独特の眼の色だったり、歩き方だったり表情だったりするらしいが、正直僕にはよく分からない。ヒラティアに言わせると「すぐに分かるよ?」とのことだが。
これ以外にも本に全ての装飾品を格納している、見た目が本屋にしか見えない宝石店とか。
重力をひそかに弱くして、剣や鎧の重さをごまかしている武器店とか。宣伝のためだったり商売のためだったり、様々な用途に魔法が使われている。
髪飾りを頭に付けながら、ヒラティアが言う。
「どう?」
「うん、似合うよ」
素直にそう言う。
「えへへへ」
ヒラティアは妙に締りのない顔でゆるやかに笑う。一緒に買物に行くぐらい今までもあったことなのに、今日は妙に浮かれている……と思うのは考えすぎだろうか。
さらに何軒かを回って。
「ちょっと待っててね」
と言ってヒラティアが入るのは小さな試着室、淡い色彩に埋め尽くされたお店で、僕は取り残されて少しソワソワする。
「うーん、僕も服とか見ておきたいけど、ここらへんは女性向けのお店ばかりだし……他のフロアに行くのもなあ」
そうして周囲を見回していると。
「はあ……、私にはこういう色合いは派手すぎるのでは……」
「とりあえず試着室で着替えてみてはどうです」
と、声が聞こえる。
首をくるりと巡らすと、そこにヴィヴィアンとアドニスがいた。
二人とも、このフロアに買い物に来ていたようだ。
「うーん、ねえハティ、背中のチャックがしまらないよー」
「あ、無理しないで、壊したら大変だ」
「ちょっと見てみて、大丈夫、ちゃんと着てるから」
「わかったよ」
僕は人から誤解を受けぬように、周囲を見回してからさっと入る。試着室の中にある靴箱に靴を入れる。
試着室はごく小さなもので、鮮やかな青のカーテンだけが目隠しになっている。ヒラティアは背中に腕を回してもぞもぞしている。
「引っ掛かってるよー」
「ああ大丈夫、この部分だけ指で外せば」
その時。
「随分小さな部屋ですね?」
「試着室をご存じないのですか? この中で買った商品を試しに身に付けることができるのです」
「それは大変よいサービスですね」
そしてカーテンをくぐり抜け、ヴィヴィアンが中に入ってくる。
「あら……?」
「どうかしましたか?」とアドニスの声。
「あ、いえ、何でもありません」ヴィヴィアンがそのように返す。
いや! 何でもなくないから!
僕が声を上げようとした瞬間。
「……着替えながらで宜しいので、聞いてください。一度、あなたに伺っておきたいことがあったのです」
「今日、連れ出していただいたのはそのためだったのですね?」
「そうです、貴女にとって、あの術の媒体という役割にどのような意味があるのかを」
いや何か重要な話をしようとするのやめて! 僕らもいるから!
このままではまた最終的にアドニスに殴られる気がする。さすがに声を上げようとした瞬間。
ヒラティアの腕が僕の頭を押さえ、口を塞いでしまう。
「むぐっ」
「あ、あう、ど、どうしよう」
ヒラティアはどうしていいか分からず狼狽している。目がぐるぐる回って、手で口を押さえつつ汗をかく。僕が言うのも何だけど、ヒラティアは時々こうなる。戦闘においては天才なのに、予期せぬ場面でまったく融通が効かなくなるのだ。
だからとんでもない誤解をしたり、テンパった挙げ句に森を半分吹き飛ばしたり、そんなことが何度もあった。
ヒラティアはきっと僕を守っているつもりなのだろう。し、しかし、この状態で身動きとれなくなるって、すさまじく危険な予感が。
ヒラティアの手を振りほどこうにも、紙一枚の厚みほども動かない、おそらく屈強な騎士でも同様だろう。
「分かりました、私の言葉をお望みでしたら、誠実に答えさせていただきます」
そう言ってヴィヴィアンは、それはアドニスに僕らの存在を悟られまいと言うわけでもなく、そもそも根本的に感覚がずれてる部分があるためか。
おもむろにマントを落として、帯状の民族衣装をほどきだすのだった。




